第2話 江ノ島と期待

 地下鉄の出口を出ると冷たい風が首元をさらった。やはりストールを巻いてくるべきだったと後悔した。ベージュ色のスプリングコートの襟元を整える。風はサナエのすぐそばを掠め、路地を無言で駆け抜けていった。朝から空は霞んでいた。空の青でも雲の白でもない曖昧な色をしている。東京の空は、地元のそれとは雰囲気が違った。晴れていても、抜けるような青さがない。夜でも雲の形がはっきり分かるくらい明るいのも不思議だった。

 出口近くのカフェでコーヒーを注文し、自分のタンブラーに入れてもらう。ザトウクジラのシルエットが曲面に沿って大きく描かれている。深い海へ潜行するザトウクジラが胸びれを大きく広げている。青色がグラデーションを作り、クジラのシルエットを柔らかく包んでいた。そのタンブラーは、コウタと付き合い始めた頃、最初に遊びにいった水族館で買ったものだった。


 去年の十一月よく晴れた土曜日だった。サナエはJR新宿駅の西口改札前で、スマートフォンをいじりながらコウタを待っていた。サナエのそばを多くの人が通り過ぎていく。改札に吸い込まれていく人と吐き出される人が縦横無尽に歩き回っていた。大学受験のために初めて新宿駅に降り立った時、その人の多さに圧倒された。行先表示を確認しようにも、人が多すぎて看板を見つけることもできなかったのを覚えていた。それでも、四年以上東京で暮らしていれば不思議と人混みにも慣れ、いつしか自分もその人混みの一部になっていた。

 サナエは薄い花柄のあしらわれたワンピースに、カーディガンを羽織っていた。前日遅くまで実験をしていたのがたたって、その日のサナエはあまり体調が優れなかった。頭がぼんやりとして、体がだるい。折角のデートだというのに、こんなことなら根を詰めることもなかったとサナエは後悔した。出かける前に風邪薬を飲んできたから、無理をしなければ体調が悪化することもないだろうが。

「サナエさん、ごめん、遅くなった」コウタの声に顔を上げた。コウタはシャツの上からパーカーを着て、ジーパンにスニーカー姿だった。

「ううん、時間ぴったりじゃない」ちょうど十一時になったところだった。「水族館なんて久しぶりだから、楽しみ」サナエは言った。大学の友人と何度か行った程度で、最後に訪れたのは一年以上前だった。

「そっか。それじゃあ、行きますか。江ノ島までだから、少し遠いけどね」


 コウタについて、小田急線の改札に向かった。事前にどこに行くか話をしている時に、水族館に行くことを提案したのはコウタだった。関東には水族館はいくらでもあった。それこそ、池袋や品川にも水族館はあったが、どうせ行くなら少し遠出をしようということになり、結局江ノ島に決まったのだ。

 片瀬江ノ島駅に着いた頃にはお昼を過ぎていた。サナエは途中の駅で乗り換えるまで、ずっとうとうとしていた。外に出てもまだ頭がぼんやりとしていた。

「昼ご飯を食べないとな」

「うん。お腹空いた」

「お店はもう決めてるんだ」コウタはそう言って歩き出した。駅からはたくさんの人が解き放たれていたが、コウタのあとをついていくと徐々に人の波が引いていくのを感じた。人気のない路地をコウタは地図も見ずにてくてくと歩く。


「どんなお店なの?」

「それが、俺も初めてだから、これはネットのコメント欄に書いてあったんだけど、なんでも時間を忘れるくらい美味しい料理があるんだってさ」

「そうなんだ。そんなに美味しいんだ」

「その人は、そう感じたんだろうけどね。まあ、ものは試しってことで」

 狭い路地をそのまま進んでいると、住宅地の一角にそれらしいカフェが一軒だけ佇んでいた。

「あれ?」サナエが指を指した。

「たぶん、あれ」コウタがそれに答えた。軒下にお店の名前が書かれたプレートが掛かっていた。入り口は小さく、そして中も相当狭かった。テーブルが二つしかなかった。コウタが予約をしてある旨を店員に伝えると、二人は空いているテーブルに案内された。


 メニューは観光地のカフェらしく、小洒落た感じで、つまり名前から料理のイメージが湧きにくいものばかりだった。

「何かお薦めのメニューってあるの、この店?」

「いや、何でも美味しいってさ。ほら、そこにも書いてあるじゃん」コウタの指差す先に、日替わりメニューが書かれたプレートがあった。その一番下に大きく『当店ではすべてのメニューがお薦めです』と赤い文字で書いてあった。相当な自信だとサナエは思った。

「じゃあ、私はアラビアータとコーヒーにする」サナエは深く考えることなく、よく食べているパスタを注文することにした。

「え、もう決めたの? 早いな」コウタはメニューを指で追いながら一つずつ内容を確認しているようだった。「じゃあ、俺はこの湘南の採れたてサラダと海鮮スープパスタとコーヒーにする」

 コウタは店員を呼んで、注文を伝えた。

「それにしても、このお店すごいね。二組しか入れないなんて」

「予約しておいて正解だったよ」コウタは安心した様子だった。初めてのデートで、最初の食事はきっと重要だと、男の人は考えるだろう。何事も第一印象が大切だと。もちろんサナエもそうだった。高校生の頃は、初めてということもあって、ときめきだったりサプライズだったり、色々なことを相手に期待していた。しかし、事情があってそれがうまくいかないこともある。十代の頃のサナエにはそれが耐えられなかった。ひとたび相手に不満を持つようになると、もう相手の悪いところしか目に入らなくなる。喧嘩ばかりが増え、笑顔が減っていった。そして別れる。その次の相手も、結局同じような展開を辿っていった。

 サナエは長く交際することができないでいた。それは、結局のところ期待の大きさに不満が反比例していたからだ。期待値が低くなると、逆に不満が心を満たしていくようになっていた。そんなことが続き、しばらく男の人から距離をとっていたのだ。

 それでも、大学を卒業し、大学院に進学したあたりから、恋愛に対してのこだわりや期待感が薄くなっていった。それは、男性に魅力を感じなくなる、ということではなかった。特別な何かを求めるよりも、一緒にいる時間を大切にしよう、と思うようになった。そう思うと、恋愛をすることに構えたり臆したりすることがなくなった。

 相手に期待をするということは、自分の思い通りになることを望むことだ。しかし、それが簡単ではないことを、サナエは自分の体験から痛感していた。だから、コウタには期待をしていない。こんなことコウタが聞いたらきっと怒るだろうが、別にデートで失敗をしたからといって、目くじらを立てることはない、ということだ。店がいっぱいなら別の店を探せばいい。二人で歩いていくことの方がよほど有意義だ。だから、この店の料理がどうであれ、この場所でコウタと向かい合っていることが一番大切なのだ。

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