第六話・7

 朝ごはんを済ませると、僕はすぐに部屋に戻り、鞄の中に筆記用具と教材を入れていく。

 ホントならこっちの方を先にやるのが正解なんだけど、それだとお弁当作りの方で手抜きになりそうだったので、敢えてこっちを後回しにしたのである。

 香奈姉ちゃんには僕の手作り弁当をしっかり渡したし、他に忘れ物はないかな。

 あまり急ぎすぎると身の回りのことが疎かになるから、気をつけないと……。

 そう思い居間の方を見回していると、玄関の方にいる香奈姉ちゃんが声を上げた。


「行こう、楓。もたもたしてると遅刻しちゃうよ」


 たしかに、そのとおりだ。

 はやくしないと遅刻してしまう。

 色々と準備をしているうちに、もうそんな時間になったか。


「うん。今、行くよ」


 僕は、そう言って香奈姉ちゃんがいる玄関に向かう。

 香奈姉ちゃんは、まだ靴を履いておらず、僕のことをジッと待っていたようだった。

 僕は、何かあったのかと思い聞いてみる。


「あれ? まだ靴を履いてなかったの?」

「うん。楓がいつ来るかなって思って待ってたんだ」


 香奈姉ちゃんは、笑顔を浮かべてそう言った。

 どうやら、特にはないらしい。

 それにしても、そんな屈託のない笑顔を見せられたら、僕はこう言うしかないじゃないか。


「待っててくれて、ありがとう。忘れ物がないかチェックしていたんだ」

「そうなんだ。…それで、何かあったの?」

「これといって特にないかな。香奈姉ちゃんの方は?」

「私? うーん……。必要なものは昨日のうちに持ってきてるし、特にはないよ」

「そっか。それなら、問題ないか」


 僕がそう言うと、香奈姉ちゃんは靴を履きだした。

 それにしても、僕の目の前で靴を履く行為を見ていると、なんだか不思議な気持ちになってしまうな。

 僕の家には女の子がいないから、新鮮というか。


「忘れ物がないのなら、はやく行こうよ」

「うん」


 靴を履き終えた香奈姉ちゃんにそう言われ、僕は頷いていた。


 女子校での文化祭が近いためか、バンドでの練習はみんな積極的だ。

 文化祭の準備のため、男子校の校門前に来ることはないが、夜の時間にやる練習にはみんな揃って来ていた。

 みんな学校から帰ったばかりだからなのか、制服姿だ。

 いつもの別室で練習していると、奈緒さんが僕に近づいてくる。


「ねえ、楓君」

「なんですか?」

「最近、香奈とはどんな感じなの?」

「どんな感じって聞かれても……」


 僕は、そう言いながら香奈姉ちゃんを見た。

 香奈姉ちゃんは、美沙さんと理恵さんのところに行って、何かの打ち合わせをしている。

 当然だけど、香奈姉ちゃんたちには、僕と奈緒さんの会話は聞こえていない。

 小声で言っているのだから、当然なんだろうけど。


「あたしが見た感じだけど、楓君と香奈は、いい感じだね」

「そうかな?」

「あたしの目に狂いはないよ。やっぱり楓君は、あたしの思ったとおりのかっこいい男の子だよ。あの時、パンツをあげておいてよかったよ」

「パンツって……」

「女の子のパンツを男の子に渡す行為には、二つの意味があってね。一つは、その人に対して純粋に好意を示しているってことで、二つ目は、その人に対しての親愛の証なんだ」

「親愛の証?」


 僕がそう聞き返すと、奈緒さんは僕の手を優しく掴み、微笑を浮かべる。


「そう。親愛だよ」

「奈緒さん?」

「あたしは、たしかに香奈とは友達だけど、だからといって楓君のことを諦めるつもりはないからね」


 奈緒さんは、そう言うと僕の左頬にキスしてきた。

 僕は、あまりのことに呆然となってしまう。


「あーー! 何やってるのよ、奈緒ちゃん!」


 すると、美沙さんのいるところから香奈姉ちゃんの声が聞こえてきた。

 どうやら、香奈姉ちゃんはそれを見ていたらしい。

 まぁ、香奈姉ちゃんからしたら、ちょっと目を離した隙にって感じなんだろうけど。


「ん? 何のことかな?」


 奈緒さんは、何事もなかったかのように振る舞う。

 香奈姉ちゃんは、ムスッとした顔で口を開いた。


「惚けたってダメなんだからね!」

「何もしてないよ。ちょっと楓君と打ち合わせに…ね」


 奈緒さんは、微笑を浮かべてそう言う。

 たしかに打ち合わせなんだろうけど……。でも……。

 隠し事はいけないような気がする。

 奈緒さんは、ジーっと僕の方を見てきた。

 それは『さっきのことは内緒だよ』って、眼で訴えてくるような感じだった。

 そんな奈緒さんを見て、僕は押し黙ってしまう。

 香奈姉ちゃんは、僕と奈緒さんの様子にムーっとした表情で奈緒さんを見る。


「そんなこと言って……。また私に隠し事をしてるでしょ! …見ればすぐにわかるんだからね」

「隠し事なんてしてないよ。あたしは、楓君と音楽の話をしていただけだよ。…そうだよね? 楓君」


 奈緒さんは、至って落ち着いた様子だった。


「う、うん」


 僕は、奈緒さんの目をしっかりと見て、頷く。

 まぁ、音楽の話をしていたというより、僕と香奈姉ちゃんの話をしていたんだけど……。

 きっと、この事も内緒なんだよね。


「ホントかなぁ。…なんか怪しいんだよなぁ」


 香奈姉ちゃんは、釈然としない様子で僕の方に視線を向ける。

 そんな目で見られたって、ホントに何もないです。


「えっと……。そんな目で見られても何もないよ……。それよりも、もう少し練習しない? せっかく集まったんだしさ。今度は流しでやってみようよ」


 僕は、肩に下げていたベースを手にしてそう言っていた。

 何かを誤魔化すかのような態度に見えなくもないが、今は、練習のために集まっていることには違いない。

 僕も、さすがに奈緒さんとのことを引きずるのは抵抗があるし。

 香奈姉ちゃんも、そう思ったのかみんなを見て


「…そうだね。それじゃ、弟くんの言うとおり、流しでやってみようか」


 そう言った。

 チラリと僕のほうに視線を向けたのは、正直気になったけど、今は気にしないでおこう。

 美沙さんは、ジーっと僕のほうを見ていたが、香奈姉ちゃんの言葉に肩をすくめ、口を開いた。


「賛成。それじゃ、今日の練習はこれでラストってことでいいよね?」

「うん。そろそろ時間的にもやばいしね。今日は、これでラストだね」


 そう言うと香奈姉ちゃんは、歌詞が書かれた紙を見て確認し始める。

 奈緒さんは、微笑を浮かべギターをかき鳴らす。


「後は、各々で自主練かな」

「奈緒ちゃんは、弟くんに何をしたのか後で教えなさいよ」

「だから、何もしてないよ。ホント、香奈ってば、やきもち妬きなんだから──」


 そんな奈緒さんの言葉も、まわりの人たちが奏でた音にかき消える。

 まぁ、香奈姉ちゃんがやきもち妬きなのはすでに知っていることだから、何も言わないでおこうかな。

 女子校の文化祭まで、残すところ後一週間。

 できる事は、すべてやっておこう。

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