第3話 ライブ
学祭でのライブが近づくにつれ、バンド内の熱と緊張が一気に高まっていた。特にボーカルの櫻井のピリピリとした緊張感は周りにも伝わるほどであった。少しでも気に入らないことがあると、煙草を吸うと言って出て行ってしまう。櫻井は普段は温厚な性格なのだが、調子の出ない時の彼は気難しい。
どんな曲でも櫻井さんの歌は人の心を掴むのに。張りつめた空気に耐えきれず、裕太は夢中でギターを鳴らした。何か気の利いた言葉の一つでも言えたらよかったが、裕太にはボーカリストの苦悩は分かろうとしても分からない。
「あのカバー曲あるでしょ、鈴木が持ってきたやつ。あれがどうしてもうまくいかないんだってさ」
スタジオの外で裕太が休憩をしていると、ベースの中川がコーヒーを持って隣へやって来た。どうやら調子の悪い櫻井のことを言っているらしい。昔から櫻井とバンドを組んできた中川のことだ、こんな状況はもう慣れっこだといった様子である。
「何度歌っても本物の歌声が頭にチラついて、自分のものにしたいのに、物まねみたいになってしまって悔しいんだと。あのボーカルは凄いからね」
中川はいたって冷静に言った。あのボーカルの歌声を思い浮かべる。一度聴いたら離れられない、真っすぐで力強い歌声。
「俺はどうしたらいいんでしょうか」
憧れの人が苦しんでいるのに、何もできない自分が悔しい、と裕太は思った。自分だって同じバンドの仲間なのに、悩みがあるなら言ってくれたらいいのに、櫻井は決して裕太に告げることはない。櫻井が悩みを打ち明けるのはいつだって中川なのだ。
「大丈夫、放っておけば勝手に立ち直るよ、あいつは」
やはりいつものこと、と言うような中川の態度を裕太はもどかしく思う。
「まーそれは放っとけば?」
カウンターの向こうで、グラスを拭いながら馨は言った。学祭ライブまであと三日と迫った七月のことである。
時々裕太は馨の働くバーへ行く。未成年だから酒は飲まないが、食事も出るため夕食を食べに来るのだ。一人暮らしだがあまり料理が得意でないので外食続きだと言う話をしたところ、馨にここへ来ればいいと言われた。
ここはバーと言うよりは居酒屋に近い。店主が料理を作るのが好きらしく、酒の他に軽い食事も出る。店内はジャズが流れており、時折ロックもかかった。
店の端には小さなステージがあり、グランドピアノとアコースティックギターと機材類が置かれている。これも店主の趣味らしく、希望を出せばだれでも演奏できるらしい。そのため、この店には音楽好きが多く集まる。せいぜい二十人入るか入らないかのこぢんまりとした店だからこそ、落ち着いた雰囲気が流れていて裕太も気に入っていた。
「そうですかね……」
「ヘタなこと言って怒らせるのもめんどくさいだろ」
お前の悩むことじゃない、言いながら馨は裕太のグラスに烏龍茶を注いだ。ぱくぱくと裕太が食べているのは、店主手製のグラタンだ。これがなかなかおいしい。
「他の人には分からない悩みなんて誰にだってあるんだし」
不意に真面目な顔で馨は言った。きっとそれは馨にもあるのだろう。裕太には決して分からない、知らされないことなのだ。
「バンドって結局人と人との集まりだからな、ただ音だけ出してればいいって話でもない」
ぽつぽつ、と馨が言う。明らかにバンドをしていたことのある物言いである。音楽に詳しい彼が、バンドをやっていたと明言したことは無い。けれどもこの言葉で裕太は確信した。
「馨さんもバンドやってたんですか?」
馨は困ったように眉を下げる。何かを隠している。
「昔、な」
馨は笑っているけれども、ぎこちない。これ以上聞かないで欲しい、そう言いたげな顔だ。それがスランプに陥っている櫻井と重なって、チクリと胸が痛んだ。馨について、裕太が知っていることはあまりに少ない。
「ところでデザートでも食べない?」
店主の上野が横から割って入る。
「今度出そうと思うアイスの試作。白桃味。どう?」
差し出された皿の上には真っ白なアイスが乗っていた。これも彼の自作だろう。
「ありがとうございます」
「試作品だからお金は要らないよ」
絶妙なタイミングだった。おそらく上野は、馨に助け舟を出したのだろう。わずかに馨が安堵しているように見える。二人は高校の頃からの友人だと前に言っていた。裕太よりもずっと馨のことを知っている。馨の言いたくないことも多分、分かっているのだ。
アイスを一口食べる。甘くて、美味しい。じわり、と口の中で溶けて消えた。
いよいよ学祭ライブが始まった。学祭ライブは学内の小さなホールを貸し切り、計十組のバンドが順番に演奏を行う。ホールは学内の生徒は勿論、学外の人々も集まって盛況であった。
裕太たちのバンドの出番は七組目だ。
ステージへ上がり、裕太はギターを構え、客席を見渡した。端から端まで見渡したところで、最前の隅にちょこんと座っている馨を見つけた。
馨はいつも通りの格好で、しかし少し居心地が悪そうに眉を寄せていた。裕太はじっと馨を見つめる。ふと顔を上げた馨と視線が合うと、裕太はにこりと笑った。なんだよ、と馨が照れるのを見たのち、裕太は視線を櫻井に向ける。
櫻井はあれから少しスランプを抜けたようだ。というよりは無理矢理スランプから脱したことにしたらしい。いつも通り、とはいかないが徐々に本調子を取り戻しつつある。大丈夫、櫻井さんなら歌える、裕太は櫻井の目を見て思った。
ドラムのカウントが響く。どっしりとしたベースが鳴る。裕太は思い切りギターを掻き鳴らした。オープニングに相応しく、激しいアップテンポのロックチューンである。客は一斉に立ち上がり、腕を振り、体を揺らした。隅にいる馨も同じようにリズムに身を任せていた。
櫻井が深く息を吸う。音に合わせて歌い始める。
ほら、やっぱり、最高だ、裕太は櫻井へ微笑みかける。櫻井の活き活きした目がカッコよくて、誇らしかった。
このまま時が止まってしまえばいいのに、裕太はライブをするたびに思う。こんな楽しい時間がずっとずっと続けばいいのに、願わずにはいられない。
ライブは終盤に差し掛かり、いよいよ次はあの櫻井の苦戦していた『Tactics』のカバーである。
櫻井の緊張がひしひしと伝わる。けれども、調子は悪くはなさそうだ。裕太は櫻井の方を向いて頷き、前奏を弾きはじめる。しばらくギターだけのメロディを弾く。ドラムとベースが入ると、客席の方へ向き直った。
馨が驚いた顔で裕太を見ていた。裕太の視線に気づくと、すぐさま馨は誤魔化すように顔を背けた。裕太の嫌いな、何かを隠している顔。
櫻井の歌声がホールいっぱいに鳴り響く。けれども裕太は、馨の様子が気にかかっていた。今はそんなことを考えている場合ではないのに。裕太は首を振り再び集中する。今はライブのことだけを考えよう。
「最高だった!」
打ち上げでビールを開け、開口一番に櫻井は言った。乾杯と次々にメンバーや友人、他のバンド仲間たちが一斉にビールを開ける。未成年の裕太はウーロン茶で乾杯をした。
ライブは大成功で終わった。
「あのさあ、客席に千葉馨来てたの気づいた?」
鈴木がビール片手に寄ってきて言った。裕太はきょとんとした顔で、え? と聞き返す。どうして鈴木が馨を知っているのだ。
「え? って気づいてなかったのか? 俺むちゃくちゃ緊張したんだからな。本物のボーカルの前でカバー演奏するなんて、もうなんか出るかと」
「本物って『Tactics』の?」
「ああ、あの『Tactics』のだよ。やっべえな」
鈴木は死ぬかと思っただの顔から火が出るだの喚いていたが、一切裕太の頭には入ってこなかった。
『Tactics』のボーカルが馨だなんて、裕太は知らなかった。彼らのライブを見たことも無ければ、映像すら見たことがなかったのである。ただ好きで曲を聴いていただけで、メンバーなどの情報は何一つとして知らなかったのだ。
ああだから、馨はあの顔をしたのだ。裕太の嫌いな、何かを隠す顔。誰にも踏み込ませないと、感情を押し殺した顔。
「裕太、聞いてるか?」
「聞いてる聞いてる」
「しっかし何で来たんだろうな」
自分が呼んだ、とはとても言えなかった。『Tactics』の大ファンである鈴木にそれを言ったら、余計面倒なことになると思ったからである。
打ち上げを終え、家に帰るなり裕太は直ぐに『Tactics』について調べた。確かにボーカリストとして馨の名前が記されている。
それから映像を探す。そこにはマイクを握りしめ、鋭い瞳で歌う馨の姿があった。
一瞬で引きこまれる。CDの音源よりもずっとずっと力強くて、それでいて繊細な歌だ。まるで全てを曝け出すような、魂の叫びのような歌。
衝撃だった。どうして今まで見たことがなかったのだろう、裕太は激しく後悔した。裕太の知らない馨がそこにいた。どうしようもなく惹かれた。恋をしている時のように胸が苦しかった。
隣でギターを弾く青年が映る。突然の事故で亡くなったというギタリスト。
きっとあの雨の日に、彼の葬儀が行われたのだろう。あの時馨が喪服を着ていたのはそのためだったのだ。
ぐっしょりと濡れた黒い髪と、震える紫の唇を思い出す。
裕太はスマートフォンを放り、ベッドに倒れ込んだ。このことは、馨の過去を知ってしまったことは、誰にも言わないでおこう。言ってしまったら、きっと今まで通りの関係ではいられない。
馨の歌声が頭の中で反響する。何度も何度も、映像と共に歌声が鳴り響いて、その夜裕太は眠ることが出来なかった。
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