夢のクジラ

長谷川ルイ

第1話 ワンピースと面影

 小さい頃のことを最近よく思い出す。それは主に母との他愛もないおしゃべりだったり喧嘩だったりするのだが、寝る間際になると決まって母の顔が浮かび、あの頃と同じように語りかけてくる。大抵はそのまま眠ってしまうが、時には寝付けないこともあるし、夢にまで出てくることもある。松本の実家を離れてもう五年が経とうとしているというのに、どうして今になって母の記憶ばかり蘇ってくるのだろうかと、サナエはベッドの中で静かに考えていた。母は決まって真っ白なワンピースを着ていた。サナエは母のワンピース姿が好きだった。ふわふわとして優しい肌触りが好きだったし、それを着ている母の温かく柔らかな雰囲気が好きだった。幼い頃は、早く母のようになりたいと思っていた。

 最初に思い出すのは小学校に入学する日の朝の光景だった。真っ赤なランドセルがこの世のすべての災厄から守ってくれると信じて疑わない当時のサナエは、パジャマのままランドセルを背負って朝食を食べていた。背もたれにランドセルが当たって満足に椅子に座れないものだから、半分立って食べていた。さすがの父も困惑していたと思う。

「サナエ、ランドセルはご飯を食べてからになさい」

 父がそう言ってもサナエは聞こえないふりをしていた。こんなに真っ赤なランドセルを手放すくらいなら、いっそのこと死んだ方がましだと半ば本気で思っていた。そこに、洗濯を終えた母がやってきた。

 サナエを見た母は目を大きく瞬いて、そして笑った。母はサナエの頭をぎゅっと抱きすくめた。芳香剤の柔らかい香りがくすぐったかった。

「サナエ、いよいよ今日から小学生ね。小学生は、ランドセル背負ったままご飯食べちゃいけないのよ。なんでか分かる?」母はサナエを抱きながら言った。

「えぇー、じゃあ私小学生になるのやめる」

「じゃあ、ランドセルは必要ないじゃない?」

「やーだー!」

 サナエは意地になっていた。ランドセルを手放すくらいなら、小学生になどならなくていいと半ば本気で考えていた。

「ランドセルにはね、学校の思い出をたくさん貯めておくポケットがあるの。普段は見えないけど、ポケットは確かにあって、これからサナエが小学校で見るもの、聞くもの、感じるものをたくさんたくさん入れておくことができるの。でもね、おうちでランドセル背負っていると、せっかくの学校の思い出が入らなくなっちゃうの。幼稚園の時のこと、まだ覚えているでしょ?」

 サナエは思わず頷いた。

「それは幼稚園のバッグにあるポケットに思い出がちゃんと入っているからよ。だから、ランドセルはお家を出るまで背負っちゃだめよ。楽しい出来事をいつまでも覚えていられるように」

 サナエはむー、と唸りながら、ランドセルを下ろして足下に丁寧に置き、椅子に座った。母はよしよしとサナエの頭を撫でた。サナエはうつむいたままオレンジジュースを一口含んだ。


 サナエは目を開けた。寝室は暗い。ちかちかとモデムの赤いランプが点滅していた。横では、恋人のコウタが規則的な寝息を立てている。窓の外から時折車の走る音が聞こえたが、寝室は海底のように静かだった。静寂のなかでサナエは母の記憶のことに思いを巡らせた。母の記憶は深い海の底に漂う深海魚のように、こちらから探してもなかなか現れようとしないのに、不意に向こうから近づいてくる。一度近くまでやって来ると、しばらく目の届く範囲をふらふらとして、急に踵を返して光の届かない闇の向こうに消えてしまう。深海魚が必ずそこにいるように、母の記憶も間違いなくサナエの中にあった。光の届かない真っ暗な海の底で、それは様々に形を変えて唐突にサナエの眼前に姿を現すのだ。

 サナエの母は八年前の二月に交通事故でこの世を去った。サナエの高校受験当日の午前、母は自転車で外出中に信号無視の車と出会い頭に衝突し、そのまま命を落とした。サナエはその朝の抜けるような空や、かじかむ指先、高まる緊張をつい昨日のように思うことがある。道路脇の公園には、前日の夜に降った雪がうっすらと残っていたことも、その公園のベンチにスズメが留っていたのもはっきりと覚えていた。

 母の事故はサナエが試験を終えるまで伝えられなかった。最後の科目が終了した時、試験監督をしていた高校の教師がサナエに近づいて、サナエをそっと教室の外に呼び出した。廊下の端には中学の担任と学年主任が暗い顔をして立っていた。

「飯塚、落ち着いて、よく聞きなさい。君のお母さんが事故にあってね、危険な状態らしい。すぐに病院に向かいなさい」

 サナエは何が起こったのか、すぐには理解できなかった。事故とはいったいなんだろう。母が事故にあうなんて、考えたこともなかった。サナエは荷物をまとめてすぐに高校を出て、担任と一緒に病院に向かった。母が搬送された病院は父の勤める大学病院だった。タクシーに揺られながら、サナエはじっと下を向いて、バッグの端を強く握りしめていた。無事を祈る気持ちと、死んでいたらどうしようという不安感が頭の中を代わる代わる占拠していた。高校から病院までは数キロしかなかったが、永遠に着かないのではないかと感じた。病院に着かなければ母の安否は分からないが、そうなれば事実を知らなくて済むのではないか。このように考えている時点で、なんとなく予感めいたものを感じていたのかもしれなかった。

 母はサナエが病院に着いた時には既に息を引き取っていた。

 遺体には父が対面した。沈痛な面持ちで白衣を着たまま遺体安置室に入っていった。サナエはどうしても母の顔を見ることができなかった。父を待つ間、サナエは病院の廊下に腰を下ろし、ひたすら泣いていた。廊下は暗く、非常口を示す緑色の明かりがぼんやりと浮かんで見えた。家族の非常事態には力にならないと、固く扉を閉ざしていた。父はその時、何を思っていたのだろう。伴侶をなくした悲しみ、喪失感、想像しようとしてもできるものではなかった。


 ベッドをゆっくりと離れ、洗面所で顔を洗った。水は冷たく、少しだけ心臓の鼓動が早くなる。鏡にはついに好きになれなかった自分の顔が映っている。額のニキビが赤く腫れている。年を重ねるにつれ、だんだん母の面影が強くなっている気がする。以前から実家に帰るたびに父はそう言って懐かしがっていたが、彼女自身それを自覚するようになったのは最近のことだ。母のことを思い出すようになったからなのか、それとも自分の顔に母の面影を重ねることが母の記憶を呼び起こすのか、サナエには判断がつかなかった。母の記憶はいつも唐突だった。ワンピースを着ているだけで、母のことが頭をよぎったこともあった。それ以来、サナエはワンピースを着ることがなくなった。意識しないようにすることをずっと意識していることほどつらいことはなかった。

 時刻は既に二時を回っていた。台所の冷蔵庫が小さく低い唸り声をあげている。足音を立てないようにゆっくりと部屋に戻った。

「どうした?」コウタが首だけを彼女の方に向けて言った。

「なんでもないの。ごめん、起こしちゃった?」ベッドに潜り込みながら、サナエは答えた。

「また、眠れないのか?」

 コウタには研究で張りつめていて寝付きが悪いとだけ言っていた。母のことを思い出すようになってから、こうしてなかなか眠れない日が週に何度かあった。コウタに気づかれないように、なるべくベッドを離れないようにしていた。コウタに心配をかけさせたくなかった。

「うん。でも大丈夫だから」

 コウタは左眉を下げ、じっとサナエを見つめていたが、大丈夫と思ったのか、結局は元の体勢に戻った。すぐに規則的な寝息を立て始めた。この年下の恋人は、いつも寝付きがいい。まるで眠りのスイッチが体のどこかにあって、それを押すことでシャットダウンしているようだ。ゆっくりと上下に振幅を繰り返す腹部を、サナエはしばらくの間ぼんやりと眺めていた。コウタには、母のことは話していなかった。話さなければ、コウタが知ることもなく、そのことでコウタが胸を痛めることもない。コウタが母の不在を知ってしまったら、今のように気兼ねなく付き合うことができないと感じていた。母のいないサナエというように形容されるのが嫌だった。今のまま、ただのサナエでいたかった。

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