第5話 堀越とニーチェ
たっぷり時間をかけて淹れたコーヒーをカップに注ぐ。一つにはミルクを一つ、もう一つにはミルクを二つと角砂糖を一つ。ミルク一つのカップをカオルの席の脇に置いて、もう一つを持ってサナエは堀越の部屋へ繋がる扉をノックした。大学教授の執務室と学生の部屋がドア一枚で繋がっているのには、都合の良い場合と悪い場合がある。朝のコーヒーを給仕する場合に限っては、いちいち廊下に出る必要がなく、都合が良い。
くぐもった声が返ってきたので、サナエはドアを開け、堀越教授の執務室に入った。
「先生、おはようございます」
「ああ、飯塚さん。おはよう」
「コーヒーお持ちしました」
堀越は奥の机で作業中の手を止め、サナエの方に向き直った。明るめの青いストライプの入った白いシャツが痩身の体躯に映えていたし、グレーのズボンがシャツと良く合っていた。年齢は50代半ばであるが、10歳くらいは若く見られることもあった。
「そこの机に置いてくれればいいよ」堀越は応接机を指して言った。
堀越がこう言う場合、何か話があるという合図であることを、サナエは最近になって気づいた。応接机の脇で立っていると、そろそろと堀越が近づいてきて、机の前のソファーに腰かけた。サナエも向かいの席に腰を下ろした。応接セットは堀越が植物生理学教室に着任する前からこの部屋にあった備品のようで、焦げ茶色の天板には細かい傷やへこみが至るところにある。それでも堀越はこの机が気に入っていて、サナエが休日にふらりと研究室に顔を出した時に、腕まくりをし、丁寧に表面を磨いている堀越の姿を見たことがある。換気のために執務室の扉を開け放っていたが、堀越はサナエが部屋の前を通ったことにも気づかずにいた。
「どうだ、最近は。順調に進んでいるかい?」
「はい。学会の準備をそろそろ始めようかと思っています。実験結果については先日のゼミで発表した通りですが、追加の実験を行って、指摘された事項については補強をしています」
堀越はコーヒーを飲みながら時折覗いている。堀越は追加実験の手法や結果を簡単に確認し、いくつか質問をした。温度条件を変えた実験はするのか、対照実験が目的に沿うものなのかなど、実験結果とその後の考察に対するサナエの考え方に誤りや無駄がないかを点検していった。
堀越と面と向かって話をする機会は以外と少ない。生物学科の専門分野の授業はもちろん理学部と教育学部の教養科目も受け持っており、その間隙を縫うように教授会や打ち合わせがあるので、部屋にいる時間は限られている。
大抵の場合は静かにサナエの研究の話を聞いているだけだったが、時には研究への向き合い方など説教めいたことを言うこともあるし、研究とは関係のない雑談をすることもあった。堀越がこうしてサナエと話す時間を持つのはせいぜい週に一回くらいだが、サナエにとっては貴重な時間だった。
「飯塚さん、こんな言葉を知っているかい?」
一通り研究の話をしたあと、堀越が話題を変えた。コーヒーはカップに半分くらい残っていた。
「『環境は、人の思いから生まれるものである』環境と自己の結びつきを端的に表現した言葉だ」
「聞いたことがあります。確か、ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』にそんなことが書いてあったような」
「そう。一見周りに原因があるようなことでも、ひょっとすると自分自身の考え方や行動がそのような環境を作っているのかもしれない。アレンは原因を内側の心に、結果を外側の世界にそれぞれ求めているんだ」
堀越は淡々と話をしている。いったい何の話なのか、サナエは当惑しながら聞いていた。堀越はたまに哲学者や思想家の言葉を引用して説法のようなことを言うことがあった。
「先生がニーチェを引用し始めちゃってさ、もう何が何やら」
カオルがそう話していたのを思い出した。
「『新嶋さん、生きた魚を手にするためにはどうすればいいと思いますか?』って突然切り出して、最初なんにも分かんなくてさ、魚屋さんですか? とか言っちゃって、空気が凍った」
「仕方ないよね、ニーチェだなんて、読んだことないもん」
「ね。でもまあ、それは『自分の生きた意見を持つ』っていうくだりの一部らしくて、私の研究のこととか、そういうのを諭すっていうか、励ますっていうか、そういう感じたったっぽい」
その前の日はカオルのゼミだった。その時のカオルは、自分の研究に行き詰まりを感じていた。自信の無さが伝わり、実験計画や考察の方向性について助手の青木や博士課程の木村にさんざん指摘を受けていた。暗澹とした空気の中、カオルは孤軍奮闘といったところだったが、明らかに分が悪かった。先行研究の焼き直しだというのはカオルが一番分かっていたことだが、当時のカオルは完全に向かうべき方向を見失い、墜落寸前だった。そのまま空中分解をするようにゼミが終わり、カオルはかなり落ち込んでいたように見えた。
そんなことがあった次の日に、カオルは珍しくコーヒーを淹れて堀越のところに持っていった。行ったきり、ずいぶん話し込んでいると思ってカオルを待っていたが、戻ってきたカオルはいくぶん顔色が良くなっていた。そして、堀越が語ったニーチェの言葉をサナエに話したのだ。
「それはまた回りくどい。先生らしいといえば先生らしいけど」
「きっと私、色々考えすぎていて、あの論文もこの論文もって引用していたら、いったい自分が何を目的に実験しているのか分からなくなっていたんだと思うんだ。だから、もう一度自分の実験を最初から見直そうかなって」
堀越は直接的なことはあまり言わない。サナエやカオルにはヒントしか与えない。その分、彼女たちは自分の頭で考え、問題を整理し、解決策を導きだす。それが堀越のやり方だった。
「そっか。最近ゼミも厳しくなったし、私もヤバいんだよな」
「魚の化石を買わないようにね」カオルは意地悪く言った。
「え? それもニーチェなわけ?」
「たぶんね。最後に先生がそんなこと言ってた」
化石とはまた、いったいどういう意味だろうかとサナエが考えているうちに、カオルは白衣を羽織って、研究室を出ていった。
堀越はジェームズ・アレンの、信念や理想と成功の関係や心の強さなどをとうとうと話したあと、「そういえば」と呟き、カップを口に付けた。コーヒーはまだ三分の一くらい残っている。
「お父さんはまだ元気ですか?」
「ええ。たまには帰って来いってうるさいくらいで」
堀越と父が学生時代の友人だったということをサナエが知ったのは、堀越の研究室に入ろうと決めたあとだった。話したのは父だったが、その父も、まさか自分の娘が堀越の研究室の門を叩くとは想像していなかったようだ。
「サナエはもう少し違った分野に進むと思っていたんだが、そうか、植物生理学か」
三年生の春休みに松本の実家に帰省した時、父と研究室選択の話になった。松本市にある大学病院で脳外科医として勤務しているサナエの父は根っからの理系人間であったが、研究よりも実際に患者と向き合う方が性に合っていたという。
父の晩酌に付き合うのも娘の務めだと、サナエは父と同じ焼酎のお湯割りを飲んでいた。しかし、焼酎は苦手だった。特に父の飲む芋焼酎は臭いも独特で、実家でしか飲む機会のないそれに、サナエはなかなか口を付ける気になれなかった。
「そう。生物学科の中でも、分子と環境の両方を研究できる分野って限られてて。植物の方が面白そうだし、ほら、光合成の仕組みとか、実際分かったの最近だし。まだまだ理解できてない部分が多いんだって」
サナエの話を聞きながら、父はじっと考えていた。理系の学部に進学すると言った時でさえ二つ返事で承諾したのに、いったいどうしたことだろうとサナエは不思議だった。父の顔色を伺いながら焼酎を少しだけ飲んだ。アルコールが鼻腔を突き、少しむせた。
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