1.ランスベル ―盟約暦1006年、冬、第9週―

 充分な休息を経て旅を再開したランスベルたちはドワーフの地下都市を下へ向かい、彼らが第一区画中層と呼ぶ階層に入って、ワームと戦った大アーチ橋まで戻って来た。


 それまでの道中は松明の光で天井や壁が見えていたし、光が届かないような広い場所でも音の反響があるので、壁に囲まれた場所にいるとランスベルにも分かった。しかしこの巨大な地溝に掛かる大アーチ橋の入口まで来ると、途端にそれらは消え失せる。


 まるで野外に出たような錯覚すら覚えるが、松明の灯り以外には全くの暗闇しかない。圧倒的な暗闇の中に浮かぶ松明の灯りは境界が曖昧で、ゆらゆらと揺れて頼りない。


 この光の外に一歩でも踏み出せば、永遠に暗闇の中を落ち続けるのではないか――ランスベルはそんな恐ろしい想像をしてしまって、ぞっとした。


 ギブリムはそんな不安など微塵も無い様子で、光がやっと届くかという距離を先行している。鎧が鳴らす音は確かだが、背負った大きな荷物はゆらゆらと揺れる灯りのせいで見えたり見えなかったりと不確かだ。


 他の二人のドワーフ――ランスベルの右を歩いているバンと後ろのボルド――も同様で、その歩みに迷いはない。

 ドワーフたちは真の暗闇の中でも周囲の状況を感知できるようなので、当然と言えば当然である。


 唯一、不安を共有できそうなのは左を歩くアンサーラだけだ。

 松明の光に照らされた黒髪は闇を背景にしてもなお黒く、艶やかである。対照的な白い肌は闇の中で浮かび上がっているように見え、金色の瞳にはわずかな不安もあるようだった。


 もっともそれは、アンサーラも自分と同じ気持ちだったらいいな、というランスベルの願望がそう見せているだけかもしれない。


 エルフも人間よりずっと夜目が利く。暗闇を見通せるわけではないが、わずかな光で物を見る事ができるらしい。ナイトエルフというからには普通のエルフよりも夜目が利くのだろうか――ふと、そんな疑問が頭を過ぎったが、それをアンサーラに尋ねるのは無神経な気がした。


 大アーチ橋を進んでいくと暗闇の中から漂う死臭は強くなってきて、明かりの中にコボルドたちの遺体が現れる。遺体は一歩進むごとに数を増していく。どの遺体も鋭い刃物で切られたか、鈍器で粉砕されたかのいずれかで、ドワーフたち三人の手によるものだ。


「ブラールラ、タキン」


 ランスベルの右を歩くバンが、いくつかの遺体を見てドワーフ語で言った。後ろを歩くボルドがやはりドワーフ語で「オンド」と答える。


 ドワーフたちと数日過ごす間に、ランスベルもいくつかのドワーフ語を教えてもらったものの、会話を理解するには到底及ばない。


 竜語魔法にはあらゆる言語を理解できる魔法が存在するが、絆を結んだドラゴンがいなければ効果が無いからと、ランスベルには教えられなかった。


 だから仮に習得していたとしても、ブラウスクニースを失ったランスベルには意味が無かったはずである。しかし、ランスベルは〈竜珠ドラゴンオーブ〉の中にブラウスクニースを見ていた。


 もしかしたら使えたのではないか、とも思うが、今さら言っても仕方の無いことだ。〈竜珠ドラゴンオーブ〉についてはブラウスクニースでさえ、どんなものか知らなかったのだから。


「コボルドの仲間がここに来たらしい、という話をしています。遺体から持ち物がなくなっているからでしょう」


 アンサーラが気を利かせて二人の会話を通訳する。

 ランスベルは笑みで感謝の意を表した。


「仲間が来たのに、遺体はそのまま放置だなんて、僕らを警戒していたのかな?」


 アンサーラは首を左右に振った。


「いいえ、コボルドが墓を作って同族を埋葬する事はありません。そうするように命令されれば別でしょうが、彼らは限定的な知性しか持ち合わせておらず、独自の文化を持ちません。野生動物が墓を作って埋葬しないのと同じです」


 ランスベルはそれを不憫に思い、「そうなんだ……」と呟いた。


 やがて、より大きな臭気の塊がやってきて、松明の光の中にワームの大きな死体が現れる。ランスベルはコボルドに感じた憐れみよりも大きな悲しみを感じて、眉を寄せた。


 ワームは外見上ドラゴンそっくりだ。その正体についてはエルフもドワーフも知らないという。


 そしてランスベルも知らない。パーヴェルならあるいは知っていたかもしれないし、ブラウスクニースなら絶対に何か知っていたはずだ。


 戦いの最中も、ワームからドラゴンと同じような気配を感じていたので、両者に何か関係があるのは間違いない。だからコボルドよりもずっと身近に感じるのだ。


 先頭を進んでいたギブリムが立ち止まり、ワームの死体の横で一行を待っている。

 バンが死体に駆け寄って、ワームの身体を覆う鱗に手を当て、それから振り向いて「ダーガバレ・ドラグノフ!」とランスベルを呼んだ。


 〝ダーガバレ〟は〝ダーガ殺し〟で、〝ドラグノフ〟は〝竜騎士〟という意味だ。合わせて〝ダーガ殺しの竜騎士〟という意味になる。


 普通に名前で呼んで欲しいと何度も言ったのだが、ギブリム以外の二人のドワーフは頑なにこの称号で呼ぶ。ドワーフの社会では個人名よりも家名、氏族名、称号がより重要な意味を持つと教えられても、自分にまでそうする必要はないと思うが、ドワーフの頑固さに挑んでも仕方ないので気恥ずかしさに耐える事にした。


 二人のドワーフがギブリムを呼ぶ時に使う〝ヴァルデン〟というのも称号で、ギブリム氏族に伝わる七つの魔法の武器全てを継承した偉大な戦士に与えられるものだという。ギブリムがドワーフの中でも特別な存在なのでは、とランスベルも思っていたが、まさに氏族の代表者たるに相応しい人物だったのだ。


 ほとんど炭化して影のようになっているコボルドの死体を踏まないよう気を付けながらバンの所まで行くと、彼はドワーフ語で話しかけてきた。ギブリムが通訳してくれる。


「この獲物をバン家に譲って欲しいと言っている」


 ランスベルはワームの死体を見上げて言う。

「この……ワームの死体のこと?」


「うむ」と、頷くギブリム。


「別に僕のものじゃないし……僕一人で倒したわけでもないよ」


 しかし、アンサーラはそれを否定した。


「実際のところ、ランスベル一人で倒しましたよ。わたくしはギブリムを引き上げていただけです。それも、あなたの竜語魔法による援護があってのことでした」


 ギブリムもそれに続く。


「お前は俺の命を救い、ダーガを倒したのだ。誇るべき事を成した時は、誇るべきだ。自らを過小評価するのは美徳ではないぞ」


 ランスベルはまた気恥ずかしくなり、それを誤魔化すため話を戻す。


「まあ、その、僕にその権利があるのなら、別に構わないよ。バンさんに譲るよ」


 バンはランスベルの手の動きを見て何を言ったのか予想できたらしく、ぱっと顔を輝かせた。


 ドワーフは全員がギブリムのように無表情なのかとランスベルは思っていたが、その認識を変えたのは彼である。バンの感情表現は一般的な人間に近く、今もギブリムから通訳されて両手を広げながら笑顔を見せている。


 それからバンはランスベルにドワーフ語で何か提案してきた。誰かが通訳するより前に、ボルドがバンの肩を引いて彼に話しかけ、続いてギブリムが二人の会話に加わる。


 話し合いを始めた三人のドワーフの前で、困ったランスベルがアンサーラを見ると、彼女は小さくため息をついてから口を開いた。


「彼らは代価について話し合っています。最初、バンはオランでの支払いを提案しましたが、オランはドワーフ社会でしか使えないとボルドが言い、ギブリムが人間社会では金、銀、銅を取引に用いると教えたので、オランに換算したらどれくらいの価値があるか、という話に――ああ、結果が出たようです」


 バンに代わって隣に立つギブリムが言った。

「北方の金貨にして一〇万枚分の金塊でどうだ?」


 ランスベルは愕然とした。金貨一枚でさえ、普通の平民には大金だ。日常生活で手にする機会もほとんどないだろう。金貨は個人的な取引で使用される事は少なく、もっと大きな規模の取引で使用されるものだ。


 それが一〇万枚分となれば、もうランスベルの経済感覚を大きく越えてしまっていて、〝途方も無い金額〟としか言えない。たぶん国庫以外に、そんな大金が納まっている場所はファランティアに無いだろう。ドワーフたちは真剣そのもので、冗談でもない。


 ランスベルが黙ったままなので、バンが不安げな顔をした。

 それでランスベルは慌てて答える。


「いや、いやいや、いいよ、代金はいらないよ」


 手のひらを向けたランスベルの仕草から予想したのか、バンはますます困った顔になった。ギブリムは通訳する前にランスベルをじろりと睨んで言う。


「それは駄目だ、ランスベル。物には適正な価値というものがある。それを個人の裁量で減らしたり増やしたり、ましてや無くしたりなど、してはならん事だ。この場には俺たち五人しかいないのだから、こいつには全員が納得する価値を決める必要がある」


 こいつ、という所でギブリムはワームの死体を指差した。頑として譲らない、という雰囲気である。


 ランスベルは困った。

「でも、僕には金塊なんてもらっても使い道がないよ……」


 ギブリムは腕を組んで鼻を鳴らし、「それとこれとは話が別だ。待っていろ」と言って再びドワーフ同士で相談を始める。


 アンサーラがランスベルの耳元で囁いた。


「金で受け取る、と言ってしまいなさい。ドワーフは自分たちの流儀を曲げて相手に合わせるという事を知りません」


 ランスベルは彼女の忠告に従う事にした。嘘を付くようで心苦しいが仕方ない――と、口を開きかけたところでギブリムが振り向いた。


「ならば、フレスミルの〈英雄の広場〉にランスベルの彫像を置く、というのはどうだ。貴重な金属と魔法を用いて作り上げる、永遠に朽ちないものだ。未来永劫、ランスベルの名誉を留めておける。ちなみにボルド家は氏族の中で最も優れた彫刻家で知られている。ちょうど良かったな」


 ギブリムが話している間に、ボルドは自分の荷物をまさぐって紙の束と太さの異なるペン一式、それにランスベルが見た事のない道具が納まった箱を取り出し、真面目な顔でランスベルにそれを見せ付ける。


 この場で描けるぞ、という意味だろうが、なんとすでに何枚かランスベルの姿を模写していた。いつの間に描いたのだろうか。


 思わずランスベルは想像する。広場に立つ自分の彫像の前にたむろするドワーフの若者たちや、待ち合わせをするドワーフの男女――ドワーフの女性がどんな容姿をしているかランスベルは知らないが――を。


 何とも言えない気分になって眉根を寄せ、それから恐る恐る問う。


「譲るのは約束するけど、代価については、す、少し考えさせてもらってもいいかな……?」


 怒られるかと思いきや、ギブリムはそのまま通訳し、バンは納得したように頷いた。ギブリムの顔色を窺うと、ドワーフは片眉を少し上げてランスベルに視線を返す。その表情が相手を思いやっている時のものだとランスベルにもやっと分かるようになった。


「それで良いそうだ。戻って来るまでに決めておいてくれ、だそうだ」

 ギブリムはそう言って、背を向けた。


 一行は荷物を担ぎなおして、再び大アーチ橋を北へ進む。

 アンサーラがさり気なく近寄って来て、ランスベルの耳元で囁いた。


「金で受け取ると言ってしまえば良かったのに。受け取れなかったとしても、嘘にはなりませんでした」


 ちらりと横目にアンサーラを見ると、彼女の目は心配そうにも、悲しそうにも見える。ランスベルはただ「うん……そうだね」と答えた。


 それから二日間、一行は無人のドワーフ地下都市を旅した。


 道中、折れた柱や亀裂の入った壁、傾いた家などがあれば立ち止まり、バンとボルドが調べて記録するのを待つ。


 コボルドがいた痕跡も所々で見つかり、その度にドワーフたちは怒りを溜め込むように黙り込んだ。その怒りを恐れて逃げたのか隠れたのか、実際にコボルドの姿を見る事はなかったが、何度か気配を感じる事はあった。


 地下通路で構成されていた上層と違って中層になると、天井は高く、道幅は広くなる。やがて門を潜って街に入ると、そこはもう地下通路ではなく、地上にある街並みとよく似た街路になっていた。家は独立した建物で屋根も窓もあり、高低差のある街路は階段で繋がっている。広場や噴水もある。


 ドワーフの技術で作られている事と地下空間内にある事を除けば、王都ドラゴンストーンの一角に少し似ていた。それが逆に、無人の街だという事を意識させ、まるで石を彫刻して造った模型の街の中を歩き回っているような気分にさせる。


 何度か台座のようなものを見かけたのでギブリムに尋ねてみると、そこには彫像や芸術品が飾られていたのだと教えてくれた。持ち運べるものは移設したのだ。


 しかし、彫像の全てが移設されたわけではない。高さ三〇フィートを超える巨大なドワーフ像が、まるで守護者のように、あるいはドワーフの領域であると主張しているかのように、大きな通路の出入口や門や広場のような場所に残されている。


 ランスベルが見た一番大きなドワーフ像になると、高さ六〇フィート以上はあろうかという大きさだ。基部にはドワーフ用の小さな扉があって、中に入れるようになっている。瞳の穴や兜の模様に見える部分から外を眺められるらしい。


 鎧の隙間や模様に見えるよう作られた滑り台もあって、子供たちが利用するのだとバンが教えてくれた。少し興味は湧いたものの、さすがに入ってみる事はしなかった。


 それらの彫像以外に、この都市で生活するドワーフの姿を想像できるようなものはほとんど残されていない。家に据え付けられた設備の他に家具の類は一つもないし、置き去りにされた僅かな道具もナタのような人間社会にもある物だけだ。


 彼らはある日突然消え去ったわけでも、敵の襲撃から逃れたのでもなく、自らの意思で引越したのだから当然ではある。以前にアンサーラが、ドワーフもエルフ同様に秘密主義だと言っていたが、それも納得だった。


 都市の中は暖かく快適で季節を忘れられるほどだったが、二日間の旅の後に〝門が近い〟とバンが言った時、ランスベルは正直ほっとした。


 快適ではあっても、ここに住みたいとは思えない。空がなく、季節もなく、昼夜もない地下世界はとても奇妙だ。これまでと違う冷たい外気が通路の向こうから漂ってくるようになると、ランスベルはそのたびに大きく息を吸い込んで新鮮な空気を味わい、やはり自分は地上に住むべきだと実感した。


 しかしドワーフたちにとっては、それは良くない兆候なのだろう。本来なら閉ざされているはずの門が開いているか、あるいは大きな裂け目が出来ている証拠だからだ。分かっていた事ではあるものの。


 あと半日もせず門に到着する、という所まで来て、一行は外に出る準備も兼ねて一晩休息する事になった。これまでの道中と同じように、石造りの街で家を借りる。


 皆で食事をして、その後片づけを済ませてから、ランスベルは一人で荷物の整理に取り掛かった。別の部屋からはバンのドワーフ語が聞こえてくる。


 〈世界の果て山脈〉の交易所での戦いで着ていた衣服はほとんど燃えてしまったが、荷物は建物の陰にあって無事だった。おかげで換えの服などもあって、今はそれを身に着けている。しかしエイクリムで買った防寒着の予備はない。


 スパイク谷よりもずっと寒いに違いない〈極北の地〉での旅は厳しいものになりそうだと思った時、ランスベルの脳裏に、あの交易所での事件が――目の前で実の兄が爆死する瞬間が――まざまざと蘇った。


 顔を伏せ、しばらく心中で悶え苦しんでから、ランスベルはなんとか記憶を心の片隅に押しやる。


(今はそれより、旅を続ける事を考えよう)


 冷や汗を拭って顔を上げると、いつからそこにいたのか、部屋の入口にアンサーラが立っていた。


「ランスベル、ちょっとよろしいですか?」


「うん」

 平静を装って、ランスベルは頷いた。


「あなたの鎧を少し調べてもよろしいでしょうか。寒さを防ぐ魔法を準備しなければと思っているのですが、その鎧が寒さに対してどの程度有効なのか知りたいのです」


「もちろん、どうぞ。一応もう一枚毛皮のマントがあったから、それで何とか、と思っているんだけど……」


 ランスベルは丸めてあった毛皮のマントを広げながらそう言った。


 アンサーラはいつもどおり軽やかな足取りで部屋を横切り、並べてある竜騎士の鎧の前に膝を付く。手にした小さな小瓶の中身を確認して栓を抜き、中の液体を竜騎士の鎧に数滴垂らして呪文を囁いた。

 鎧にも液体にも変化はなく、数滴の雫は一つになって、つうっと鎧の表面を流れ落ちる。床に落ちるや否や、しゅっと白い煙を上げて霜に変わった。


「この鎧なら大丈夫でしょう。あなた自身を守るための魔法だけ準備すればよさそうです。それとランスベル。そのマントだけでは一日と待たずに死にますよ」


 あまりに平然とアンサーラが言うので、ランスベルは一瞬、反応できなかった。

「――えっ?」


「わたくしもこの地を旅するのは二度目ですが、あなたが考えている程度の厳しさではありません。あなたはこう考えているのではありませんか。〝きっとものすごく寒いんだろうな〟」


 その通りだったので、ランスベルは頷いた。他に何があるのだろうか。


「この先は一年のうち、夏の数週間を除いて大地は凍りついています。今は冬ですから、地表で活動するような生物はほとんどいません。たとえ万全の防寒着であっても、数時間ほどで指先や耳、鼻など身体の先端部分は凍って壊死し、最終的には腐り落ちてしまうでしょう。もし普通の金属鎧など着ていたら、それより早く寒さによって体温が低下して死に至ります。凍りついた金属に触れれば皮膚は張り付き、やはり壊死するでしょう。そうならないためには皮膚ごと引き剥がすしかありません」


 ランスベルは目をぱちくりさせた。どういう世界なのか想像もできないが、危険な場所である事は何となく分かる。


「そ、そうなんだ……やっぱり、〈世界の果て山脈〉の向こうに普通の生物はいないんだね」


「ああ、いえ、そんな事はありません。人間だっていますよ」と、アンサーラが言うのでランスベルはますますよく分からなくなった。


 ランスベルの怪訝な顔に気が付いたのだろう。アンサーラは一瞬考えてから、居住まいを正してランスベルに向き合う。


「この先、ゆっくり話す機会があるか分かりませんので、これからの事を話しておきます。わたくしたちは〈世界の果て山脈〉を抜けて〈極北の地〉に出た後、さらに北へ向かって〝ターナーリアレース〟を目指します。ファランティアの言葉にすると、〝氷の木〟でしょうか。そこはこの世界に残された数少ないエルフの港で、最後の竜騎士のために船が用意されているはずです」


「前から疑問だったんだけど――」


 ランスベルは口を挟んでしまい、しまったと思ったが、アンサーラに気分を害した様子は無い。


「なんでしょう?」


 自分で口を挟んでおきながら、聞いてしまっていいのかと不安に思いつつ尋ねる。


「文句があるわけではないんだ。ただ、なんでそんな場所にあるのかなぁ、と。もっと近くに用意しておけば良かったのに……って」


「ええ、疑問は分かります。エルフの港と船は普通の海を渡るものではなく、〝セールトゥエァストレィ〟――あなた方の言葉に当てはめるのは難しいのですが、別々の世界の狭間にある海を渡るためのものです。その発着場となるエルフの港は、どこでも良いというわけではないのです。慎重に調査して、諸条件が寸分の狂いなく整う場所でなければ、移動に失敗してしまうだけなく大変な事故が起こります」


「ええっと……うん、よく分からないけど、理由があるのは分かった。ごめん、話を続けて」


 ランスベルは照れ隠しに苦笑いする。


「はい。先ほども言いましたが、ここより北の地は大変厳しい環境で、魔法の助けがあっても地上を旅するのは危険です。幸い、凍土の下には鍾乳洞がありますのでそこを通って行くことができます。途中には温泉もあるので、地上よりはずっと良いはずです」


 また地下なのか――ランスベルは少しうんざりした。


「そこに人間が住んでいるんだね。テストリア大陸の言葉は通じるのかな?」


「いいえ。人間がいると言いましたが定住しているわけでなく、冬の時期はトナカイの群れを追ってずっと東のほうにいます。言葉は独自のもので、あなたの知っているどの言葉とも似ていません。わたくしもほとんど知りませんので、もし出会っても意思の疎通は難しいでしょう」


 トナカイって聞いたことあるな――と、ランスベルは記憶を探った。


 生物なのはアンサーラの口ぶりからも明らかだ。そして〝トナカイの角〟というのが万病に効く薬になるとか何とか、実家の店で父が外国人と話していたのを思い出した。


 実家にいた幼い頃、ランスベルは商店への立ち入りを禁じられていたが、店とその奥を隔てる扉の裏まではよく行った。父と、町の外から来た商人の話を聞くのが好きだったのだ。


 誰かが扉に近付いてくるとすぐに逃げ隠れたものだが、父はランスベルが扉の裏で盗み聞きしていたのに気付いていたのだろうか――そんな事を考えると、鉛でも飲み込んだように胃のあたりが重くなる。


「――ランスベル」


 アンサーラに呼ばれて、ランスベルは視線を上げた。


「わたくしが今まで最後の目的地を明かさなかったのは、もし旅の途中で何かあった場合に、置き去りにされるのではと危惧したからなのです。わたくしの願いは個人的なものですが、どうしてもドラゴンの力を借りなければなりません。ギブリムを信用していないわけではありませんでしたが、彼も種族全体の願いを背負っています。いざとなれば、わたくしを見捨ててあなたと先に進むことも考えられた……」


「そんなこと――」

 考えた事もなかった、と続く言葉はアンサーラの手に遮られる。


「分かっています。わたくしが言いたいのは、それほどのものを、わたくしたちは背負っているということです。順調にいけば四、五日で目的地に到着します。道中もし危険な場面に遭遇したとして、その時は全力で切り抜ける事を考えてください。誰かの命を奪わなければならなかったとしても、です。あんな事はもう……ごめんです」


 〈世界の果て山脈〉で魔術師と戦った時の事を言っているのだろう。兄の最後の瞬間が再び脳裏を過ぎって胸を刺す。だが、その苦痛はランスベル自身のものでしかない。アンサーラやギブリムがあの出来事でどれだけの痛みを味わったか、ランスベルには想像しかできない。だから、なるべく真摯に答える。


「分かった。約束する」


 アンサーラは緊張を緩めて立ち上がった。


「では、わたくしは魔法の準備をします」


「あ、手伝うよ」と、ランスベルも立ち上がる。


 大した手伝いはできないと分かっているので断られるかと思ったが、アンサーラは「ええ」と承諾した。


 二人は一緒に家を出て、通りを渡った反対側の家に移動する。魔法の薬を作る時に出る臭いに配慮したのだ。ランスベルも嫌な臭いだと思うが、魔法の薬を作る過程で発する幻想的な光は好きだ。


 そして、その中でアンサーラと過ごす時間も。

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