4.ゴットハルト ―盟約暦1006年、秋、第5週―

 ギャレットへの怒りは、長くは続かなかった。それはゴットハルトの心を少しの間だけ奮起させてくれたが、すぐに思考は麻痺してしまった。


 その理由をゴットハルトは考えることができなかった。頭の中に石が詰まっているのではないかと思えるほど、思考は重く、鈍かった。頭の中にあるのは、〝騎士らしくあらねば〟という思いだけで、背筋を伸ばして前方をまっすぐに見据える事しかできない。


 訓練された軍馬は前方に燃える家々が見えていても、ゴットハルトを乗せて進んでくれた。少し後ろを従者のエミールがついて来ているはずだが、確認することもできない。


 やがて正門広場に到着すると、朽ちた壁の向こうに広がる火災の熱が感じられるようになり、馬の足が止まった。炎の中で戦うわけにはいかないので、ゴットハルトもそれ以上は馬を進めずに、ただ馬上で背筋を伸ばして炎を見つめる。


 周囲の衛兵は逃げ遅れた住民を避難させ、自分たちも退却を始めていた。北門がどうとか言っているが、ゴットハルトにはどうでもいい事だった。何人かの衛兵に話しかけられたような気もするが、頭に入って来ない。


 東のドーン山脈から吹き降ろす風が平野を渡ってサウスキープまで届いていたので、煙は西に流れている。おかげで北側にいるゴットハルトは煙にまかれずに済んでいた。それは炎の向こう側、南側にいる敵も同様であろう。


(敵……そう、ついに敵が現れたのだ)


 騎士として武勲を得るには敵が必要だ。打ち倒すべき敵と守るべき民がいなければ騎士は存在価値を証明できない。今まさに、騎士としての自分の価値を証明する機会を得たのだとゴットハルトは思った。


 ゴットハルトは三人兄弟の末っ子として生まれ、兄と姉がいる。

 子供の頃は父の大きな背中を見ながら、自分も大人になったら同じように領主になるのだと信じて疑わなかった。だが分別が付くようになる頃、領主になるのは兄で、自分ではないと知ってしまった。正直に言えば、兄を妬んだこともある。そんな自分が許せなくて、ゴットハルトは別の生き方を模索した。


 幸いなことに体格と運動能力に優れていたので、武芸の道で才能を発揮することができた。騎士トーナメントで上位に名を連ねること数回、ついにファランティア最強の騎士である〈王の騎士〉ステンタール卿から声をかけてもらえるまでになった。王の近衛騎士団へ勧誘されたのだ。


 ゴットハルトと同じようにトーナメントで名声を得た騎士の多くは、領地を相続しない次男以下の貴族で、その理由はゴットハルト自身と同じであろう。彼らはその後、裕福な貴族や領主に食客として招かれ、やがて男子のない貴族や裕福な商人の娘と結婚するなどして消えていく。


 その事に抵抗を感じつつも同じ道を歩み始めていたゴットハルトに、この誘いを断る理由などない。正式な入団は次の春だが、心はすでに王の近衛騎士――騎士の中の騎士であった。


 バリバリと大きな音を立てて、炎の中で家が崩れていく。どれだけ時間が経ったのか分からないが、炎は下火になりつつあった。黒い煙幕の向こうに、火災の炎ではない小さな明かりがぽつぽつと見えてくる。敵がすぐそこにいるのだ。


 ゴットハルトの心臓は激しく脈打ち、耳元で脈動しているかのようだった。鎧われた全身を冷たい汗が流れ、震えが止まらない。自分がどれだけ震えているのか、ゴットハルト自身には分からなかった。願わくば敵と、従者のエミールと、そしてもしこの場を見ている者が他にいるとしたらその者に、気付かれない程度であってほしい。


 馬の鞍に吊るしてある縦長の盾カイトシールドストラップを引っ張って持ち上げる。ゴットハルトが右手を差し出すと、従者のエミールが馬上槍ランスを握らせてくれた。


 両腕が痺れて感覚がなくなった頃には、炎は弱まり、煙も少なくなっていた。甲冑の兜は面甲を下ろすと極端に視界が狭くなる。それでも後方にあるエミールの松明が、そこに彼がいる事を知らせてくれた。彼の視線が、ゴットハルトを騎士らしく振舞わせてくれる最後の支えだ。


 最初に現れたのは五人だった。


 全員が統一感のある同じ装備である。膝まで覆う長裾の鎖帷子チェインホーバークを着て、その上から赤と白の模様が入った軍衣サーコートを着ている。丸いつば付き帽子の形をした金属製の兜を被っていて、膝まである革のロングブーツを履き、手には革の手袋をはめている。手にしている武器はクロスボウだ。弓などという卑怯者の武器、不名誉な武器を持たされているということは身分の低い農民兵か何かであろう、とゴットハルトは判断した。


「わ――」


 名乗りを上げようとしたが、ずっと緊張したまま閉じていた口は舌の根まで乾いていて上手く声が出ない。


 最初の五人が膝を地面につけてクロスボウを構える。その後ろから、さらに五人が現れてクロスボウを準備した。


「わたっ――し、はっ――」


 敵を前に名乗りを上げるのは待ち望んだ瞬間のはずなのに、トーナメントの観客まで聞こえるほどの大声を響かせた喉からは、まともに声が出ない。閉じた兜の中に響くのは、自分の心臓の鼓動だけだ。


 さらに五人のクロスボウ兵が現れた。今度はクロスボウを下げ、構えていない。


 ゴットハルトが見たことのない隊列である。五人が三列になっている。そのように密集して並べば、騎士の突撃で倒される人数も増えてしまうではないかという疑問が頭に浮かぶ。そしてなぜ敵の騎士が出てこないのか。ゴットハルトにはどちらも理解できなかった。


 こちらは紋章を掲げているのだ。俺が騎士なのはわかるはずだぞ――その苛立ちがゴットハルトの麻痺を緩め、「わたしはっ――」と大声を響かせた瞬間であった。


 バン、という大きな音がして、最前列の五人が一斉に太矢クォレルを発射した。


 二本が馬の首と胸に命中して馬鎧を貫通し、馬は苦痛に啼き叫んで倒れる。振り落とされたゴットハルトの身体は訓練されたとおりに反応して、馬の下敷きにならぬよう、受身を取って地面を転がってくれた。上体を起こすと、馬は倒れたまま死に瀕している。馬上槍ランスは地面に落ちた時に折れてしまっていた。


 何が起こったのか分からず、ゴットハルトは混乱した。

 名乗りを上げていないし、敵の騎士の名も聞いていない。まだ戦いは始まっていないはずなのに――と。


 敵を見ると、前列の五人は最後尾に回り、二列目の敵が前に出て膝を付き射撃体勢に入っている。ゴットハルトは反射的に身体を転がして馬体を盾にした。

 再び、バン、という音がして、さっきまでゴットハルトがいた地面がえぐられ、馬の身体が衝撃に揺れる。鎧の肩甲ポールドロン太矢クォレルがかすったのか、火花が散った。


「この卑怯者め! 今すぐ止めないと、騎士の制裁を受けるぞ!」

 ゴットハルトは叫び、そしてエミールに向けて右手を伸ばした。

「エミール、盾だ!」

 だが、反応がない。

「どうした、エミール!」


 ゴットハルトの兜は肩甲ポールドロン首鎧ゴルゲットに連結している。そのため首はほとんど回らない。だから背後を見ようとするなら、兜の中で無理に首を回して、狭い隙間から外を見るしかない。


 最初に見えたのは地面に落ちている盾。次に、横たわるエミールの足。びくん、びくん、と痙攣している。ゴットハルトは上体を起こして腰を回し、エミールの全身を見た。胸に深々と太矢クォレルが突き刺さり、身体を痙攣させながら血の泡を吹き出している。急速に命を失っていく目が恨めしそうにゴットハルトを見ていた。


 三度目の発射音が響いて、ゴットハルトの身体は衝撃に打ち倒される。

 左の肩甲ポールドロンが弾け跳び、太矢クォレルが肩に突き刺さって骨を砕く。鋭い痛みが全身を貫いた。兜の右側に付いていた飾りが砕けて止め具が壊れ、面甲がずれて右目の視界を塞ぐ。どろりとした熱い液体が耳の辺りから流れて首筋を濡らしていく。


 その瞬間、ゴットハルトが必死に封じ込めていた恐怖が爆発した。

「うああああああああっ!」


 悲鳴とも雄たけびともつかぬ声を上げ、だらりとして動かない左腕はそのままに、甲冑を着込んでいるにも関わらずゴットハルトは驚くほど素早く立ち上がった。何をしようとしているか彼自身にも分からないまま、馬上槍ランスの折れた半分を敵兵に向かって投げつける。次の射撃を準備していた五人のうちの一人にそれは命中し、左右の二人を巻き込んで尻もちをつかせた。


 その隙にゴットハルトは腰の剣を抜き放つと、絶叫を上げて突撃した。発射された太矢クォレルが脛に命中し、右脇腹をえぐっても、ゴットハルトの突撃は止まらない。体勢を崩していた敵兵の一人に身体ごと激突し、その胸を剣で刺し貫く。


 響き渡る悲鳴が自分のものか敵のものか、狂乱したゴットハルトには分からなかった。甲冑の隙間から、焼きごてを押し付けられたような鋭い痛みが刺し込まれてくる。硬い鉄製の鎧の中で、ぬるぬるとした液体に全身を濡らしながらゴットハルトは右腕をめちゃくちゃに振り回し、暴れまわった。


 そうしているうちに耳元で鳴り響いていた絶叫が遠くなっていき、同時に怒りも恐怖も後悔も、何もかもが遠のいて――そして唐突に、何も感じなくなった。

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