第69話 1000年の約束

 クレフとイグレッドの会談に立ち会った日の夜のこと、俺はスクレナの姿を探して宿の中を歩き回っていた。


 別行動をとってからもう半日程度が経過しているが、大して身を案じているわけではない。

 あいつを狙うに足るほどの人数による襲撃があれば、きっと今ごろは街中から騒ぎが聞こえてきているだろうからな。

 寧ろスクレナの方が周囲に迷惑をかけてるんじゃないか?


 懸念すべきは日が昇った時に誰かと一緒じゃなきゃ、徐々に濃度が上がる光の魔素によって体に害を及ぼす。

 もし俺が心配しているとすればそこらへんだ。

 だからこうして自分の足で捜索しているわけで……


 いや、自分を誤魔化したところで仕方がない。

 出会ったばかりの頃は確かに鬱陶しいと思っていた。

 だけど常若の国で過ごしていた時に感じたが、あいつが影の中に入っていないと落ち着かないし、なんだか物足りない気分になる。

 掻い摘んで言えば「寂しい」のだろう。

 こんなことを言葉にすれば、向こうがどんな顔になるかなど想像するのは容易だ。

 口が裂けても言えはしないけどな。


 訪れる箇所も限られてきたからか、俺はまだ入ったこともない目立たぬ扉の存在に気付く。

 開けてみると、その先は広めのルーフバルコニーだった。

 そしてどうやら正解を引き当てたようだ。

 レンガで造られた塀に腰掛けていたのは、溶け込むほどに夜の闇がよく似合う見知った女性。

 膝をかかえながら、数多の宝石が散りばめられた漆黒の空を見上げている。


「エルトか……」


 こちらが声をかける前に、女王は振り返ることもなく俺の名前を呼ぶ。

 それに対して別段驚きもせず、彼女の近くまで歩み寄った。


「隣、いいか?」


 スクレナからは返事もなければ、頷くことさえしない。

 だけどその沈黙が、肯定の意を示しているのを雰囲気から汲み取れた。


 横に腰かけてからすぐに顔を上げ、俺も同じものを眺める。

 そうしたままどのくらいの時間が経過しただろう。

 少なくとも普段とは様子が異なると分かるくらいは経っているか。

 いつもなら向こうからペラペラと絶え間なく話題が提供され、俺が「うん、うん」と頷く。

 たまのこっちの返しで笑ったり、怒ったり。

 とにかくこれほど長い時間、静寂に包まれるということはなかった。


 だからこそ柄にもなく気を使っているのかもしれない。

 軽口を叩けない限定された空気感の中で、一生懸命に話題を探していたのは。

 そこで頭に浮かんだのは、ちょうどいい具合に真面目で重要な連絡事項だった。

 皆が自由に好きな場所で過ごしているせいで個々に会いに行った為、もはや誰に伝えたのかを失念しそうになっていた件である。


「そういえば急な決定だけど、出陣が翌々日になったんだ」


 イグレッドが退席した後に、クレフがその場にいる全員に宣言したこと。

 もちろん突発的に思いついたのではなく、剣聖の訪問とは関係なしに最初から伝えるつもりだったようだ。

 何度かに分けて送った先発隊は、既に侵攻してくる帝国軍と小競り合いを繰り広げている。

 敗走の連続ではあるものの、これは相手の足を鈍らせるのが目的であったので、役目は十分に果たしてくれていると言えよう。

 おかげで俺たちが組み込まれる本隊の準備は万全となり、いよいよ出陣という流れとなった。


「そうか、この2、3日のうちにとは予想していたがな」


 まるで毎年行われる収穫祭の日程を聞いた村人のように淡々とした返しだった。

 そのたった一言を最後にまた寂として声なく、眼下に広がる街の音がよりハッキリと聞こえてくる。

 その時間の中でふとスクレナが抱いている感情を察して、思わず直接問うことで確認してしまった。

 なぜなら俺にとってはあまりにも意外で、だからこそ気がかりになってしまったのだ。


「もしかして……怖いのか?」


 自分で聞いておきながらまだ半信半疑であったが、微かに揺れる肩が正解だと物語る。

 別にいつもの調子でからかったわけではない。

 相手もそれが分かっているからこそ、声を荒らげることもないのだろう。

 しかしこれまで幾度となくこいつが戦うところを見てきたが、一度たりとも危うくなった場面に遭遇した記憶はない。

 今の時代において純粋に力で適う者がいなければ、俺のように経験不足で苦悶することもない。

 一体何が不安要素となり得るというのか。


「確かに我の力は人並外れているという自負はある。それが封じられる前の時代よりもさらに顕著になっているのも、この世に舞い戻ってからすぐに感じた。だがなエルト、戦とは、とりわけ大規模な集団戦というものはそう簡単ではないのだ」


 ようやく向けられた目は、驕りなど微塵も感じさせない真剣なものだった。


「敵と対峙する時は必ずしも個々にとは限らない。ひとりを必要以上に大人数で囲んで持久戦を仕掛ければ、いずれその者は限界を迎え力尽きるだろう。もしくは途中で集中力を切らせた為に死角からの攻撃を食らって倒れるかもしれない。そうでなくとも障害となる個人に特化した策を事前に練っていることもある。当然それは戦場に立つ誰にでも言えること」


 スクレナは再び果てしなく広がる闇を仰いで何かを見つめる。

 そこに映るものが彼女だけにしか浮かび上がらないのは、きっと頭の中から投影されているがゆえであろう。


「自分の死はさることながら、何よりも闘将たちと、友である者たちとの別離に毎度ながら恐怖を感じるのだ。もちろん各々が覚悟を固めて戦いに挑んでおる。だがそんなものは、いざという時が来た場合に否定的な感情を緩和するだけのものに過ぎず、決して哀情を拭いさりはせぬ。いくら経験しようが……いや、まともな精神を持ち合わせておれば、経験を重ねるからこそ心に刻まれる傷跡は深くなっていくのだ」


 記憶の旅から帰還したスクレナは、憂いを帯びた目によってその気持ちを訴えかけてくる。

 あれだけ常時行動を共にした末に、俺が抱いていた印象を覆す目を。

 当初の俺には帝国と王国の戦争に加わる目的も理由もなく、周りの行動に流されるままだったという自覚はあった。

 一方のスクレナはというと、聖騎士の故郷で起きたティアの件で憤慨した勢いだと思っていた。

 そう、リスクを伴う戦いにまで積極的である。

 つまりは好戦的なのだと。

 だけどさっきの本音を聞けば、俺も意識の外で世界に溢れる物語や逸話によるイメージの影響を強く受けていたと分かる。

 そうなると真なる目的はまた別にあるということか。


「今の身内の戦力では巨大な軍事国家を相手にするのは難しい。だからあの時に話を耳にした瞬間、好機と見て相手となる王国を利用しようという思惑が浮かんだのだ。うっかり必要のない宣言をした辺り、多少は頭に血が上っていたのだろうがな」


 スクレナからは帝国との、とりわけ宰相であるルーチェスとの戦いは避けて通れないと教えられた。

 別に怖気づいたわけではないが、そこらへんでも疑問に思うことがある。

 俺たちが旅を始めた際に打ち立てた目的はかつての仲間を探し出し、ザラハイムを復活させること。

 ならばわざわざ目立ってこちらから仕掛ける必要があるだろうか?

 永久にとは言わないが、せめてもう少し土台が整うまでは息を潜めていた方がよかったのでは。


「此度の戦争を好機と捉えた訳はまだある。お前も知っての通り、今この世界においては全ての属性の中で光の魔素が最も強いのだ」


 もちろん知っている。

 出会ってすぐに聞いた話だし、だからこそさっきまで懸命になってこいつを探していたんだ。

 それに先日ドルコミィリスにだって言われもした。

 均衡を取り戻すために闇を持って光を押し返してほしいと。

 精神世界で話したのは秘密にとのことだから、この部分は口外できないが。


「それを在るべき形に戻すには、まさに今回のような状況がうってつけなのだ。勝利することでより多くの人間の前評判を覆す、このシチュエーションがな。もっとも、我を封じたあの男が敵として立ち塞がった当時の戦いに比べれば、絶望するほどでもないのだが」


「聖耀の剣神か」


 イグレッドの話の中に出てきた名前を無意識のうちに呟いていた。

 まさか知っているとは思いもしなかっただろうし、耳にしたスクレナが驚くのも無理はない。

 だけどその驚きようといったら随分と過剰なような気がする。

 まぁ、気が遠くなるほどの時を狭い空間で過ごした体験がない俺には、どれだけ恨みや憎しみが深いのかなど計り知れるものではないが。


「因縁深い相手というわけだな」


「う、うむ……そうだな。何せ……その……」


 スクレナは口ごもりながら、膝を抱いたまま自分の指同士を忙しなく絡め合う。

 何かを伝えようとしながらも、直前になって躊躇するのを繰り返しているように。


「あいつとは、恋仲だったからな」


「……はい?」


 反射的に口から出た素っ頓狂な声が、まるで小気味よい相槌のようだった。


 いや待て待て! そんなにスッキリと理解できる内容じゃなかっただろう。

 こいつの口から恋という単語が出てくるなんて簡単に流せるはずもない。

 それに今話題にしていたのは闇の女王を封印してザラハイムを壊滅させた者。

 つまりは怨敵のはずだ。

 もしかして最初から互いに話が噛み合ってなかったのか?


「いや、そういうわけではない。おそらく言葉足らずの部分もあったせいで誤解を生じさせてしまっておるのだろう。剣神と呼ばれた男エリオスは、我の首を取るようにと命を受けるも、決戦の最中の一騎打ちに乗じて封印の術を施し、異界との狭間にある空間に隠したのだ。依頼を出した者の目を謀るようにな」


 その男の意図は分かった。

 結果として闇の女王の身を護ったということも。

 だけどやはり納得がいかないのは、なぜ命令に背いてでも相思相愛である女性の手を取らなかったのかだ。

 かつてはどれほどの猛者がいたのかは知らないが、スクレナが適わなかったほどの戦士なんだ。

 闘将らを加えて共に陣頭に立てば、ザラハイムの勝利はあり得たのではないか?


「ああ、確かに剣神はこの世界の歴史の中において最強の存在と言えよう。だがそれは不可能だったのだ。エリオスを否定的な目で見る者たちが『雁字搦がんじがらめの太陽』と嘲笑していた通り、彼には決して反逆者となれない枷があってな」


 スクレナは自分の胸に手を添えると、まるで凍てつく寒さを凌ぐかのように、背を丸めて身を縮めた。


「限られた選択肢の中ではそれが最善だったと我も思う。互いが引き裂かれるのもほとぼりが冷めるまでだと考えていたからな。だからこそあいつは、別れの間際にすぐの再会を約束してくれたのであろう」


「すぐ? すぐってなんだよ。それから1000年も放ったらかしだったんだろう? それともお前らにとってはそれくらい大した時間じゃなかったってのか? そんなわけないよな。その場では体のいいことを言って丸め込んだのかもしれないし、戦が終わっていざ平和になったら真新しい人生を歩み始めたのかもしれない。故意にしろ、失念していたにしろ、何としても果たさなければならない大切な人との約束を反故にするなんて、最低の……う、嘘つき野郎だ」


「ふふ、本当にな」


 分かっている……ちゃんと分かっているんだ。

 今、自分がすごく嫌な奴になってるってことくらい。

 エリオスという男のその後の動向が明らかではないまま一方的に貶しているのだから。

 スクレナにとっては彼そのものが大切な記憶であるだろうに。

 俺なんてその時代に描いていた関係の円の外にいる部外者なのに。

 それでもスクレナはいつもみたいに怒りもせず、静かに苦笑するだけ。

 この表情が余計に俺を情けなく、心苦しく、そして辛くする。


 だけど意識していながらもつい口走ってしまったのは、ふたりが恋仲だと知って以降ずっとイライラしていたからだ。


 なんてことはない。

 ただ単純に嫉妬しているだけのこと。

 スクレナとの契約を交わしたという事実が、闘将たちと同様に特別な存在なのだと俺に思わせていた。

 いや、忠義の騎士として並び立てと求める言葉が、それ以上に感じさせていたかもしれない。

 旅を続けるうちに……もしかしたら最初からだったのだろうか。

 その思いが俺の独自性を形成し、誉れになっていたのは。


 これまでずっと可能性の意味を含む曖昧な物言いをしてきたけど、誤魔化しがきかないくらいにハッキリとした。


 俺はスクレナが好きなんだ。

 主としてなんかではなく、ひとりの女性として。


 この数年、歩んできた旅路の中でスクレナはいつだって寄り添いながら導いてくれたり、必要とあらば時には突き放したりと、常に隣で変わりゆく俺を見てくれていた。

 もしかしたら自分の為にやっていただけかもしれない。

 だけどその真意なんて二の次だ。

 毎日共に過ごしていれば腹を立てることもあった、嫌な部分を見てしまうこともあった。

 こんな生活だって、その気になれば投げ出せたはず。

 でもやはり今なお続けているのは、一緒にいることで多々あった苦しみ以上の楽しさを体験したから。

 全てをひっくるめて愛おしかったからなのだろう。


 ところがそのスクレナには唯一の特別な人がいた。

 それが分かった瞬間に、彼女にとっての自分が「その他大勢」であるように感じられた。

 闘将らやキャローナ、かつてよりザラハイムに関わってきた他の仲間たちへの接し方を見れば、スクレナが皆のことも変わらず尊んでいるのは承知している。

 そんなものは自身のいじけた思い込みだとも。


 だからこそ今ここで、俺は素直に想いを伝える決心をした。

 エリオスが実はまだどこかで生きているのか、既に死んでしまっているのかは知るところではない。

 しかしどちらだろうとも、まずは同じステージに立たない限り噛みつく資格すら得られないじゃないか。


「あのさ、いきなりな話なんだけど……どうしても伝えておきたいことがあるんだ。俺の、正直な気持ちを」


 声のトーンも、漂わせる空気も明らかに普段とは違っていたはず。

 それくらいに平常心を失ってはいたが、こういう話はちゃんと目を見て言わなければ不誠実か。

 そう思って相手の方へ向き直ると、スクレナは腕で抱き寄せた膝の上に頬を置き、覗き込むようにこっちの様子を伺っていた。

 茶化すこともなく、ただ黙ったまま真剣な眼差しで。

 元より退く気はないが、こうなればもはや前進以外の選択は不可能だ。


「らしくないと思うけど決して冗談なんかじゃない。だから、どうか笑わないで聞いてくれ。俺は……お前のことが――」


 勇気を出して吐き出そうとした想いが言葉になることはなかった。

 目を細めるスクレナが、俺の口元に人差し指をそっと添えて制したからだ。

 なぜ? もしかして告げられるのが迷惑だったのか?

 予想外の行動に混乱させられたことによって、石像のように固まってしまう。

 そんな全てが静止した時間を打破したのは、この状況を作り出した相手の方だった。


「察するところ大切な話のようだが、だからこそ今は保留にさせてもらえまいか。大戦おおいくさの直前というのはどうしても気持ちが高ぶって、その感情すら本物であるかどうかも曖昧になる場合があるからな。それに――」


 言説を続けるスクレナの笑みは変わらないまま。

 だけどそこには秘めた決断と、名残惜しさが含まれている気がした。


「その想いを表に出すには少しばかり勇み足と思えよう。言って後悔したなどと嘆かれては、いくら我でも傷心するであろうしな」


 少なくとも拒否されたわけではないことに一応は安堵するが、いまだ沈黙からは抜け出せないままだった。

 初めにスクレナが言った理屈は、今に関しては否定するところだが、意味は十分に理解できる。

 しかし後の半分はなんのことやらだ。

 機はこの時ではないと、何かを予見しているような口ぶりであったが。


「まぁ、何も考え込む必要はない。気を揉むような真似をさせてすまなかったな」


 それはこっちの台詞だと、その場で立ち上がる闇の女王を見上げて心の中で呟いた。


「以前にも言った通り、とにかくお前はそのままでよい。エルト以外の何者でもないのだから。気負ったり何かを意識をした上での変化は良い結果をもたらさぬ事例が多いのだ。だがお前は今宵、精神を強く持ち、勇気を振り絞って自分の意志を言葉とする決断を下すことができた。ふふ、出会ってすぐのウジウジして殻に閉じこもっていた頃に比べれば、ちゃんと成長しておるではないか」


 スクレナは俺の頭に手を置いて優しく搔く。

 出会ってすぐ死の淵に立ち、契約を結んだ際にもしてくれた。

 それからも何かを褒める時や、諭す時によく見せてくれた。


 ……ズルいよな。

 俺には何も言わせてくれなかったくせに、そっちは一番好きな仕草を、一番惹かれた部分を見せてくるなんて。


「さて、これから我は少し街を歩いてくるとしよう。こんな時間でないと散策することすら叶わんからな。お前も一緒にどうだ?」


「いや、俺はいいや」


 スクレナは「ふむ……」と短い返事をして塀の上から軽快に飛び降り、そのまま扉の方へと歩いていく。


「エルトよ――」


 途中で足音が止まったと思いきや、唐突に名前を呼ばれて振り返る。

 月明かりの下に浮かぶスクレナはやっぱり笑っていたが、一層輝くルビーのような赤い瞳がとりわけ印象的だった。

 まさか泣いているのか?

 涙が滲んでいるからそう見えるのか?

 でも何が発端となった?

 もしかして、それほど嫌な思いをしたとかではあるまいな。

 さっきの件から発生した俺の心の波は収まるどころか、また大きく揺れ動いたせいでさらに激しさを増していく。

 ところがそんな心境とは裏腹に、スクレナの口から出たのは取り留めのない言葉だった。



「迎えに来てくれて、ありがとう」



 ……うん?

 珍しく素直にお礼が言えるのはいいことだが、ちょっと大袈裟すぎやしないか?

 探し回ったといっても、この建物および周辺だけだったから大した労力ではなかったしな。


 真意が伝わらず眉をしかめながら首を傾げていると、それもお構いなしといった風にスクレナはバルコニーを去って行った。


 バタンと音を立てて扉が閉まると、それからの物静けさによって、この場には俺ひとりしかいないのだという現状を実感させられる。

 そのせいもあってか、少し前までのやり取りの回想が自分の中で急に始まっていった。

 すごい勢いで体が火照ってきて、むず痒い感覚が足の先からジワジワと全身へ侵食していく。

 耐えきれなくなって思わず頭を抱えながら身悶えすると、一瞬のうちに世界がひっくり返った。

 恥ずかしさのあまり湧き上がった、「全て滅びてしまえ」という自棄が現実のものとなったのか――


 なんてことはない。

 体をよじった勢いでバルコニー側へ頭から真っ逆さまに落ちただけだ。


「いってぇ……あ」


「にゃっ!?」


 意図せず寝そべった体勢になった拍子に、ここよりさらに高い屋上のへりからひょっこり顔を出している人物と目が合った。


「スズトラか。覗きなんていい趣味とは言えないな」


「違うよ! 誤解だってば!」


 スズトラはうつ伏せの状態から勢いをつけて逆立ちすると、前方へ倒れてそのまま落下してくる。

 かなり高さはあったろうに、着地時に全く音がしない辺りはさすが猫と言えよう。


「あのね! たくさん遊んだ後にあそこで日向ぼっこしてたらいつの間にか寝ちゃってて、夜になって体が冷えたせいで目を覚ましたら2人がいたんだけどさ。なんか、ほら……出ていきにくい雰囲気だったから」


 ぐぬ……そういうことなら責められないか。

 こちらにも原因があるのだし、逆の立場なら俺だって風景と同化していた方が無難だと考える。


 さて、納得したところで部屋に戻るとしよう。

 今日は日中からいろいろなイベントがあり過ぎて疲労感がいつもの比ではないしな。

 その半分は自業自得とも言えるが。


「あ! 待ってエルちゃん! せっかくだしさ、ウチとも少しお喋りしない?」


 お喋りだって?

 悪いが今はひとりになりたい気分なんだ。

 ましてや好意を伝えようとして不発に終わったところを見られた相手なんだぞ、お前は。

 早急に目の前から逃亡したいに決まってるだろ。


「うん、でもさ、戦いの前じゃないと意味がないんだよね。どうしようかずっと迷ってたけど、今のままじゃどんな結果になってもきっとエルちゃんを後悔させちゃうから」


 いつも楽天的なスズトラには似つかわしくない思いつめた様子だ。

 こんな表情をされては無下には出来ないし、少しくらいは付き合ってやるとしようか。



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