7.ホラウス ―盟約暦1006年、秋、第8週―

 ホワイトハーバーの町は今や帝国兵で溢れていた。

 町の住民よりも遥かに帝国兵のほうが多く、通りも商店も、接収された宿屋も民家も帝国兵だらけだ。


 しかし帝国兵と一口に言っても、おおまかに〝エルシア大陸の人〟というだけで外見も言語も多様だ。ホワイトハーバーに駐留するようになったばかりの頃は、部隊単位でまとまって生活していたが、駐留が長期化してきた今では出身地域ごとに集まっている。


 兵士たちはアルガン帝国の共通語である帝国語が理解できるとはいえ、母国語が使えて生活習慣も同じ人間同士で集まっていくのは自然である。


 そのため今のホワイトハーバーは、さながらアルガン帝国の縮図と化していた。道を挟んだ二つの家で別々の言語を使っているのも当たり前の光景になりつつある。


 そして兵士だけでなく、職人や工人、商人もエルシア大陸からやって来ていた。兵士たちの武具を製造し、修繕するには職人が必要だし、軍事拠点化が進むホワイトハーバーには工人も必要だ。


 あらゆる物資を取引する商人については言わずもがなである。今、ホラウスの前を歩く男もそんな商人の一人であろう。


 その男はホラウスの実家である酒屋にやって来て、たどたどしいファランティア語でブラッドワイン三樽をこちらの言い値で購入した。ホラウスの父はかなり値段を上乗せしていたが、交渉もせずに取引を決めてしまったので、あまり大した商人ではなさそうだ。


 あるいはまだホワイトハーバーへやって来たばかりで、物価を理解していないのかもしれない。目の前を歩く男の顔にホラウスは見覚えが無かった。たくさんの外国人に溢れているとは言え、酒の取引をする商人が覚えきれないほどいるわけではない。


 購入したワインをどこに納品するか尋ねると、それを持って付いて来い、と言うので、仕方なくホラウスが運ぶ事になってしまった。


 そういうわけで、ホラウスはブラッドワイン三樽を載せた荷車を引き、商人の男について夕暮れのホワイトハーバーを歩いている。


 空が濃紺色に染まり、街角や家々に明かりが灯る。以前のホワイトハーバーであれば仕事を終えた住民たちが立ち話したり、出歩いたりしていた大通りは、任務から解放された兵士と、これから任務に就こうという兵士たちが行き交っている。


 住民たちが大通りを歩くことはめっきり少なくなっていた。占領直後のホワイトハーバーはまだ住民のほうが兵士より多かったし、ほとんどの住民は生活を変える必要がなかった。


 しかし今では帝国人のほうが圧倒的に多く、軍事拠点化が進む町の様子を見れば、〝アルガン帝国に占領された〟と意識せざるを得ない。そうなれば自然と大通りを避けて路地や裏道を使うようになってしまうのが普通の人間である。


 ホラウスも、この時間に大通りを歩くのは久しぶりだった。見知った街が見知らぬ人間のものになってしまったようで反感を覚える。大通りから少し離れたところにある居酒屋〈うみねこ〉が視界に入ると、その思いはますます強くなった。


 かつてガスアドと、ホラウスを含む仲間たちがたむろっていた〈うみねこ〉は、今や帝国兵御用達になってしまっている。店主がへらへらしながら酒を運んでいる姿が見えて、なんだか裏切られたような気分にもなる。


 それ以上見ていられなくて、ホラウスは背を向けた。そうでなくとも今は仕事中なのだから立ち止まって眺めているわけにもいかない。客である商人を追って、荷車を引く。


 ガスアドの仲間たちが集まったのは、彼を護衛していたアレックスという傭兵が店にやってきた日が最後になった。深夜まで酒を飲んで、ご機嫌になったガスアドがアレックスと店を出て行き、それきりだ。


 その翌日の晩に、司令部という呼び方が板に付いてきた商業会館へガスアドが帝国兵と入って行ったという話は聞いた。そしてオーダム家で何か騒動があり、それ以来オーダム家の人を見た者はいない。


 今も司令部にいるのか、それとも――街道に並ぶあの腐肉の行列にガスアドとその両親も加わったのか。


 しかしそれを確かめには行けない。ホラウスのような地元民は町の出入りを制限されているし、なによりそんなものを見に行く勇気がない。


 アルガン帝国がファランティア王国を併合した後、ホワイトハーバーは属領として自治権を得て、そして自分が自治領主になるのだとガスアドは語っていた。


 その話が本当なのだとすると、帝国本土に渡って帝国人としての教育を受けているのかもしれない。それならいつか、立派な領主となったガスアドと再会できるだろう。


 そんなふうに楽観的な考えが浮かぶ事もあるが、ホラウスはなんとなく、もうガスアドに会う事はないような気がしている。


 やがて商人の男は宿屋〈白かもめ〉の前まで来て、ホラウスに止まるよう手で合図した。ホワイトハーバーでも人気のあったこの宿は、町が占拠されてすぐに接収されアルガン帝国の傭兵部隊が使っている。


 もしかしたら、あのアレックスとかいう傭兵もここにいるかもしれないとホラウスは思った。アレックスならガスアドがどうなったか知っているかもしれない。


 しかし扉の外まで漏れ聞こえてくる傭兵たちの下品な笑い声と、乱暴な怒鳴り声を聞くに、一人で中に入ろうとは思えなかった。


 もし仲間たちが一緒なら――と、ホラウスは想像する。「ビビってんのか?」とガスアドがあのニヤついた目で言い、仲間たちも追従してニヤニヤ笑いを浮かべる。ホラウスは「ビビってねぇよ!」と虚勢を張って扉を開けただろう。


 一人では無理でも仲間がいてくれたら、きっとそうする事ができただろうに――


「少し待って」


 商人は片言のファランティア語でそう言い、臆する様子もなく扉を開いて宿屋に入っていった。扉の隙間から、ちらりと中の様子が見える。入口付近に座っていた傭兵がホラウスの視線に気付いたのか、顔を向けたので反射的に目を逸らした。


 〝ビビってんのか?〟


 心の中でガスアドの声がしたような気がした。


 ホラウスはあまり待たされなかった。商人の男はすぐに出て来る。


「えーと……ここから、違う」


 片言のファランティア語で言いながら、宿屋の屋根を飛び越えるように身振り手振りで示す。〈白かもめ〉に酒を納品した事もあるホラウスは、すぐに理解した。


「ああ、裏に入れるんですね」


 そう言って荷車を引き、路地に向かうと、商人は「はい」と言って後ろをついて来た。


 〈白かもめ〉の裏庭に続く通用門を開けようとしたところ、閂が渡されていた。いつも開いていたので怪訝な顔をしてしまったが、考えてみれば現状では当然のことだ。扉の上半分は格子になっていて中庭が見える。覗き込むと宿屋の裏口を空けて男が一人出てきた。たぶん傭兵だろう。その男は閂を外して通用門を開き、「入っていいぞ」と、ファランティア語で言った。


「はい、すみません……」

 頭を下げながらホラウスは中庭に入る。


 〝ビビってんのか?〟


 またガスアドの声がした。


 中庭は井戸と洗い場、別棟の倉庫がある。倉庫の二階は宿屋を営む一家の住まいになっていたが、今もそうなのかは分からない。さっさと帰りたいホラウスは倉庫に向かって荷車を引こうとした。倉庫には小さな地下室があり、ワインはいつもそこに入れるからだ。


「ちょっと待て」


 傭兵がホラウスの肩を掴んで呼び止めた。思わず、びくっと身体を振るわせる。

 それから傭兵は帝国語で商人に何か言い、二人はそのまま帝国語で会話した。


(これからは帝国語も覚えないといけないな)


 ホラウスがそんな事を考えていると、傭兵と商人の話は終わった。


「それ、倉庫まで運べよ」と、傭兵がファランティア語で言う。


「あ、はい」


 ホラウスは荷車を倉庫の前まで引き、傭兵は倉庫の鍵を外して片側の扉だけ開いた。ワイン樽を固定していたロープを解き、樽を地面に下ろす。


「じゃあ中まで入れますね」


 一応念押ししてから、ホラウスはワイン樽を転がして倉庫に入った。いつもどおりに地下室へ入れようとしたが、地下室へ続く引き上げ扉の上には木箱が積み上げられている。


 ホラウスは振り返って尋ねた。

「あれっ? 地下じゃないんですか?」


 その瞬間、傭兵の顔色が変わった。正確に言えば、表情を失ったというほうが正しい。突然、目にも止まらぬ速さで腰から湾曲した短剣を抜き、一閃。


(ちょっ――)


 ホラウスに思考できたのはそこまでだった。鋭い刃がぴたりと首に触れ、刃を追うように風が頬を撫でる。そのまま振り抜かれていたら首が飛んでいたのは確実だ。


「ひっ、ひぃっ!?」


 かすれた悲鳴を喉から漏らして、ホラウスはその場で尻餅をついた。漏れたのは悲鳴だけではない。股の間から染みが広がっていく。逃げ出したかったが、両足がガクガク震えて言う事を聞かない。もうガスアドの声も聞こえない。


 傭兵は、剣を抜き斬りした体勢のまま固まっていた。その表情から、自分の意思で止めたのではないとホラウスにも分かった。傭兵の額から汗が一筋流れ落ちる。その背後から、肩に手を置いて商人の男が現れた。


「地下室があるのですか?」


 商人は突然、流暢なファランティア語で言った。何が起こっているのか分からず、ホラウスは口をわなわなと震わせるので精一杯だ。


 同一人物とは思えないほど流暢なファランティア語で、商人はもう一度ゆっくりと尋ねた。


「私が止めなければあなたは斬られていました。つまり、私は命の恩人という事になります。その私が質問しているのですから、答えなさい。地下室があるのですか?」


 ホラウスは必死に首を縦に振って答えた。


「入口はどこです?」


 山積みされた木箱を指差して答えると、商人はそれを見て眉根を寄せた。


「では、入口が使えるように片付けなさい。急いで」


 商人に命じられ、ホラウスは慌てて立ち上がった。木箱の山を除ける作業に取り掛かるが、ほとんどの木箱は空で、あっという間に片付いた。その下にある引き上げ扉には錠前が付いている。ホラウスが片付けている間に、商人は傭兵を探って鍵を見つけ出していた。


「これを」


 そう言って鍵を投げて寄越す。ホラウスは受け取るのに失敗して鍵を落としてしまった。軽い金属音が響く。


 商人は再び眉根を寄せたが、今度は明らかに不愉快な様子だったので、ホラウスは急いで鍵を拾うと錠前を外した。輪になった革紐を掴み、引き上げ扉を持ち上げる。全開にすると同時に、地下からのっそりと人影が現れた。その人物は剣呑な空気を纏っていて、手には先の尖った剣を握っている。


 目を合わせたら殺される――そんな雰囲気を、ホラウスは感じた。


「たしか、アレックス隊長でしたか?」


 商人の男がファランティア語のまま言った。

 知っている名前が出てきて思わず顔を上げる。横顔を見る限り、確かにあの夜〈うみねこ〉にいたアレックスだ。


「何者だ」


 アレックスもファランティア語で聞き返す。しかし商人の男は名乗らないまま話した。


「敵対するつもりはありません。クレイブと我々は直前まで連絡を取っていたのです。しかし連絡が途絶えた後、クレイブがどういう運命を辿ったのか調べていくうちに死体が一つ足りないと気が付きました」


 ホラウスには全く何の話か分からないが、アレックスにとっては答えになっていたらしい。


「〝審問官〟か」


 〝審問官〟という帝国語をホラウスは知らない。商人の男が――間違いなく商人ではないのだろうが――否定しないのを見てから、アレックスは話を続ける。


「敵対するつもりはないと言ったが、その存在を知った俺を消しに来たわけじゃないとすると、どういう用件だ?」


 男は端的に答えた。

「竜騎士と戦って生き延びたあなたの経験を得たい」


「見返りは?」


「あなたの命――ああ、それと彼の」


 男は親指で、まだ固まったままの傭兵を指した。傭兵の全身は微かに震え、顔は青白く脂汗でびっしょりだ。首を絞められているかのように、ひゅっひゅっと細くて浅い息をしている。


 アレックスはほとんど考える時間を必要としなかった。帝国語で短く答えると、男は満足げに頷いた。アレックスは〝ついてこい〟というように顎を動かして、地下室への階段を戻り始める。


 その時になってやっと存在に気が付いたように、彼はちらりとホラウスを見た。その目は見ず知らずの他人を見る目であり、ホラウスの生死に何の関心も無い、という目をしていた。


「――がはぁっ!」


 ホラウスに斬りかかってきた傭兵が、拘束を解かれたように突然倒れた。窒息しかけた人間のように、必死に息継ぎしている。


 ホラウスがただ黙ってそれらを見ているうちに、アレックスは地下に行ってしまった。


 商人だと名乗っていた男がホラウスの目の前に来たので、思わず悲鳴を上げそうになって息を呑む。男は、もはや信用ならない笑顔で言った。


「ここで見聞きした事は他言無用です。命が惜しければね。さっさと忘れてしまうのが良いでしょう」


 立ち尽くすホラウスの手に、金貨を一枚握らせて階段を下りていく。その背中に向かってホラウスは「お、お買い上げ、ありがとうございました」と自分でも場違いに思える言葉を吐いて頭を下げ、そして足早に倉庫を出て、〈白かもめ〉の裏庭から人通りの少ない裏道を抜けて海岸へ向かって走った。


 全速力で砂浜まで走ってきたホラウスは、服を着たまま海に入ると汚れたズボンや下着を海水で洗う。秋も深まってきたこの時期の、それも夜の海は決して快適なものではないが、まるで生き返ったような気分になった。全身に絡みついた恐怖と、股の不快感が波に洗い流されていく。そして、手の中の金貨も。


「あっ!」


 気が緩んだせいだろう。金貨は黒い海の中で、二回ほどキラリと瞬き、慌てて伸ばした手もすり抜けて見えなくなってしまった。


 ホラウスはしばらく足の裏で柔らかな海底を探ってみたが、金貨は見つからなかった。初めて手にした金貨でも、思いのほか惜しくはない。さっきの出来事は、自分とは関係ないものにしておくべきだ。


 海から上がって、砂浜をとぼとぼ歩き出した頃になってやっと、ホラウスはガスアドの事を思い出した。


(そういえばガスアドの事、聞けなかった……)


 しかしもう二度と、アレックスにも、あの男にも会いたく無い。


 その時、ボシュッという聞いたことのない大きな音が背後からして、ホラウスは身を縮ませながら振り返った。


 海から激しい光と白煙が吹き上がっている。砂浜近くの海底から炎でも噴出したような感じだ。


 もちろん、そんな現象はあり得ない――そこでホラウスは原因に思い当たり、さっと血の気が引いた。再び股の間を汚してしまったが、今度はもう気にせず一目散に家まで走って帰った。

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