第3話 カフェとタンブラー
サラダはすぐに出てきた。小松菜とコーンとシラスがドレッシングで和えてあった。シラスを入れているあたりが湘南なのだろうか。
サナエは取り皿にサラダを盛り、コウタに渡した。
「ありがとう」コウタは受け取ると、箸を付けた。サナエも自分の分をよそって、サラダを口に運んだ。小松菜のわずかな苦みとシラスの塩分が程よく舌を刺激する。これは、確かに美味しい。
「美味しいね。このサラダ」
「ああ、いけるいける。シラスが湘南っぽいのかな、やっぱり」
「たぶんね。シラス丼とかも置いてるみたいだし、今度はそれも食べよう」サナエはシラスがどんぶりいっぱいに敷き詰められた姿を想像する。新鮮な魚介類が食べられるのは、やはり海沿いの街の特権なのだろう。
「生のシラスはおいしいんだろうな」
サラダを一通り食べ終わった頃に、パスタが運ばれてきた。コウタのパスタにはまたシラスが入っていた。シラスとシーチキン、確かに海鮮だが、どうやらコウタの想像とは少し違ったらしい。コウタは左の眉を下げて、しばらく皿を見つめていた。サナエはその仕草が可笑しくて堪らなかった。
パスタも美味しかった。食事中、何組かの客が扉を開いては、店主から断られて出ていく姿が見えた。路地をずっと入ったところにあるのに、たいしたものだと思った。やはり、それなりに有名な店らしい。
コウタは不満そうだったが、サナエは満足だった。最後のコーヒーも、しっかりドリップしていたし、爽やかな苦みが心地よかった。
ゆっくりとしていた感覚はなかったが、気づけば二時間近くが経過していた。時間を忘れるというのは、あながち誇大広告でもないらしい。
店を出ても、コウタはまだ不満そうだった。
「シラスばっかだったよ。俺も別のやつにすればよかった」
「まあ、いいじゃない。美味しかったよ、コウタのシラスパスタも」
「最初からシラスパスタって書いてあったら、絶対頼まなかったよ」
「でも、あのサラダだって、シラス入っていることなんてどこにも書いてなかったから、たぶんそれでもコウタは頼んでたよ、きっと。また今度来ればいいじゃん」
来た道を引き返し、片瀬江ノ島駅に着いた。水族館は駅を回り込んだ反対側だった。
「さあ、早く行こう。帰り遅くなっちゃうよ」サナエは言った。コウタの手を握る。
「そんなに焦んなくても、水族館は逃げないから大丈夫だよ」
チケットカウンターは十人くらい並んでいた。それでも、チケットを買うだけの列に長く時間はかからなかった。サナエとコウタは乗車券を見せて、入場券を買った。
コウタは水族館の入り口に設置されたパンフレットを取り、サナエに渡した。パンフレットをぱらぱらと捲る。水族館はいくつかのブロックに別れているようだ。目玉は、相模湾に住む多種多様な生き物を展示した大型の水槽だった。高さは十メートル近くあるらしい。
水族館の中は照明を落としてあり、足下が見えるかどうかというくらい暗かった。その代わり、水槽からは光が溢れていた。通路には小さな水槽がいくつもあり、小型のエビや魚がゆらゆらと揺れていた。コウタはその一つひとつに書いてある説明書きを丁寧に読んでいた。子供に戻ったように、二人は水槽の中を覗き込み、岩陰や海藻に隠れているエビの姿を探した。エビは、その小さなはさみで敷き詰められた砂利をつまんでは口に含む動作を繰り返していた。じっと見ているだけで楽しかった。
海の生き物は陸上のそれとは違い、周りの変化に抗うことがないように思えた。水の流れに身を任せ、ゆったりと生活をしている。水槽という限られた世界であっても、彼らはいつもと変わらない日常を送っているようだ。
順路に沿って歩いていると、目の前に大きな水槽が現れた。魚やサメがゆっくりと回遊していた。中でも目を引いたのが魚の群れだった。イワシの大群だ。まるでそれが一つの生き物のように、一糸乱れぬ動きをしていた。水槽を照らす光が鱗に反射して、きらきらと瞬き、まるで宝石をちりばめたように、輝きを放っていた。群れは大きな水槽を上下左右くまなく移動していた。螺旋を描きながら潜行と浮上を繰り返し、他の魚とすれ違う時には群れが膨らみ、道を開けているようだった。
コウタも横に立って、イワシの動きを目で追っていた。コウタの目に光が反射していた。こうして二人で並んで水槽を眺めているだけで、サナエの心は落ち着いた。毎日実験室に籠ってもの言わぬ植物と向き合っているだけの日々に、コウタが潤いや安らぎを与えてくれていた。
水槽を切り裂くように忙しなく動き回っていたイワシの群れが、一カ所で回転しながらその密度を増していった。まるで、大きなクジラの姿を真似しているように見えた。
「なんか、子供の頃に国語の教科書で読んだ話を思い出したよ」コウタは言った。「小さな魚が群れを大きな魚に見立てて、自分たちを食べる大きな魚を撃退したって話」
コウタには、大きな魚に見えたらしい。サナエもその話は覚えていた。確か、仲間と違う色をした魚が主人公だったはずだ。
「そうそう。主人公だけが黒い色の魚で、周りの仲間は赤いんだ」
「自分は目になるなんて、よく考えたよね」サナエはイワシの群れを見ながら言った。さっきから忙しなく同じところを回転している。どうやら、クジラの形に化けたわけではないらしい。水槽の上から、餌をイワシめがけて落としている。我先にと餌に群がる姿がそう見えたようだ。「周りと違うことを受け入れて、それで集団を率いるだけのリーダーシップをもつだなんて、現実ではなかなか難しいかも知れないけど」
「まあ、人間と比べたらそうだろうな」コウタはじっと水槽を見つめていた。目の前の水槽を眺めていたら、自分の抱える悩みや悲しみは醜く小さなことのように思える。それでも、その矮小な部分に忸怩たるのが人間なのかもしれない。人間は魚とは違う。環境が少しでも変われば戸惑うし、自分の犯した過ちに後悔をする。そういう生き物なのだ。
水槽の中はきっとこの先もずっと変わることがないのだろう。しかし水槽の外は恐らく違う。晴れている昼もあれば嵐が吹き荒れる夜もあるだろうし、明日がどうなるのかなど、誰にも分からないのだ。
どのくらい水槽を眺めていただろう、さすがに後ろにいる人たちの視線が気になってきたので、二人は順路に沿って進むことにした。イワシの大群が目に焼き付き、他の展示にはあまり惹かれなかった。ゆっくりと歩きながらも、その先の水槽で足を止めることはなかった。その間に、イワシのイメージはだんだんと大きなクジラのそれへと形を変えていた。暗い海の中ですうっと光を放つ大きなクジラの姿が脳裏から離れなかった。
順路の最後は、こういう施設ではお決まりのお土産コーナーだった。水槽の写真やぬいぐるみなど、様々な商品が陳列してあった。気づくとサナエは、クジラのシルエットが描かれたタンブラーを手に取っていた。胸びれが不釣り合いなくらい長く伸び、体は細い。ザトウクジラを模したもののようだった。
「これにしようかな」サナエはそう呟いた。クジラのイメージは、思えばその時が初めてではなかった。コウタと初めて出会った日にも、クジラがサナエを静かに包んでいた。サナエはそのことを思い出していた。
「綺麗なタンブラーだな」コウタの言葉が後ろからサナエの耳に届いた。出会いとは不思議だとサナエは思った。コウタと並んで音楽を聞いていたあの時に確かに感じた穏やかさや柔らかい空気に、サナエは再び包まれていた。
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