第三話 覚醒 前半

 その夜。俺はレンタルビデオを返却するため外出していた。


 その帰りに牛丼を食い、例の橋に。


 あの夜のことを思い出し、不安を覚える。

「……まさか、今日はそんなことないよな」


 橋を迂回すればいいのだろうが、そうすると遠回りになる。さらに言えば、ある意味で怖い物見たさ的なところもあった。


 橋の階段を上る。

 そこには怪物の姿がなかった。俺は少しほっとする。


 しかし、その安堵も数秒後には消えることになった。


「……………………あそこ、歩くところじゃないよなぁ」


 俺の視線の先には、一人の女性。ビジネスマンっぽい服装だ。


 その女性は、橋の欄干に立って水面をじっと見ていた。バランス感覚に優れているな、とかそんなどうでもいい感想はさておいて、俺はこの状況を考える。


 彼女は自殺者だろうか、自殺者だろうな。なぜならば、その表情には生気というものが全くないからだ。


 世間一般的な価値観に照らし合わせると、こういう場合は止めるべきなのだろう。


 面倒なことにまたしても巻き込まれてしまったな、と思いつつも俺はその人に声をかける。


「あの」

 びっくりして落ちないように、ゆっくりと声をかける。その女性は微動だにしなかった。


「何があったのかは知らないですけど、そこにいたら危ないですよ」

 続けるも、やはり反応がない。


「生きてればいいことあるとか言わないですけど、まあそこで死んだところで楽になれるのかもしれませんが、たぶん誰かの話のネタにされますよ。それは嫌でしょう?」


 少なくとも、俺は嫌だ。そう思い、口にする。

 女性がぴくり、と反応した気がした。


「だから、降りてきましょうよ。俺も、別に誰かが目の前で死ぬの、見たいわけじゃないですし」


 女性が、こちらに振り返る。

 やはり生気のない顔だった。化粧すれば美人なのだろうな、という相貌をしている。


「そうです。そのまま降りて……」

 と俺はここで固まる。

 それはなぜか。


 目の前の女性が、女性ではなくなっていたからだ。


「#######################################!」

 あの怪物の叫び声が聞こえた。目の前にいる女性の顔が縦に割れ、そこから黒い瘴気が漏れ出て、女性を覆う。


 そして、黒い瘴気と共に、その怪物は俺の前に顕現した。


 今度の怪物は、漆黒の体躯を持っている。シルエットは、首から下は成人女性のそれである。だが、首から上はというと、違う。


 頭部は二つに割れ、そこから細い触手が二本、計四本伸びており、ウネウネとうごめいている。

 そしてその触手の先には、柔肉を容易く切り裂くであろう、鋭い刃がついていた。


 以前出会った怪物とはその姿形は違うものの、目の前で相対する俺はわかる。


 間違いなく危険だ、と。


 ぞわり、と悪寒がはしり、生存本能が警鐘を鳴らす。


 逃走しようと、背中を向けて走り去ろうとしたところで、背筋が凍るような感覚。


 それに従って、俺は横に跳ぶ。


 視界の先には、黒い刃。血液が付着している。

 視界が白くなり、痛みが奔る。背中を軽く切られたのだと悟った。


 俺は地面に崩れ落ちるようにして倒れ込み、転がり、橋の欄干にもたれかかる。


「ッ…………一度じゃなくて、二度も襲われるのかよ。……ははっ、ついてないな……」


 そう漏らした直後、二度あることは三度ある、という言葉が脳裏に浮かぶ。嫌すぎる想像だ。

 というか、三度目があるのか怪しいけれど。


 怪物は触手で周囲のものを手当たり次第に切り裂きつつ、俺にゆったりと歩み寄ってくる。


 その歩き方はまるでランウェイを歩くモデルのようで、その異形と似つかわしくなくて、つい笑ってしまう。


 俺の笑いを察知したのか、怪物は俺の真横に刃を突き立てる。何かが崩れ落ちて、水面に落ちて水音を響かせる。


 気がつくと、怪物が目の前にいた。


「失礼失礼。……笑わないから怒らないで」

 周囲に視線を動かす。俺を助けてくれるような人間はいない。あのポンチョの少女はいない。


 今度こそ終わり、だろうか。俺は今からこいつにやられて、美味しくいただかれるのだろうか。


 それは、嫌だなあ。


 単なる死なら、まあ別に構わない。それは誰にでも訪れることだ。その時期が前倒しになったにすぎない。


 けれど、俺という存在、その痕跡が蹂躙されるのは、とても嫌だ。


 幼い頃の記憶が蘇る。これが走馬燈か。


 何度も何度も包丁を突き立てる女と、姿形が変貌して肉片となっていく男だったもの。女は笑いながら泣き崩れ、その作業を続ける。


 愛情と憎悪と快楽と暴力が荒れ狂う、悪い夢のような光景。


 ああ、これが俺の原風景なのだろうか。

 俺もあのようになるのだろうか。……本当に?


 目の前の怪物を見据える。まるでクリオネの出来損ないだ。


 こいつが今から、俺を? お前みたいな、不格好な奴が? 


 あの日の傷跡が、うずく。どくりどくりと、心臓の音が聞こえた。


 俺はいつか死ぬ。誰もがいつかは死ぬ。

 天命に従い、あるいは運命の渦に呑まれ。


 その日を選ぶことはできないけれど。

 俺は、断ずる。


 それは、今日ではない。

 それは、こいつではない。


 故に。


 俺は目の前の奴を睨み付けて、不敵に笑う。


「お前ごときができるかよ」

 やってみろ、という意思を込めて、右手の指二本で、自身の首筋を軽く叩いてみる。


「狙ってみろ」

 俺の挑発を察したのか、怪物の触手が一本煌めき、黒い刃が俺を襲う。


 瞬間、世界が止まる。

 全てがその動きを止めていた。風も、雲も、時も、怪物も。


 その中で、俺の意識だけが覚醒し、行動している。


 何かが俺の中で膨れあがり、燃え上がり、沈み込み、生まれる。


 今日この瞬間、俺は単なる俺であり――。


 そして。


 今日これより、今までの俺を過去とする。


 あの日の傷跡から、炎のような熱が漏れた。


 その熱は漆黒を帯びており、俺の右半身を覆う。俺の右手が黒い炎に覆われ、炎が消えた瞬間、世界は動き始めた。

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