第九話・10

 泊まる気まんまんなのか、香奈姉ちゃんは僕の部屋に入ってくるなり、予備の布団を敷いていた。

 一体何のつもりなのか、聞いてみる。


「あの……。香奈姉ちゃん」

「あ……。ちゃんと楓のお母さんから許可はもらったからね。今日は、楓の家に泊まっていくから」


 香奈姉ちゃんは、ルームウェア姿でそう言った。

 あの後、一度自分の家に帰ってから僕の家に戻ってきてるので、次の日の準備とかもバッチリなんだろう。

 鞄やら制服やらを、わざわざ持ってきている。


「そうなんだ。…ていうか、僕の部屋に泊まるんだね」

「当たり前じゃない。楓の部屋以外のどこに泊まるっていうの?」

「例えば、書斎とかは?」

「書斎に泊まることも考えたんだけどね。隆一さんがいきなり凸してくることもあるから、安全圏で楓の部屋にしたんだよ」


 香奈姉ちゃんが僕の家に泊まっていくのは、いつものことなので構わないけれど。


「もしも僕の風邪が感染ったら、どうするつもりなの?」

「その時はその時よ。楓に看病してもらえば、何も問題ないじゃない」


 香奈姉ちゃんは、平然とした表情でそう言った。

 そんな事を平然と言える香奈姉ちゃんは、ある意味すごいな。

 まぁ、僕の風邪は、確実に香奈姉ちゃんから感染ったものなんだけどね。


「いや……。万が一、そうなったら看病するつもりではいるけど……」

「うんうん。さすが楓。その辺は、しっかりしてるよね。誰かさんと違って」


 香奈姉ちゃんは、部屋の外にも聞こえるような声でそう言った。

 誰かさんって、誰のことだろう。

 僕が知ってる人なのかな。


「誰かさんって、誰のこと?」

「楓は、そんなこと気にしなくていいの。それよりも、はやく風邪を治さないといけないでしょ」

「それは、そうだけど……」


 まったく気にならないと言われれば嘘になる。

 でも、香奈姉ちゃんの言うとおり、風邪を治さなきゃならないのは事実だ。


「わかってるんなら、お薬飲んではやく寝るのが一番だよ」


 香奈姉ちゃんは、そう言うと鞄の中から風邪薬を取り出してみせる。

 たぶんその風邪薬は、香奈姉ちゃんが自分の家から持ってきたものだろう。

 わざわざ持ってこなくても、僕の家にもあるのにな。


「そうだね。それじゃ、水を持ってくるから──」

「その心配は無用だよ」

「え?」


 僕は、自分の部屋のドアノブに手をかけようとして途中でやめて、香奈姉ちゃんに視線を向ける。

 香奈姉ちゃんは、ペットボトルを一本、取り出していた。

 大きなペットボトルではなく、小さめのものだ。

 小さめのペットボトルの中には、水が入っている。


「水なら、ここにあるよ。きっと必要になるかと思って」

「ありがとう。香奈姉ちゃん」


 僕は、お礼の言葉を口にする。

 準備がいいというか、なんというか。

 さすが香奈姉ちゃんだ。

 僕なら、ここまで気が利かないかも。


「礼には及ばないよ。私は、楓のためにここにいるの。だから、お薬飲んではやく良くなってよね」


 香奈姉ちゃんは、笑顔でそう言った。

 ホントに香奈姉ちゃんには、感謝しかない。

 アプローチはちょっと強めだけど、基本的に僕のためを思ってのことだから、別に嫌ではないし。


「うん」


 僕は、香奈姉ちゃんが用意してくれた風邪薬を飲んだ。


 ──真夜中。

 途端に寝苦しくなった僕は、ふいに目を覚ます。


「今、何時なんだ?」


 ボソリと呟きながら、近くにある置き時計に目をやる。

 時刻は、午前の二時。

 目覚めるには、早すぎる時間帯だ。


「喉が渇いたな……」


 僕はベッドから起き上がり、近くで寝ている香奈姉ちゃんを起こさないように部屋を出る。

 兄は、たぶん自分の部屋にいるとは思うが、この時間帯だし、もう寝ているだろう。

 僕は、一息吐くと一階の居間へと向かう。

 飲み水は冷蔵庫に入っているはずだから、迷うことはない。

 僕は、普段使っているコップに飲み水を注ぐと、それをゆっくりと飲んだ。

 とりあえず、喉の渇きはそれで満たされた。

 後はトイレに行ってから、自分の部屋に戻ればいいかな。


「楓? 何してるの?」


 その言葉は、トイレに行こうとした時にかけられたものだ。

 誰なのかは言うまでもない。

 香奈姉ちゃんだ。


「ちょっとお手洗いにね」

「そうなんだ。いきなり部屋を出ていったから、どうしたのかなって心配になっちゃったよ」


 僕が、自分の部屋から出るところから見ていたのか。…ていうか、その時に目を覚ましていたのなら、声をかけるかしてほしかったな。


「ホントにお手洗いだけだよ。心配しなくても大丈夫だよ」

「そっか。それなら、ちょうどいいかな。私もお手洗いに──」

「それなら、香奈姉ちゃんから先にどうぞ」


 僕はトイレの前に着くと、先に香奈姉ちゃんにトイレに入るよう促した。


「そんなに警戒しなくても……。さっきのアレは、楓にわかってほしくて……」

「いや、わからないです」

「わからないって……。そういうのは、雰囲気で察してよ」

「まぁ、兄貴にはそんなことはしないっていうのは理解できるけど」

「そうだよ。楓だから、そうするんだよ」

「僕だから…か。嬉しいけど、さっきのアレをやるのはちょっと……」

「そうだよね。ちょっと恥ずかしいよね……。それなら、もう少し考えてみるね」


 香奈姉ちゃんは、そう言うとトイレに入っていった。

 自分でそういうことして恥ずかしいのなら、やめればいいのに……。

 そうしてしばらくしてから、香奈姉ちゃんがトイレから出てくる。


「もういいよ」


 香奈姉ちゃんは、なぜか恥ずかしそうな表情を浮かべてそう言った。

 ただトイレで用を足すことがそんなに恥ずかしかったのか。

 ますます羞恥心の基準がわからないぞ。

 香奈姉ちゃんとの入れ違いで、僕はトイレに入っていく。

 ──まったく。

 何なんだろうか。

 僕は、リラックスして用を足していると


「か~え~で!」


 香奈姉ちゃんは、またしてもトイレの中に入ってきて、僕に抱きついてきた。


「わっ、わっ⁉︎」


 用を足している最中だったので、僕は慌てて大事な箇所を押さえて、用足しの出し具合を調節する。

 先程のような『滝のように』という感じじゃないので、途中で止めることは容易だった。

 それでも抱きついてきた衝撃で、照準が狂ってしまったのは事実だ。

 僕は、すぐにトイレ内を確認する。

 どうやら、どこにもかかってはいないようだ。

 危うく便器の外にひっかけてしまうところだったな。

 香奈姉ちゃんは、興味津々といった表情で僕の大事な箇所を覗きこんでくる。


「おしっこは、し終わった?」

「香奈姉ちゃん……」

「ん? 何かな?」

「頼むから、おしっこしてる最中に抱きついてくるのは、やめてほしいな」

「どうして?」


 いや……。どうしてって言われても。

 逆に僕にそれをされたらって考えないのかな。


「男の場合は…ね。照準がちょっとね……」

「照準…なんだね」


 香奈姉ちゃんは、可笑しかったのか笑いを堪えてそう言っていた。

 笑い事じゃないし。

 男にとっては、それは由々しき事態だし。


「とにかく。安心して用を足すことができなくなるから、お手洗い中に抱きついてくるのだけはやめてよ」

「む~。わかったよ。…せっかく、楓のあそこをじっくり見ようかなって思っていたのに……」


 香奈姉ちゃんは、ムスッとした表情で言う。

 そんなに僕の大事な箇所が見たいのか。

 見たところで、良いことなんて一つもないのに。


「僕のあそこを見て、何がしたいの?」


 僕は、思案げにそう聞いていた。

 すると香奈姉ちゃんは、途端に顔を赤くする。


「それは……。今後の参考にさせてもらおうかと思って…ね」


 一体、何の参考にするつもりなんだ?

 僕からは、何も得られないかと思うんだけど。

 とりあえず用は足したことだし、トイレにはもう用はない。

 僕は、トイレから出たあと、香奈姉ちゃんに言った。


「何の参考にするのかよくわからないけど、程々にお願いね」

「わかってるって。これは私と楓とのことだから、それ以外には、参考にはしないよ」


 その言葉を、どこまで信用すればいいのかわからないけど……。

 でも、信じていいんだよね。

 僕は、香奈姉ちゃんと一緒に自分の部屋に戻っていった。

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