4.ステファン ―盟約暦1006年、秋、第13週―
ステファンは土の床に倒れている。自分の家の台所だ。腕も足も縛られているが、そんな事をしなくてもステファンはほとんど動けなかった。自分の顔を見る方法はないが、きっと何倍にも腫れ上がっているに違いない。まるで顔が心臓になってしまったように、どくんどくんと鼓動に合わせて激しく脈打っている。そのたびに、頭は棍棒で殴られたようにガンガンと痛んだ。
胸の痛みは顔の比ではなく、骨が折れている可能性もある。このまま放置されればいずれ死ぬだろう。
左目がほんの少しだけ開くので、居間と台所を仕切る布の隙間から漏れる光の帯を見る事ができた。しかしできる事なら、右目と同じように完全に開かなくなっていたらいいのにと思う。血が流れている左耳も、まだ声を聞けてしまう。
光の帯の中で踊る影はアルガン帝国の兵士だ。突然、農園に乱入してきた帝国兵のうちの三人がステファンの家を襲撃した。抵抗した父は殺され、死体は居間に転がっている。母と姉は外に連れて行かれた。
ステファンはマリーを守ろうと抵抗して、酷く殴られ、ここに転がされている。父と違って殺されなかったのは、たぶん武器を持たずに素手で殴りかかったからだろう。素手の農民相手に剣を抜くのは恥ずかしいという感覚は、アルガン帝国にもあるのかもしれない。
しかし、今まさに繰り広げられている光景を見れば、帝国兵に羞恥心があるとは思えなかった。
踊る帝国兵の影に挟まれて右往左往しているのはマリーの影だ。そして帝国語の罵声に混じって聞こえてくるのはマリーの悲鳴だ。
ステファンが農園の外れで倒れている彼女を見つけたのは、アルガン帝国が侵攻してくる四週間ほど前だった。
髪はこげ茶色で火に焼かれたように短く縮れ、肌は濃い小麦色、瞳の色は黒だ。エルシア大陸の東に住む人の特徴だと、物知りな父が教えてくれた。
目覚めた彼女はほとんどの記憶を失っていた。マリーという名前も、農園の人たちで仮に付けた名前だ。
しばらくの間は様子を見ていたが、記憶が回復する様子もないので、ステファンの家で面倒を見ることになった。以来、ただで飯を食わせられるほど裕福ではないから、家の仕事を手伝わせていた。
マリーの面倒を見るのは、主にステファンだった。記憶を失っていてもファランティア語が話せるので会話には困らない。彼女は子供のように無垢で、一緒にいると心が安らぐ。
アルガン帝国の侵攻が始まり、マリーは帝国軍の密偵なのではという馬鹿げた話も出て、少なくとも領主のグスタフ公には知らせなければという事になった時、ステファンは思わず言っていた。
「俺がずっとマリーを守る。結婚すれば、マリーはファランティア人だろ!」
ステファンは土の上でぐったりしたまま、涙を流して嗚咽を漏らした。そのたびに、胸に刺さったナイフをぐりぐりと動かされるような痛みが走って気が遠くなる。しかし、気絶してはくれなかった。そして肉体的な痛みよりも、精神的な痛みに呻いた。
守ると誓ったマリーの影に、帝国兵の影が重なる。無垢なる彼女が汚されている。やめろ、という叫び声は擦れた音として喉から漏れるだけだ。
(誰か助けてください!)
ステファンは強く念じた。領主のいるブラックウォール城は包囲されたままだ。領民を守るはずの領主も、彼の騎士も、城に閉じこもっている。
(誰かマリーを助けてください!)
次に浮かんだのはドラゴンだった。でも最後のドラゴンは帝国の侵攻前に死んでしまった。竜騎士がどうなったかステファンは知らないが、もし生きているならファランティアを守るために戦うべきだ。今まさに、ここに助けを求めている者がいるのだ。
(ちくしょう……誰でもいい。誰かマリーを助けてくれっ!)
心の中でステファンは叫んだ。六神のいずれかでもいいし、異国の神でも悪魔でも構わない。
(誰か、誰か……)
ドカン、という扉が破られる大きな音がして、床を踏み鳴らすブーツの音が家に入ってきた。複数人いるようだ。さらに帝国兵が増えたのかと思ったが、違った。
帝国兵の叫び声は警告しているようだった。鉄のぶつかる音、戦いの音が居間から聞こえてくる。光の帯に浮かぶ人影は激しく入り乱れて、何が起こっているのか分からない。しかし、「このやろう」とか「帝国兵は皆殺しだ」というファランティア語が聞こえてくる。
(味方だ! 誰かが助けに来てくれたんだ!)
帝国兵の悲鳴を最後に、家の中の戦いは終わった。家の外ではまだ馬の嘶きと人間の叫び、戦いの音が聞こえている。
「娘っこ、ここにいろ。外はまだ危ねえ」
聞きなれた南部訛りのファランティア語が聞こえて、どかどかと人が出て行った。
ステファンの家の中に動く者はいなくなった。そして仕切りの布を開いてマリーが現れた。全裸で、太ももには一筋の血が流れている。しかし記憶を失った彼女は、自分の身に起こったことを完全には理解していなかった。それだけが救いだとステファンは思った。
マリーはステファンの傍らに膝をつき、そっと顔に触れた。痛みにぴくりと反応してしまったが、冷たい彼女の手に触れられると痛みが引いていくようだ。彼女はぶつぶつと、ステファンの知らない言葉を呟いている。
「何を言っているの?」
エルシア大陸の言葉だろうか――などと思いながら、ステファンは自然に声を出した自分に驚いた。胸の痛みはかなり良くなっていて、声が出るようになっている。
「マリー、君が何かしているのか?」
ステファンの問いにマリーは答えず、笑顔だけ向けた。しばらくしてステファンの痛みはかなり良くなったが、代わりにマリーは疲れたようにぐったりとしてしまった。ステファンはゆっくりと起き上がって、血まみれの上着を脱いでマリーにかけてやる。マリーはステファンの膝の上で眠ってしまったようだった。
やがて、外の騒動も治まった。そして誰かが家の中に入ってきて、仕切り布をさっと開ける。ステファンは緊張し、腕でマリーを庇った。現れた男は帝国兵と同じ
「おっ、生きてたか、あんた!」
男は聞きなれたファランティア語でそう言って、近寄ってきた。
「この娘を守ってやったんか。すげえなあ。立てるかい?」
男が差し出した手をステファンは掴んだ。目を覚ましたマリーも一緒に立ち上がる。
「あの、あなたは領主様の軍隊ですか?」
ステファンが尋ねると、男は黄ばんで欠けた歯を見せて笑った。
「だはは、俺が騎士に見えるってか? 城はまだ包囲されたままさ。俺たちは聖女様の軍隊だ。さ、もう大丈夫だ。外に出よう」
ステファンは仕切り布を引きちぎってマリーの裸体を包み、居間に出た。マリーを乱暴した帝国兵たちは下半身を出したまま死んでいる。父の遺体は見ないようにして、ステファンはマリーを連れて家の外に出た。
農園の中には、確かに軍隊と言われればそう見えなくも無い雑多な格好の集団がいた。馬に乗っている者もいれば、徒歩の者もいる。鎧を着ている者、着ていない者。ファランティアの衛兵の鎧と帝国兵の鎧を組み合わせている者さえいた。全員に共通しているのは武器を持っているという事だけだ。
それどころか、マリーと同じエルシア大陸の人間もいる。エルシア大陸はアルガン帝国に統一されたはずなので、つまり彼らは帝国人という事になる。
〝聖女様の軍隊〟だという彼らは、ちょうど農園の家や納屋から帝国兵の死体と、生け捕りにした帝国兵を連れ出しているところだった。ステファンと同じように助けられた者もちらほら見える。連れ出された母と姉を探してみたが、見当たらなかった。
生き残った帝国兵は五人いた。五人は農園の真ん中で一列に並べられ、一人の娘の前に引き立てられていく。
篝火に照らされたその娘は、手に剣を持っていた。白い寝巻きのような服の上から白く染めた
「あれが聖女様だよ」と、男が教えてくれた。
聖女の左隣にはステファンより少し年下に見える武装した男が立っていて、右隣には帝国人の騎士然とした立派な体格の男が、立派な装丁の本を手にして立っている。
「あの人たちは?」
隣の男に尋ねる。
「左の若いやつが聖女様の使徒でジョンてやつだ。右にいるのがミリアナ教の司教でマイルズって言ったっけな。これから聖女様のお裁きがあるんだ。見てな」
聖女の前に引き立てられた帝国兵に、マイルズ司教が本を見せながら帝国語で何か話しかけている。内容は分からないが、その話し方は神官が説教する時に似ていた。帝国兵は頭を垂れていたが、司教の話が終わるや否や、野獣のように唸り声を上げて聖女に飛びかかる。
危ない、とステファンは思ったが、心配はいらなかった。
聖女はごく自然に、手にした剣で帝国兵の喉を刺し貫いている。まるで、帝国兵が自ら剣に飛び込んだように見えるほど、自然に。
ジョンという使徒が合図すると、近くにいた聖女軍の男が死体を引きずっていった。仲間の血溜まりの上に、次の帝国兵が引き立てられる。司教は同じように本を掲げて話しかけた。
二人目の帝国兵はすぐにマントを外し、鎧の上に着ている
司教は満足げに頷き、手を動かして空中に模様を描くようにしてから、地面に伏せた帝国兵を立ち上がらせる。同じ元帝国兵らしき男たちがやってきて、その帝国兵を仲間に迎え入れた。
(こうやって仲間にしているのか)
ステファンはそう思いながら聖女を見た。聖女は自分に従う者が増えたにも関わらず全く満足した様子が無い。むしろ最初の帝国兵を処刑した瞬間のほうが、その表情は輝いていた。
結局、処刑されたのは最初の一人だけで残りの帝国兵は全員が聖女の仲間になった。聖女は使徒を伴って去っていく。
「兄ちゃん、あんたはどうすんだ?」
「えっ?」
ステファンが聞き返すと、隣の男は肩をすくめて言った。
「まあ選択肢はねぇわな。ここに残ってたら帝国兵が調べに来る。急いで荷物をまとめてついてきなよ」
「聖女……様の、許可は要らないんですか?」
男は手をひらひらと振って歩き出した。
「ああ、いらねぇ、いらねぇ。あの〝お裁き〟も帝国兵だけだ。ミリアナ教に入信しなくてもいいしよ……さて、急がねぇと全部誰かに取られっちまう」
男はそう言いながら、ステファンの家に向かっている。ステファンが呆然とそれを見送っていると、男は立ち止まって振り向いた。
「あんたの家で死んでる帝国兵の持ち物だよ。誰でも好きに貰っていいんだ。武器や鎧は持ってたほうがいいぞ」
「あ、ああ……はい」
戸惑いがちにステファンは頷く。そして家に入る直前で、男は思い出したように付け足した。
「あ、そうそう。帝国の紋章が入ったマントとか盾は駄目だぜ。聖女様の〝お裁き〟を受けちまうからな」
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