5.ギャレット ―盟約暦1006年、秋、第8週―

 ギャレットがブラックウォール城でグスタフに誓いを立てた日から三日後に、ファランティア王国軍とアルガン帝国軍はクライン川を挟んで向かい合った。ファランティア王国軍三〇〇〇に対して、アルガン帝国軍はその半数ほど。数だけ見れば勝利は確実である。


 ギャレットがいるのはクライン川の緩やかな堤の上に並び立つファランティア軍の最左翼だ。率いているのはエッドを含め、弓の経験者を集めて作った急ごしらえの弓兵隊でたった三〇人しかいない。兵士だけでなく狩人も含まれているため装備も不揃いで、まるで現地徴用部隊のようである。


 弓兵隊を指揮した経験者が他にいないためギャレットが率いるしかなかったのだが、弓兵隊に限らずファランティア王国軍には戦場で指揮を経験した者は他にいない。


 ファランティア王国軍は、同じ領地から来た騎士と従者、兵士で一部隊を形成している。それぞれが紋章の付いた色とりどりの旗を掲げているので見た目には賑やかだ。大小様々な部隊が集まっているだけの雑多な印象だが、後方に控えているフランツ指揮下の五〇〇人の騎士からなる重装騎兵隊は、思いのほかしっかりと整列している。


 どーん、どーん、と叩かれている戦太鼓が、まるで軍隊という大きな生き物の鼓動のように響いていた。その音が続く限り自軍は生きていて、死なせないためには戦わなければいけないと分かるはずだが、戦意高揚の効果はないようだ。実戦を前に誰もが緊張した面持ちの中、まるですでに死んでいるかのように青白い顔をした者もいる。


 対するアルガン帝国軍は、本隊と思しき騎兵を中央後衛に置き、中央前衛は大盾タワーシールド長槍パイクを持った歩兵が交互にぴったりと得物を揃えて隊列を組んでいた。


 左右にはクロスボウ部隊が整然と隊列を整えている。歩兵隊もクロスボウ隊も、クライン川の川岸ぎりぎりに立ち、前に出てくる気配はない。


(本当に、ここから見えるだけで全戦力なのか?)


 ギャレットは怪しんだ。しかし偵察に出ている斥候からは、伏兵を発見したという報告はない。


 クロスボウ部隊や長槍歩兵など、複数の部隊を組み合わせた統合部隊戦術を使うアルガン帝国軍のほうが軍隊としては強力だが、二倍もの兵力差をひっくり返されるなどあり得るのだろうか。


 そんな事を考えていると、ふいにギャレットは懐かしい戦場の雰囲気の中で違和感を感じた。考えすぎている自分に気付いたのだ。


 ――余計な事は考えるな。

 ――余計な事は気にするな。

 ――勝ち負けも、俺が生きるか死ぬかも、どうでもいい事だ。


 傭兵時代、いつも自分に言い聞かせていた言葉が反射的に蘇る。それは一種の自己暗示で、途端に思考が凍りつき、あらゆる事がどうでも良くなる。


(この部隊を率いて一人でも多くの敵を殺すだけだ。その結果がどうなろうと俺の知ったことじゃない)


 ファランティア王国軍の中央で動きがあり、馬に乗ったヴィルヘルムが歩み出た。体格こそゴットハルトに劣るが長身なので、巨大な軍馬の上で甲冑を着た姿はまさしく騎士という感じだ。その姿を見て、ギャレットはハッと我に返る。


 炎を背負って立つゴットハルトの姿が脳裏を過った。ゴットハルトの炎と同じものを瞳の中に燃やしてグスタフは言った。


 〝その誓い、守れよ。自由騎士〟


 凍りついた思考が氷解して再び動き出す。

 そうか、俺は誓ったんだったな――と、ギャレットは思い出してヴィルヘルムに注目した。


「諸君、今日は記念すべき日となるであろう。これは三〇〇年ぶりの戦である。騎士とは、人々の命、土地、財産を守るため先頭に立って戦う者である。戦いを忘れた世で、我々は無用の長物と化していた。ファランティアの騎士は徐々に死にゆく存在だった。だが今日こそ、ついにその真価を見せる時が来たのだ。今日の戦いで名を残すのは私か、君か、いや君かもしれない!」


 ヴィルヘルムは戦列に沿って馬を走らせ、そこに立つ騎士を指差しながら叫んだ。その演説に合わせて戦太鼓の間隔が短くなっていく。


「そして兵士諸君、諸君らはただ、己の家族を思って戦えばよい。ホワイトハーバーで負けた者たちは串刺しにされて街道に晒されているという。この戦いに勝てなければ、諸君らの家族がそのような残酷な仕打ちを受けるかもしれないのだ。戦え、守るために!」


 なかなかの演説だ。実際、ヴィルヘルムの演説を受けてファランティア王国軍はざわめき、徐々に戦意を高揚させている。戦太鼓は今や早鐘のようである。そしてヴィルヘルムは叫んだ。


「行くぞ、全軍、前進!」


 同時に角笛が吹き鳴らされ、ファランティア軍は「おうっ」と気合の声で応じ、堤を下り始めた。騎士を盾持ちの歩兵で囲んでの前進であるため、騎兵の速度はなく、また我先にと飛び出すような輩もいないので、固まってじりじりと前進していく。


 対岸のアルガン帝国軍は静かに待ち受けていた。中央の歩兵部隊が長槍パイクを、両翼のクロスボウ部隊がクロスボウを持ち上げる。その音すらも揃って聞こえる。


 ヴィルヘルムを見失わないようギャレットは目で彼を追った。幸いにも長身なので目立つ。演説の気合の入れようから我先に突撃しそうで心配したが、まだ堤の上にいた。近くにいるフィリベルトとフランツが抑えているのかもしれない。


 ギャレットは前方に視線を戻し、弓兵隊に「前進。構え!」と命令した。先頭に立つギャレットとエッドに続いて、弓兵たちがぞろぞろと前に出て、矢を番える。

「射角はエッドに合わせ、見えない奴は隣に合わせろ。狙いは目の前のクロスボウ部隊だ。俺が止めろと言うまで撃ちまくれ――放て!」


 そう叫んで自分も長弓ロングボウから矢を放った。


 本来であれば、合図に合わせて一斉射すべきだが、彼らのほとんどは正規に訓練された弓兵ではない。周りに合わせようと気を使わせるよりも大雑把に指示を出すほうが良い。


 三〇本の矢羽が音を立ててファランティア王国軍の頭上を越え、アルガン帝国軍へと飛んだ。


 いくつかは手前のクライン川に落ちたが、バラバラと矢が敵のクロスボウ部隊に降り注ぐ。帝国兵が被る鉄製のつば付き兜が盾の役割をして矢を逸らしたが、いくつかは命中した。矢を受けた帝国兵が仲間に引きずられて後方に下がっていく。


「撃ち尽くすつもりでやれ!」

 声をかけながらギャレットも弓を引き続け、ファランティア王国軍で唯一の弓兵隊は連射を続けた。


 ファランティア王国軍の先端が堤の中ほどまで下ったところで、帝国軍から最初のクロスボウによる一斉射があった。ババン、という発射音に続いて太矢クォレルが盾や鎧に突き刺さる音が響く。しかしクロスボウの一斉射は、恐れていたほどの損害をファランティア王国軍に与えなかった。


 まだ距離が離れていたので、ほとんどの太矢クォレルが盾に突き刺さって止まったのだ。盾の隙間に入り込んだ太矢クォレルに運悪く当たった歩兵が倒れたが、一塊になって前進するファランティア王国軍の表面を僅かに削っただけ、という程度である。


 初めて目の前で仲間が倒れるのを見た者や、苦痛の叫びを聞いた者に恐怖と動揺が広がったが、巨大な軍馬に乗った重装の騎士や後ろにいる仲間に押されて逃げるに逃げられず、ほんの少し前進が鈍っただけで全体の進軍は止まらない。


 続けて二射、三射とアルガン帝国軍のクロスボウ部隊は隊列を入れ替えながら連射した。しかしやはり、ファランティア側の損害は軽微であった。確実に歩兵は倒れていくが、騎士への被害はほとんどない。


 戦場全体を俯瞰すれば、数で優るファランティア王国軍の圧力にアルガン帝国軍が押されているように見えた。


「ひるむな、前進あるのみ!」


 ヴィルヘルムが叫ぶと、それを聞いた騎士が同じ叫びを上げ、それが伝播していく。その声に応じて気合いの声も上がる。


 いけるぞ――という意識がヴィルヘルムの中に芽生えたのが、その表情から分かった。


 そんな様子を気にしていたせいで、弓兵隊の長弓ロングボウによる攻撃が、徐々に届かなくなっているのに気付くのが遅れた。自身もそうであるように、腕が疲れて弓を引く力が衰えただけではない。敵のクロスボウ部隊は矢を受けてじりじりと後退しているので、距離が広がっているのだ。


 密集していた弓兵たちも矢を届かせようと数人が前に出始めている。ギャレットは彼らの後ろ襟や肩を掴んで引き止めた。

「前に出過ぎるな、クロスボウの射程に入ったら反撃されるぞ!」


 そう言って敵陣を見た時、ギャレットはもっと重大な事に気が付いた。ファランティア王国軍は前進しているのに、クロスボウによる被害が増えないのは何故か。それは帝国軍が後退しているためだが、それが敵の作戦である可能性だ。


 堤の上から戦場を見渡すと、アルガン帝国軍は全体的に開戦時よりも後退していて、特に中央の大盾タワーシールド長槍パイク歩兵に守られた本陣は目に見えて下がっている。最初は横並びだった隊列が、今は両翼のクロスボウ部隊が突出して見えるほどだ。


 ファランティア王国軍のほうは、一定間隔で放たれるクロスボウに押されて中央に密集しつつあり、素早く後退していくアルガン帝国軍中央の本陣を追って、引っ張られるように先端が突出しつつある。


 アルガン帝国軍の布陣をファランティア王国軍が突き崩しているようにも見えるが、見方を変えれば、アルガン帝国軍がファランティア王国軍を引き込んでいるようにも見える。


「エッド、ここは任せる」


 戦いの騒音に負けないようにギャレットは命令口調で叫んだ。エッドは傭兵時代によく見たような無表情で答える。


「了解です!」


 命令に対して疑問も反論もしないのが、〈みなし子〉の傭兵らしかった。

 ギャレットは弓と矢をその場に残して、自分の馬に飛び乗るとヴィルヘルムの元へ向かった。


 ヴィルヘルムはフランツ、フィリベルトを含む三〇人の騎士と共にまだ堤の上にいた。背後にいる五〇〇人の重装騎兵も逸る気持ちを抑えている。


 ギャレットが馬で向かっているのにフランツが気付いて、ヴィルヘルムの肩を叩き、指差す。ヴィルヘルムはギャレットを見て、露骨に不愉快な顔をした。


「ヴィルヘルム卿!」


 指揮官を囲う騎士の壁の向こうにいるヴィルヘルムに呼びかけたが、聞こえないのか、無視しているのか、反応しない。


「ギャレット卿を通せ!」


 フランツが大声で命令すると、騎士たちは道を開いた。その間を通って近寄り、「ヴィルヘルム卿――」とギャレットが言いかけたところへ、ヴィルヘルムはキッと睨みつけて詰問口調で言った。


「部隊を放棄したのか? お前自身が弓兵隊などという不名誉な部隊を作り、指揮すると言ったのだぞ」


 ギャレットはそうした態度に慣れてしまったので、無視して進言する。


「ヴィルヘルム卿、騎兵隊を動かして下さい。今すぐ右翼か左翼、どちらかのクロスボウ部隊を攻撃しないと負けます」


 ヴィルヘルムは熱に浮かされたような顔で戦場を見回して、鼻で笑った。


「何を言っているのか分からん。まだ両軍は本格的に剣を交えてすらいない。敵はこちらの圧力に押されて後退を始めている。このまま敵を突き崩して分断させ、騎士の突撃で決着をつけてやる」


 確かに、ギャレットの直感を証明するものは何も無い。だが、自分の中の不吉な予感を無視することは、今のギャレットにはできなかった。


「敵の中央の部隊はもうすぐ後退を止めます。今のまま両軍が動いてそうなったらどういう形になるか想像してください。クロスボウ部隊が内側に角度をつけて水平射すると……ちょうどクライン川のあたりで両側から太矢クォレルが交差します。敵はそこに我が軍を誘導しているように見えませんか。その形になるのを防ぐのも、敵の背後を突くのも間に合わない。こちらの騎兵を投入してどちらかのクロスボウ部隊に当て、乱戦に持ち込むしかありません」


 早口に言い切ると、ヴィルヘルムは少し不安げな顔になって戦場を見渡した。話を聞いていたフィリベルトが疑問を口にする。


「騎兵隊をクロスボウ部隊にぶつけると甚大な被害が出る、と言ったのはお前ではないか?」


「はい。騎兵の機動力で回り込むように堤を下って、敵の側面を突く……しかないでしょう。それでも、損失は大きなものになります」


 ギャレットとフィリベルトの会話に、フランツが割り込んできた。


「いや、父上。例えそうであっても、全軍規模で考えれば損害は少ないという考え方もできるでしょう」


「む、それは――」


 何か言いかけたフィリベルトを無視して、ヴィルヘルムはギャレットを睨みつけて言った。


「次にお前はその突撃に自分も加わると言い出して、他の騎兵に紛れて戦場から逃げる算段なのではないか? 先陣に加わるでもなく、弓兵と後方に残ると言い出したくらいだからな。行方不明になったとかいう、かつてのお前の部下にしても、どうせ偵察中に逃げ出したのだろう」


 さすがのギャレットも、これには唖然とするしかなかった。ジョンの事は関係ないし、これではただの言いがかりにしかなってない。子供の喧嘩だ。

 しかし、これに対して怒りを露にしたのはギャレットではなかった。


「いい加減にしろ、ヴィルヘルム! ゴットハルトの件はギャレットの責任ではない。ゴットハルトを救えなかった無力感を彼に償わせようとするのはもうやめろ。彼は信頼に足る騎士だ」


 フランツが声を荒げることは珍しく、ヴィルヘルムは驚いてその顔を見返した。そして一瞬の後には怒りで目を吊り上げる。


「きさま――」


 ヴィルヘルムは烈火のごとく怒り、顔を真っ赤にして剣に手をかけ、抜こうとした。反射的にフランツも剣に手をやる。


 両者の間に素早く割り込んだのはフィリベルトだった。ヴィルヘルムを守るように立ち、フランツの胸に指を突きつける。


「お前こそ、今はそんな話をしている時ではない、馬鹿者め! これ以上騒ぎを起こすなら、背信罪も覚悟せよ!」


 フランツは驚いた顔をして言葉を飲み込んだ。それから苦渋に満ちた表情に変わり、頭を下げる。


「……申し訳ございません、父上、ヴィルヘルム卿」


 その時、戦場から悲鳴と怒号、金属のぶつかり合う大きな音が響き渡って、堤の上にいる全員がそちらを見た。


 ファランティア王国軍の先端とアルガン帝国軍の長槍パイク部隊が接触したのだ。ギャレットの予想どおり、敵は後退を止めてファランティア軍を押し留めるつもりだ。


 ずらりと並べた大盾タワーシールドの隙間から突き出された長槍パイクによって、ファランティア軍の前衛にかなりの被害が出ている。


 続いて両翼のクロスボウ部隊が内向きに、さっと全員一斉に向きを変える。それはあまりに整然とした動きで美しくもあった。


 こうして、ギャレットたちの目の前で、クロスボウによる一方的な殺戮が始まった。


 ちょうどクライン川の中ほどに足止めされたファランティア王国軍は、クロスボウの一射ごとに、確実に戦死者を出していく。帝国製のクロスボウが威力を発揮する有効射程内では、盾を貫通してその後ろにいる人間を殺し、板金鎧プレートメイルをも貫通する。盾を構えた人間の壁を失えば、次の標的は騎士たちだ。


 クロスボウ部隊は次々に列を入れ替えながら素早くクロスボウを連射し続け、ファランティア王国軍を外側から削っていった。クライン川がファランティア人の血で真っ赤に染まる。


 最初こそ、戦う気概を見せたファランティア兵であったが、前に出る者から殺されていく状況では戦意喪失も早かった。


 少しでも敵から逃れようと味方集団の内側に入り込もうとする者と、それを押し留めようとする者とで大混乱に陥る。前面に出れば殺されるので、全員が必死だ。


 そうなると、死因はクロスボウや長槍パイクだけではなくなった。倒れた軍馬の下敷きになる者、強引に前進あるいは後退しようとする騎士の軍馬に踏み潰される者、馬から放り出されて首を折る騎士――もはや軍隊の体を成していない。


 指揮系統がはっきりせず、戦い慣れてもいないファランティア王国軍は前進も後退もできないまま、一人また一人と、血に染まったクライン川に倒れていった。


 阿鼻叫喚の殺戮現場を眺めたまま固まっているヴィルヘルムたちに向かって、ギャレットは大声で怒鳴った。


「早く撤退の指示を!」


 その言葉を理解できないかのように、奇妙に歪んだ表情をしたヴィルヘルムが無言のままギャレットを見た。


「この戦いは、もう、負けです。早く、撤退の指示を、出してください」


 一語一句、はっきりとギャレットは言い直した。最初に反応したのはフランツだ。


「ヴィルヘルム、騎兵隊は味方の脱出を援護する。そう指示してくれ」


 動揺を隠せないまま、フィリベルトも息子の言葉に続く。


「と、とにかく、とにかく後退の……いや、撤退の指示を……」


 二人の声にヴィルヘルムはゆっくりとそちらに顔を向けた。


「フィリベルト卿、退却の指示とその指揮を。騎兵隊は敵の左翼部隊に突撃を行い、脱出路を作る。私が先陣に立つ」


 注意深く聞かなければ、クロスボウの発射音と、死にゆく人々の悲鳴にかき消されてしまいそうな声で、静かにヴィルヘルムは言った。


 フィリベルトは頷いて、馬首を巡らせて叫ぶ。


「撤退、全軍撤退だ!」


 フランツはヴィルヘルムの肩を掴んで、大声で言った。


「騎兵隊の突撃は駄目だ、ヴィルヘルム。今からではもう遅い。死地に突撃して無駄に被害を出すだけだ」


「無駄だと?」


 ヴィルヘルムが聞き返し、フランツは頷いて答える。


「ああ。この戦いはもう駄目だ。無傷の騎兵隊はこのまま敵の追撃を阻止するために動かすべきだ。あそこに突っ込ませるためじゃなく――」


 フランツは血で真っ赤に染まったクライン川の殺戮現場を指差した。それから腕を上げて、帝国軍の後衛で動きを見せ始めた敵の騎兵隊を指す。


「――あれを、敵の騎兵隊を見てくれ。馬に鎧をつけていないし、騎兵も板金鎧プレートメイルを着けていない。彼らが軽装で後衛に控えているのは、おそらく逃げ出した敵を追撃して止めを刺すためだ。敵の追撃を阻まなければ、この場を逃げ延びてもブラックウォール城にたどり着く前に殺されてしまう」


「つまり、窮地にある味方を見捨てて、敵と剣も交えずに逃げろというのか。我々ファランティアの騎士が、まるで農民兵のように?」


 言葉は反抗的であったが、ヴィルヘルムの声に覇気はない。


「戦うべき時と場所があるという話だ。逃げる味方の後ろを守って戦おうという話だ。ベッカー家に仕える騎士以外は国王陛下よりお借りしたものだし、農民兵だって重要だ。この後の戦いを考えれば一人でも多く――」


「やめろ!」


 突然、ヴィルヘルムはフランツから視線を逸らして怒鳴った。そして、元の力無い声色に戻って言う。


「もう……充分だ。分かったから、やめてくれ、フランツ……騎士とは名誉によって立つものだ。勝敗は問題ではなく、例え負けても名誉ある騎士として名を残せればよい。戦いはお互いを尊重して正面から力をぶつけ合うもので、作戦だとか陣形だとか、小賢しい卑怯な手で勝利をもぎ取るものではない……」


 フランツは困惑した様子で、ヴィルヘルムの肩を揺すった。

「ヴィルヘルム、しっかりしてくれ。何を言って――」


「分かっていると言っただろう! 俺はただ、そういう世界にいたいんだよ……」


 顔を上げたヴィルヘルムは泣いていた。フランツは唖然として、黙ってしまった。


 ヴィルヘルムは馬を進めてフランツの手から逃れると、従者に手を差し出して馬上槍ランスを受け取った。重い馬上槍ランスを振り上げ、ヴィルヘルムが叫ぶ。


「名誉を求める騎士たちよ、窮地にある味方を騎士たる我らが救うのだ。我こそは真の騎士という者よ、私に続け!」


 馬を後ろ足で立たせてから、ヴィルヘルムは敵の左翼を側面から突くべく堤を走り出した。騎兵の半数以上がそれに追従しようと動き出す。


 二人のやり取りを黙って見ていたギャレットは、フランツに馬を寄せて、走り出した馬の蹄にも負けないよう大声で言った。


「フランツ、残った騎兵をまとめてくれ。敵の追撃に関してはお前の予想通りだと俺も思う。しんがりを守る者が必要だ」


「ギャレット、お前は?」


 ギャレットは馬の腹を蹴って走らせた。


「俺は誓いを守る」


 フランツが聞き取れたかどうか分からないが、そう言い残してギャレットは無謀な騎士たちを追った。


 ヴィルヘルムと彼に従う騎士の集団は堤の上を走っている。ギャレットは横目にクライン川を見下ろした。


 撤退の指示が伝わったファランティア軍は退却を始めている。必死に堤を上に戻ろうとする歩兵たちや、彼らを跳ね飛ばしてでも我先に逃げようとする騎士の姿も見えた。すでにクライン川を渡河していたファランティア勢は孤立しつつある。歩兵はほぼ全員倒れ、騎士が下馬してお互いの背中を守るように円陣で立って戦っているが、もう戻るのは不可能だろう。


 ギャレットはすでに覚悟していた。フランツに説得できないなら、もう最後までヴィルヘルムに同行して守る以外に誓いを果たす方法はない。


 ヴィルヘルムに従う騎士の集団は三〇〇人近くいるようだった。ヴィルヘルムのいる先頭集団は速度を増して堤を下り、川辺の石や土を跳ね飛ばしながら川沿いに左折して、敵のクロスボウ部隊に向かって突き進む。


 クロスボウ部隊の指揮官に、土煙を上げて走る重装騎兵の姿が見えていないはずがなかった。クロスボウ部隊は指揮官の号令に従って立ち上がり、向きを変える。素早く的確な判断だ。


 ギャレットが先頭集団に追いついてヴィルヘルムの背中を捉えた時、気合の叫びを上げて突撃するファランティア騎士に向かってクロスボウの一斉射が始まった。


 一〇人以上の騎士がこの初撃で倒れた。自身に太矢クォレルが命中した者もいるが、多くは騎馬に命中した。地面を削りながら倒れた馬の下敷きになる者や、後ろから来た仲間の馬に蹴られた者などは、もしかしたら生きているかもしれないが立ち上がる事はできないだろう。倒れた馬を避けきれずにバランスを崩して落馬する者や、馬ごと転倒してしまう者もいる。馬のいななきと跳ね上がった土と小石が騎士たちの悲鳴をかき消した。


 その混乱で、ギャレットはヴィルヘルムを見失ってしまった。


 敵の一斉射ごとに一〇人以上の騎士が倒されていったが、ギャレットは幸運にもその中に入る事なく、味方の騎士が前方から消えたと思った時には敵兵の前だった。止まるわけにもいかずそのまま他の騎士と共に軍馬で敵集団に突っ込み、敵兵を踏み潰して、剣を左右に突き出す。敵は密集隊形を取っているので狙う必要はない。帝国兵はクロスボウを抱えて暴れる騎士から逃げ出した。


 突撃したら反対側に抜けるなり、左右に抜けるなりして再突撃に入るのが基本だが、帝国軍はあまりに密集しすぎていて、またファランティア騎士は気合を入れて突撃しすぎていて、両者はがっちりと絡み合って乱戦へと突入する。


 ヴィルヘルムはどこだ――と、ギャレットが周囲を見回した時、馬が嘶いて後ろ足で立ち上がり、身体が空中に放り出された。


 慌てて受身を取ったが背中を激しく打って一瞬息が止まる。だが、訓練された身体は地面を転がってくれた。膝立ちの体勢に戻った時、目の前に自分の軍馬が倒れて川原の石を弾き飛ばす。腹や足にたくさんの刺し傷があり、それをしただろう帝国兵たちが剣を手に立っていた。馬の目は恐怖のために血走り、狂気じみている。


 倒れた馬を迂回して二人の帝国兵が左右からギャレットに斬りかかってきた。手にした土を一人の顔に投げつけて狙いを逸らし、立ち上がりながらもう一人に体当たりする。近くを相手の剣がひゅんと通り過ぎた気配がした。痛みも衝撃もないので命中してはいない。


 体当たりした帝国兵はバランスを崩して、一歩、二歩と後ろによろけたので、そのまま前に出て剣を喉にねじ込む。


 もう一人に向き直ると、顔の土を払って剣を手に前進を始めたところだった。剣を力いっぱい相手の剣に叩きつけて出鼻をくじき、懐に飛び込むと、腕を首に絡めて腰を使い地面に投げ倒す。


 地面に倒した相手にも、可哀想な自分の馬にも、止めを刺すことはできなかった。ヴィルヘルムを見つけるという幸運に恵まれたからだ。


 周囲はまさに乱戦の様相を呈して、混乱の渦中にあった。馬を失って下馬した騎士と剣を抜いた敵兵が斬り合い、主を失った馬が走り回り、まだ馬上にいる騎士がクロスボウで射落とされ、敵の頭の上に落ちてもみくちゃになる。


 そんな戦場でヴィルヘルムは三人の騎士に守られていた。負傷しているのは明らかで、馬上槍ランスを支えにして片足でやっと立っているような有様だ。腰の装甲スカートがひしゃげて肉に食い込んでいるように見え、そこからどくどくと流れ出る血が、ぐったりした脚に赤い模様を描いている。兜に覆われて顔色は見えないがふらついていて、いつ倒れてもおかしくなさそうだ。一応まだ剣を持ってはいるが、だらりと地面に下げてしまっている。


 ギャレットが合流するまでに護衛の騎士は一人を残して倒され、ヴィルヘルムと護衛の騎士は五人の帝国兵に取り囲まれた。


 ギャレットが気合の咆哮を上げると、敵兵の一人がそれに気付いて振り向いたが、その顔はギャレットの剣で真っ二つになる。


 別の帝国兵が振り向きざま横に凪いだ剣を潜り抜けて、柔らかい膝裏に剣先を突き刺しながら背後に回り、ヴィルヘルムの横に立つ。膝裏を刺された帝国兵は苦痛の声を上げて膝を付いた。


 あっという間に三対三になったが、帝国兵はまだ数百人いて、こちらは数十人しかいない。すぐに取り囲まれて殺されてしまうだろう。


 一緒に戦って死んだのでは、誓いを果たした事にならない――という事に、今さらギャレットは気付いた。


「やっ」という声と共に突き出された敵兵の剣を払い、膝に蹴りを入れて体勢を崩すと、気合の声を上げて剣で首を叩き落とす。


「す、すごい……」


 ヴィルヘルムが兜の中で呟いた。敵兵もギャレットの戦いぶりに圧倒され、むやみに手を出さなくなったので、ギャレットは隣の騎士に肩をぶつけて荒々しく言った。


「そこの馬を捕まえてヴィルヘルムを乗せろ!」


 それから、顔は向けずにヴィルヘルムに言う。

「味方と合流しますよ、いいですね」


 気遣う余裕がなかったせいで、有無を言わさぬ感じになっていた。ギャレットの戦いぶりに圧倒されたのか、意識が朦朧としているのか、ヴィルヘルムは黙って頷く。


 ギャレットが敵兵を牽制している間に、騎士は馬を捕まえてヴィルヘルムを乗せた。だが、あまりにも周囲を警戒しなさすぎた。


「ぐああ!」


 悲鳴に振り向くと、騎士は回り込んだ帝国兵によって腋の下から短剣ダガーを刺し込まれていた。


 振り向いたギャレットに隙ありと見たのか、帝国兵の一人が斬りかかってくる。ギャレットは牽制のつもりで振り返りながら剣を振るった。突っ込みすぎていた帝国兵は自ら剣に飛び込む格好になって、頬から耳までざっくりと切り裂かれる。致命傷ではないが、帝国兵は剣を落として傷を押さえ、痛みに呻く。


 その隙にギャレットは馬まで後退した。刺された騎士は、刺した相手の帝国兵と取っ組み合いになって地面を転がっている。


「行けっ!」と、名も知らぬ騎士は擦れた声で叫んだ。


 ギャレットはヴィルヘルムの後ろに飛び乗ると、馬の腹を思い切り蹴って走らせた。


 背中の痛みは無視できなくなりつつあり、手はもはや剣を握っているのかどうかも定かではない。しかし今のギャレットにできる事は、痛みも、後ろからクロスボウで射られるかもしれないという恐怖も無視して、ただ馬を走らせる事だけだった。

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