第十話

第十話・1

 それは、いつもの学校帰りのことだった。

 香奈姉ちゃんは、何を思ったのか、こんなことを言ってきた。


「今度の日曜日ね、隆一さんとデートに行くことになったから」

「何かあったの?」


 いきなりそんなことを言われて、平静でいられるはずもなく、思わず香奈姉ちゃんにそう聞いていた。

 兄とデートなんてめずらしいな。

 今までなら、にべもなく断っていたんだろうけど。

 ホントに何かあったんだろうか。

 香奈姉ちゃんは、すごく言いづらそうな表情を浮かべて言った。


「うん。ちょっとね……。その日は、隆一さんにとっての特別な日になるんだよね。…だから、私が寄り添ってあげないといけないんだ」


 その日は何かの記念日ってわけでも、ましてや兄の誕生日ってわけでもない。

 一体、何だろう。

 僕が知る限りでは、特に何もなさそうだけど。

 とても気になるところだが、僕が立ち入っていい話でもなさそうだ。


「わかった。兄貴とデートに行くんだね。…気をつけてね」

「ちょっと待ってよ。心配とかしないの? 隆一さんとデートに行くのよ、私」


 香奈姉ちゃんは、なぜか取り乱した様子でそう聞いてきた。

 心配…かぁ。

 そんなこと言われてもな。

 心配する要素があまりない気がするんだけど。


「心配してもなぁ……。香奈姉ちゃんのことだから、何も問題ないと思うんだけど」

「それって、どういう意味かな?」

「香奈姉ちゃんって、そういうところはしっかりしてるから、大丈夫かなって──」

「そっかぁ。一応、信頼はしてくれてるんだね」


 香奈姉ちゃんは、そう言って微笑を浮かべる。


「うん。信頼はしてるよ」

「ありがとう、楓。やっぱり、私は──だな」


 ここから先の言葉は、まわりの騒音のせいでよく聞こえなかった。


「え? なに?」

「何でもないよ。こういう大事なことは、一回しか言わないんだからね」

「そんなぁ。もう一回言ってよ」

「言わないよ~だ」


 香奈姉ちゃんは、悪戯っ子のようにそう言って舌をぺろっと出す。

 これも、僕の前でしかしない仕草なんだよな。

 僕の姉的存在の幼馴染は、どこに行っても恥ずかしくないくらい可愛くて、品行方正な女の子だ(たまにエッチなことをしようとするけど)。

 そんな彼女が、僕にはまぶしく見えてしまう。

 ──そっか。

 今度の日曜日、香奈姉ちゃんは、兄貴とデートに行くのか。

 それじゃ、その日は何してようかな。


 帰宅すると、僕はいつもどおりに


「ただいま~」


 と言って、家の中に入る。

 もちろん家の中には誰もいないので、返事をする人はいない。

 僕は、さっさと自分の部屋に行って、私服に着替えたかったのだが。


「さて。今日は、何をするのかな~?」


 学校帰りからずっと僕の側にいた香奈姉ちゃんは、悪戯っぽい笑みを浮かべてそう聞いてきた。

 なぜ香奈姉ちゃんがここに?…ていうのは、もう説明が面倒だから省いておく。

 僕は、私服に着替えたい気持ちでいっぱいだったから、当然のように自分の部屋の前に着くと、案の定、一緒についてきた香奈姉ちゃんに言った。


「あの……。着替えをしたいんだけど。だから香奈姉ちゃんには──」

「そうなんだ。私のことは気にしなくてもオッケーだよ。私は、楓の側にいたいだけだから」


 香奈姉ちゃんは、そう言うといつものように僕に抱きついてくる。

 ホントに人の話を聞いていたのかな。

 でも、これが本来の香奈姉ちゃんだと言えば、そのとおりかもしれないが。

 僕は、軽くため息を吐きながら言った。


「…仕方ないなぁ。ちょっとだけ後ろを向いててよ」

「はーい」


 香奈姉ちゃんは、嬉しそうにそう返事をする。

 僕の言葉を、どこまで聞いてくれるのかわからないけど……。

 いつものことながら、香奈姉ちゃんには敵わないなぁ。

 僕は、そそくさと自分の部屋に入ると、その場で制服を脱いだ。

 香奈姉ちゃんは、僕の着替えの最中にもかかわらず、楽しそうな表情で僕を見つめていた。

 さっきの、僕との約束はどうしたんだろう。

 後ろ向いててって言ったのに……。


「あの……。香奈姉ちゃん」

「何かな?」

「できるなら後ろを向いててほしいんだけど……」

「どうして?」

「どうしてって……。今、着替えの最中なんだけど……」


 僕は、ベッドの上に置いてあったスラックスを履きながら言う。

 香奈姉ちゃんは、後ろを向く気がないのか楽しそうな笑顔を浮かべたまま言った。


「うん。見ればわかる」

「わかっているなら、どうして……」

「別に、見られて困るようなものは何もないでしょ?」

「いや……。たしかに、香奈姉ちゃんに見られて困るものは何もないけど……。だけど、僕の裸はさすがに問題あるような……」

「普段から私の裸を見てるんだから、このくらいはいいじゃない」

「それは……」


 そう言われると、返す言葉がない。

 たしかに香奈姉ちゃんの裸は頻繁に見てるような気がするけど、それは香奈姉ちゃんが自主的に服を脱いだりしてるからであって……。僕が見たいからってわけじゃないんだけどなぁ。


「楓は、私の裸にメロメロになってるんだから、私が楓の裸にメロメロになったっていいと思うんだよね」

「こんな貧相な身体にメロメロになる人なんて──」


 僕の身体は、女の子好みのマッチョな身体じゃない。


「ここにちゃんといるよ」


 香奈姉ちゃんは、自分を指差して言う。


「香奈姉ちゃんは、ともかくとして──」

「え~。私じゃ、ダメなの?」

「香奈姉ちゃんの基準だと、一般的な判断ができなくなるじゃないか」

「そんなことないよ。楓は、十分にカッコいいよ」


 香奈姉ちゃんに、そんなこと言われてもなぁ。

 説得力がないっていうか。


「そんなこと言われても、あんまり実感が湧かないなぁ」

「実感が湧かないのは当然じゃない」

「どうして?」

「だって楓の良さを知っているのは、私だけだもん」


 香奈姉ちゃんは、自分の胸に手を添えてそう言った。

 そんな安心したような表情で言われても……。

 僕が恥ずかしいだけじゃないか。


「まぁ、香奈姉ちゃんは幼馴染だからね。そういうのは知っていてもおかしくはないんじゃない」


 僕は、軽くため息を吐いてそう言った。


「そうでしょ。だから、楓のどこが好きなのかもハッキリ言えるよ」


 何の恥ずかし気もなくそう言う香奈姉ちゃんからは、一点の迷いもないように思える。

 兄とデートに行くって言ってたけど、ホントに行くつもりなのか。

 その辺だけが気がかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る