13.ウィルマ ―盟約暦1006年、冬、第3週―
レッドドラゴン城内、〈王の居城〉の回廊をウィルマはいつもどおり完璧な装いで歩いていた。しっかりと編んだ黒髪も、美しいドレスも、きっちりと編み上げ紐を絞めたコルセットも、彼女にとっては近衛騎士の鎧と同じだ。
ウィルマの生家であるベルトナー家は代々、〈王の騎士〉を輩出してきた西部の名家である。だが、ウィルマの二人の兄が流行り病で死に、その伝統は途絶えてしまった。
ウィルマの婚約者は幼少の頃に決められていて、父親はそれを撤回しないまま逝ってしまったが、相手の家には三人の男子があったのでベルトナー家に婿入りしてもらえる事になった。
その婿、つまりウィルマの夫ヨーゼフが〈王の騎士〉になれるような人物であったなら伝統は守られたのだが、残念な事に剣術よりも算術のほうが得意な人であった。
しかし、伝統は途絶えてもその精神はウィルマに引き継がれている。彼女は領地を夫に任せ、自身は侍女として王妃に仕える事にした。侍女は王妃に個人的な忠誠を誓う。それは、王に個人的な忠誠を誓う近衛騎士と同じである。
侍女長は、言うなれば〈王の騎士〉だ――ウィルマはそのつもりで仕えてきた。
回廊の奥からハイマンが歩いて来る。それはここ三週間、何度も見た光景であった。ウィルマが立ち止まって会釈すると、ハイマンも立ち止まって会釈を返す。
「陛下は全く部屋から出られる気配がない。まるで篭城でもされている気分だ」と、ハイマンは不満を口にした。
「ハイマン将軍、篭城などと……陛下の前では口にされませんように」
ウィルマが釘を刺すと、ハイマンは「わかっている」と言った。
アデリンにとっては生家であるブラックウォール城が包囲され続けている件は、大きな心労の一つであろう。それはハイマンも理解しているはずだ。
「いっその事、全軍を南部に進軍させてブラックウォール城を解放せよ、とでも命じられたほうが気は楽だ。むろん、そうすれば王都を敵に取られるだろうが……」
ハイマンは手で顔を拭うようにしながら、そんな事を言う。彼が愚痴を漏らすのは珍しい。それだけ将軍も困窮しているのだろう。
即位してすぐに、アデリンは部屋から出なくなってしまった。確かにハイマンが言うようにまるで篭城しているかのようだ。
(だとすれば、アデリン様にとっての敵が城内にいるという事になる)
ふとした思い付きに、ウィルマは何か手かがりを得たような気がした。
ファランティアの法では、国王はファランティア全土から騎士と兵士を召集できる。その指揮権は将軍に与えられるのが慣習だが、自ら指揮を執ることも禁止されていない。それほどに父親と兄弟が心配なのであれば南部に軍を進ませるよう命令すればよいのだ。少なくとも、将軍であるハイマンにその事を相談するくらいはしても良いはずである。それすらない、という事は、アデリンが敵と考えている者はすぐ近くにいるのではないか。
(例えば、このハイマン将軍やモーリッツ伯……ブラン上位王の可能性もある)
そんな事を考えているウィルマに、ハイマンは尋ねた。
「ウィルマ侍女長、マイラから何か聞いていないか。各地から領主や騎士たちが集結しているというのに、王が玉座におられないというのは全軍の士気に係わる」
ウィルマは首を横に振る。
「いえ、まだ何も。将軍は本気でマイラに期待しておられるのですか?」
「女同士でしか分からぬ事もあるだろう。五分五分くらいの期待はある」
確かに、ハイマンよりはましかもしれない――などと思いつつ、ウィルマは言った。
「マイラは普通の、気が優しいだけの平民の娘です。だからこそ陛下も気を許されているのかもしれませんが、陛下に対して進言することの意味は理解していないでしょうし、その覚悟もありません」
「では、貴女ならどうだ。ベルトナー家のウィルマ殿」
敢えて家名を出したのは、嫌味ではなく期待の表れだとウィルマは感じた。確かに、もはや様子見を続けている場合でない事はウィルマにも分かる。
ウィルマは、ふぅと一息ついて、覚悟を決めた。背筋を伸ばして胸を張る。
「わかりました。やってみましょう」
「もしもの時は――」というハイマンの言葉をウィルマは遮った。
「心配は無用です。わかっております」
ハイマンは「うむ」と頷き、「貴女は確かにベルトナー家の人だ」と言い残して立ち去った。
ウィルマは護衛に立つ近衛騎士に会釈して、アデリンの部屋に入った。そのまま奥の寝室まで歩き、扉をノックして声をかける。
「テイアラン女王陛下、ウィルマでございます」
少しの間、待っていると寝室の扉をマイラが開けた。
「侍女長――」
おそらく、〝どうしましたか?〟とでも続けるつもりだったのだろう。まだマイラと交代する時間ではない。
ウィルマは指を唇に立てて目配せした。それでマイラも何か察したようだったが、その短いやり取りに違和感を感じたのか、アデリンが寝室の中から「どうしたの?」と尋ねてくる。
ウィルマが寝室に入ろうとするのをマイラは止めなかった。
昼間から窓の戸を落としているので、寝室の中は暗い。蝋燭と暖炉の明かりが部屋の中を照らしている。アデリンはベッドの上に座り、怪訝な顔でウィルマの動きを見守っていた。それはマイラも同様である。
そんな顔をするものではないわ――と、ウィルマはマイラに言ってあげたかったが、黙ったまま、ベッドの上のアデリンの正面に立つ。ちょうど暖炉を背負うような位置だ。ドレスがよれて汚れるのも構わずに、ウィルマはまるで男性のように膝をついて頭を垂れた。
「テイアラン女王陛下、私たち侍女は、陛下が王妃であらせられた頃より陛下個人に忠誠を誓っております。それは女王陛下となられた今も同様に変わっておりません。侍女長を拝命した時から、私は最後の瞬間まで陛下にお供する覚悟でございます。今、改めて申し上げましたのは、陛下に私の忠誠をご理解頂き、私を信じて頂きたいからでございます」
「な、なんなの……」
アデリンは気圧されて顔を歪めた。ウィルマは構わず続ける。
「陛下を守るためなら、我が身を投げ出す覚悟です。私の命は陛下のものです。陛下のご命令とあれば、死も厭いません。お試しになって下さっても結構でございます。どうか、私を信じて……全てをお話し下さい」
しばしの沈黙が室内を支配した。
ウィルマはそれ以上何も言わずにアデリンの答えを待った。マイラは驚いた顔をして成り行きを見ている。アデリンの表情は徐々に険しくなり、そして怒りを滲ませた声で言う。
「突然何なの? あなた、あいつに何か言われた? 私が……知っているのか探りに来たの?」
「私は陛下にお仕えするためだけに、ここにおります」
「口だけなら何とでも言える。本当に命を捧げる覚悟があるなら、ここでやって見せてよ」
アデリンの言葉に、マイラは「陛下!?」と困惑した声を上げた。
ウィルマは立ち上がり、部屋を見回して近くのテーブルにあった果物用のナイフを手にする。そして、怒りとも恐れとも取れる酷く歪んだ表情のアデリンを前にして、ナイフの刃先を自らの首に突きつけた。
ウィルマはすでに覚悟を決めていたが、いざとなれば恐怖を感じた。それは自分が女だからなのか、それとも男であっても同じく恐怖するのか、知りたいと思った。
冷や汗が一筋、頬を流れ落ちる。ナイフの刃先が微かに震えて喉元を傷つけ、血が一筋流れた。血を見た瞬間、アデリンの表情は一変して恐怖一色になり、叫ぶ。
「やめてっ!」
「……まだ、私の忠誠心をお疑いですか?」
ナイフを喉元に突きつけたまま、ウィルマは問う。
アデリンは「分かったから! やめて!」と、もう一度叫んだ。
ウィルマがナイフを下すのと、近衛騎士が寝室に乱入してくるのはほぼ同時だった。素早くナイフを手の後ろに隠し、喉を押さえる。
室内の雰囲気に違和感を感じたのか、二人の近衛騎士は身構えたまま問う。
「陛下、何事ですか?」
アデリンは叫んだ口の形のまま固まっていたが、やっとの思いで声を出したように答える。
「な……なんでもありません。ちょっとした、その……とにかく、何でもない。大丈夫だから、出て行って」
近衛騎士は室内にいるアデリン、ウィルマ、そしてマイラを順に見て、さらに室内を見回してから身構えを解いた。
「大変失礼いたしました。何かあれば、すぐにお呼びを」
近衛騎士たちは出て行き、ゆっくり扉が閉められた。ウィルマは忍び足で扉に近づき、すぐ外で近衛騎士が聞き耳を立てていないかと気配を探る。騎士たちの鎧が立てる音は部屋の外まで出て行ったようだ。
そうしている間にアデリンは「ううっ」と呻いて、しくしくと泣き出した。ずっと固まっていたマイラがそれに気付いて我に返り、「陛下?」と優しく肩を撫でている。
ウィルマは長袖をめくり上げ、裏地で手に付いた血を拭い、喉元を押さえた。果物ナイフを元の場所に戻してアデリンに歩み寄る。
「陛下、私に全てお話し下さい。お助けいたします」
嗚咽を漏らして肩を揺するアデリンを見て、ウィルマはなぜアデリンがマイラを気に入ったのか分かったような気がした。
(この方もマイラと同じ普通の人なんだ。南部を維持してきたベッカー家の精神を受け継いでいない。王の器でもない。王権を得る覚悟もないまま、王冠を被せられ、玉座に座らされた、ただの女……でも、私の主君に違いはない。ベルトナー家の者は決して臣従の誓いを違えたりしない)
しばらくして、アデリンは少し落ち着きを取り戻した。それを待っていたウィルマは、心配そうにアデリンを見ているマイラに言う。
「マイラさん、私は陛下と大切な話をしなければなりません。もう下がってよろしい――いいですね、陛下?」
ウィルマはアデリンの目を見て確認した。これからどんな話をアデリンがするのか分からないが、少なくともマイラが聞くべき内容ではないはずだ。その事を、アデリンも理解したらしかった。
「ええ、そうね……マイラ、下がってちょうだい。またすぐに呼ぶから」
マイラは少し困惑したように眉根を寄せて、アデリンとウィルマを交互に見た。それから、「わかりました」と言ってアデリンから離れる。
「では、私は失礼します、陛下」と、一礼して扉から出て行った。
マイラが出て行くのを見送ってから、ウィルマは再びアデリンに向き直る。
「お話し下さい、陛下」
最初こそ躊躇いを見せたものの、話し始めるとアデリンは一気に全てを吐露した。本当はずっと誰かに話したかったのだろう。
ウィルマは覚悟していたつもりだったが、話の内容は彼女の予測を上回っていた。ブランとの密通、先王テイアラン四九世を殺害した真犯人、その理由だとアデリンが考えている〝王は一人でいい〟という言葉、そして自分が王位に就いてしまったという恐怖。
さらに、最初にこの話を打ち明けたステンタールがその夜のうちに怪死した事がアデリンの恐怖を決定的にしていた。
話の最後に、アデリンは呟くように付け加える。
「本当はね、それとなくマイラに伝えようと思ったの……でも、もし、マイラに話してあの子がステンタール卿と同じように……なったら、と思うと……あの子だけが安心できる味方なの」
ウィルマは力強く頷いて見せた。
「陛下のそのご判断は賢明でした。マイラには扱いきれない秘密です。ですが、私は違います」
「どうするの?」
すがるような目でアデリンが言った。ウィルマは考えながら話す。
「残念ですが、女の私ではブランを討つことはできません。今ではファランティア貴族の中にもブランを支持する者はおりますし、密かに味方を集めるとしても、かなり慎重に時間をかける必要があります。それに、帝国との戦争に北方軍の力は必要です。ですから、男にはできない方法で身を守るのです」
「それは……い、色仕掛け、とか?」
おそらくアデリンはブランと顔を合わせることすら恐ろしいのだろう。ウィルマは首を左右に振った。
「いいえ。一つ、嘘をつくのです。これは陛下と私だけが知る事実でなければなりませんし、誰かと話す時に齟齬がないようにしなければなりません。今夜のうちに詳細を詰めましょう。それから私がブランと会って話します」
――その二日後の夜、ウィルマは月明かりを頼りに〈王の居城〉を抜け出し、庭園の木々の中を通って迎賓館まで歩いた。
一四の時に結婚して翌年には長男を出産し、その年のうちに王都へ来たウィルマは一三年をレッドドラゴン城で過ごしている。明かりがなくとも城内を歩くのに問題はない。
迎賓館はブランに貸し与えられているので、今は北方軍の本陣と言っても過言ではなかった。実際、迎賓館に向かう道はレッドドラゴン城の近衛兵ではなく、北方兵によって守られている。
北方兵たちは二人から三人組で道の上に座り込み、酒を飲み交わし、時には歌ったり踊ったりもする。彼らはファランティア人を安全な人々と思っているのだろう。警護の任についているという自覚が無いようにウィルマには見えた。
北方兵の一人が庭園を歩くウィルマに気付いて、視線を向ける。ウィルマは丁寧に頭を下げて、何もおかしな事など無いという風に堂々と通り過ぎた。背後に気を配っていたが、その北方人が追いかけてくる事はなかった。
迎賓館の入口が見えてくると北方人の声も大きくなってくる。夕食を終えてしばらく経つが彼らはまだ寝るつもりがないようだ。出陣を控えて気が昂っているのかもしれない。この様子ならブランもまだ起きているだろう。
アデリンが愛した、生垣に囲まれた小さな庭からも北方人の下品な笑い声が聞こえてきた。いずれ、あの庭も取り戻さなければなるまい。
迎賓館の入口前では数人の北方人が階段に座り込み、仲間同士で話していた。ウィルマが歩いてくるのに気付いた何人かが視線を向けてくる。
ウィルマはそっと、喉元に巻いた布に手を当てた。そこに残る傷を隠すためのものだ。その傷は同時に、ウィルマの忠誠心と覚悟の証でもある。
(戦場での傷を誉れとするのは北方人だけではない……今はここが私の戦場)
そう思うと、戦意が高揚して恐怖は薄らぐ。
北方人たちを無視し、一礼だけして迎賓館に入って行こうとするウィルマの前に三人の北方人が立ち塞がった。
「おいおい、勝手に入るな。女、何の用だ?」
ウィルマは長身で、その北方人はあまり背が高くなかった。二人の目線は同じくらいだ。いつもどおり物怖じせず答える。
「ブラン上位王陛下に重大なお知らせがあって参りました。お目通りを願います」
「おめど……?」と、首をかしげる北方人に隣の北方人が教えた。
「会いてぇ、って意味だろ」
「俺たちゃ、そんな話は聞いてね。さっさと帰れ」
威圧するように北方人は胸を張ったが、ウィルマは怯まなかった。
「あなた方が聞いておられないのは当然です。私の訪問は秘密にしていただかなくてはなりません。重大かつ重要なお知らせとはそういう意味です。私を追い返せば、後悔する事になるのはあなたです。それとも、女の私一人でブラン上位王陛下をどうにかできるとお考えなのですか。私を危険だと?」
北方人三人は顔を見合わせて、それから一人が言った。
「女の魔術師だっている。女の暗殺者だっているかもしんね。だから一応あんたを調べさせてもらう」
そう言って手を出そうとした北方人の前で、ウィルマは胸元から小さなナイフを取り出して見せた。
「調べる必要はありません。刃物はこれだけです。自衛のために」
それを見て北方人たちは笑みを浮かべる。
「確かに、そんなちっぽけなナイフじゃ俺んちのガキも殺せねぇな」
「そんなんで身を守れんのかい?」
ウィルマは頷いた。
「ええ、使い道はいくつかあります。例えば、こう――」
ウィルマはナイフを自分の首筋に当てた。北方人たちはそれを見て笑うのを止める。
「何かあれば、自ら命を絶つ。そのために持っているのです。お分かりですか?」
北方人とウィルマはしばし睨み合ったが、折れたのは北方人のほうだった。
「わかった、わかった。あんたの覚悟は本物だ。上位王が会ってくれるかはわかんねえけど、話だけはしてやる。それはしまっとけ」
「ありがとうございます」
そう言ってウィルマはナイフを鞘に納めて、再び胸元に隠した。
しばらく待っていると、北方人の一人が戻ってきた。
「上位王が会ってくださるとよ。こっちだ、ついてこい」と、手招きする。
ウィルマは案内に従って迎賓館の二階に上がり、賓客のための部屋まで来た。北方人が扉を叩き、室内に声をかける。
「上位王。さっき話した女を連れてきました」
扉はすぐに開いた。開けたのはブランではなく別の北方人だ。ウィルマも何度か見かけている顔で、たしか戦士長と呼ばれる指揮官の一人だったと記憶している。部屋にはその男とブランを含めて六人の北方人がいた。酒を飲み交わしていたというより軍議をしていたような雰囲気で、テーブルの上には地図が広げられている。
ウィルマは部屋に入りながら、テーブルの上に視線をやらないよう意識した。密偵しに来たと怪しまれたくない。一番奥にいるブランに深々と頭を下げると、ブランのほうから口を開いた。
「重大かつ重要な知らせ、とか言ったそうだな。見ての通り忙しいんでな、さっそく話してもらおうか」
ウィルマはさっと周囲に目配せしてから答える。
「ブラン上位王陛下にだけ、お伝えするようにと言われております。お人払いを」
「誰に……って、ああ、確かあんたはウィルマ侍女長だっけか。てことは――」
ウィルマは素早く口を挟んだ。
「そうです。ブラン上位王陛下から、こちらにおられる戦士長の方々にお話しされるのは結構ですが、私の口から聞いたとなれば問題になります。どうか、お人払いをお願いします」
「んー」とブランは顎髭を掻き、それから「仕方ない」と言って手を払う。それだけで理解したらしく戦士長たちはぞろぞろと部屋を出て行った。怪訝な顔を向けてくる者に、睨みつけてくる者までいたが、ウィルマは動じないよう気を張って耐える。
その様子をブランはじっと見ていた。ウィルマも、見られているのを理解していた。
部屋から戦士長たちが出て行って、ウィルマとブランの二人きりになると、上位王は口を開いた。
「礼儀のない連中ですまなかった。ファランティアの貴族風にはできなくてな。それで話ってのはアデリン……いや、テイアラン女王陛下からだろ?」
「はい。内密なお話でございますゆえ、もう少しお側に寄ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、いいぜ」
ブランが許可したので、ウィルマは小声でも通じるようにすぐ近くまで身を寄せた。
間近で見るブランの威圧感は想像以上だ。
ウィルマはブランに耳打ちした。
「テイアラン女王陛下は、ご懐妊しております」
ウィルマは注意深くブランの顔を盗み見ていた。それで、彼がぴくりと眉を動かしたのに気付いた。
(心当たりがあるのね)
そう確信してウィルマは続ける。
「ここしばらく玉座から遠ざかっておられたのは、そのためでございます」
「だがフィナン……いや、先代のテイアラン四九世が暗殺に倒れた時期から計算すると、遅すぎねぇか。今更になって分かったというのか?」
(そう、そしてあなたとアデリン様が通じた夜でもある)
内心でそんな事を考えながら、ウィルマは答えた。
「その、大変申し上げ難いのですが……アデリン様は体調不良でございましたが食欲は旺盛でして、その事も今になって考えればご懐妊の兆候であったのかもしれませんが、大変よくお太りになられておりますから、外見上の変化では見分けられなかったのでございます」
「そうか……」
ブランはそう言って腕を組んだ。何やら考えている様子だ。
ウィルマには、ブランがどう妊娠を否定しようとしても言い返すだけの準備があったし、そうできる自信もあった。ブランは未婚で子供もいない。対してウィルマには出産の経験がある。妊娠による女の身体の変化についてはウィルマの言葉を信じるしかないはずだ。
それに、必死になって否定しようものなら後ろ暗い事があると自ら告白するに等しい――ウィルマは目を伏せたまま、ブランの言葉を待った。
「で、なぜそれを秘密裏に俺に伝える必要がある。めでたい事だ。さっさと発表すればいい」
「私も当然そのように考えましたが、テイアラン女王陛下は公表を迷っておられるのです。その……先王は暗殺に倒れました。その子を宿しているとなれば危険が増すのではないか、と。それに戦争の行方にも影響を与えるのでは、ともお考えのようで、まずはブラン上位王陛下にご相談せよと申し付けられたのでございます」
「そうかもしれん。少し考える必要はある」と、今度は間を置かずにブランは言った。
(自分の子かもしれない、と考えている。ブランも後継ぎは欲しいはず。それがファランティア王家と自分の子なら、どんな意味を持つか……考えなければいけない。そして、その答えは今すぐに出ない。状況がはっきりするまではアデリン様に手出しはできなくなる。ほんの数週間でも時間を稼げれば次の手を打てる。さあ、公表は控えるように、と言いなさい)
ウィルマの考えに応えるように、ブランは言った。
「とりあえず、公表は控えたほうがいいだろうな」
思わず安堵のため息をつきそうになって、ウィルマは自制する。
「では、そのように女王陛下へお伝えいたします」
そう言ってウィルマはブランの元を離れ、扉まで歩いて部屋を出ようとした時だった。
「ちょっと待て」とブランが言い、ウィルマはどきりとした。
「まず俺に相談する、というのは良い判断だった。これからもそうして欲しいと女王陛下に伝えてくれ」
ウィルマは動悸を感じながら、それが声に表れないよう注意して答える。
「はい。それでは、失礼いたします。ブラン上位王陛下」
迎賓館を離れるにつれ、ウィルマの足は自然と早くなった。
この嘘でどれくらい時間を稼げるかは分からないが、少なくともアデリンに玉座へ戻ってもらう事はできるだろう。王が玉座にいなければ士気に関わる。戦争はまだ続くのだ。そして戦争の行方が、この嘘も、あらゆる運命をも巻き込んでいくに違いない。
しかし何が起ころうとも、最後の瞬間まで主君の側を離れはしない――ウィルマは星空に誓った。
〈次章へ続く〉
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