第17話 そして、今年も2月が終わり…
二月の終わり、だんだんと陽気すら感じ、人によっては花粉によって苦しんでいるのを横目にしながら、樫木は事務所からの退去命令を受け、住む場所を失っていた。
「はっはっはっ!」
そしてスーツケース一つ分の身ぐるみを持って、喫茶ロマンに訪れていた。
「もう、コーヒーも、おかわりできませぇん!」
そう言って、笑顔のまま死んだようにカウンターにうつ伏せになった。つまりは、残金は五十円を切ったということである。
「……なんで智ちゃんのお母さんから依頼金を受け取らなかったのよ」
萌奈美のその質問にがばっと顔を上げる。
「わかるか、依頼人が探偵より先に対象を見つけたんだぞ。探偵ってなに? てか俺の価値ってなに? むしろ俺ってなに?」
「……今日はずいぶん荒れてますね」
小説家の柊が荒れる樫木に横やりをさした。
「センセー、探偵ってなによ? 人の役にたって探偵でしょ? そうでしょ?」
「なんだかめんどくさい絡みに巻き込まれた予感……」
「無視していいと思いますよ」
萌奈美が容赦なく言う。
「まぁ、私が思うには探偵は常に依頼人のことを考えて行動する。たとえ結果が共わなくとも、その行動自体に価値はあると思いますよ」
その言葉が樫木の鼓膜に届くと同時に樫木は男泣きをした。
「おう、おうおうおう! センセー、あんたは最高だよぉ! 新刊が売れなかったとしても最高の小説家だよぉ!」
その言葉が柊の鼓膜に届くと同時に柊はテーブルに沈み込んだ。
「ほんとめんどくさい人たち……」
チリン、と扉が開く音が聞こえる。入ってきたのは三倉美咲とその娘の智であった。
「あら、いらっしゃい。オラ、樫木、三倉さんたち来たよ!」
「…………」
男泣きから涙を拭いて、鼻水をすすり、頭を深く下げた。
「この度はぁ、力になれず……」
「そんなことない!」
今まで聞いたことのない智の声量に思わず樫木は顔を上げた。
「樫木さんがいなかったら、たぶんもっとつらいことになってた……。本当に、ありがとうございます」
智はそう言って、深々と頭を下げた。
「樫木さん、娘に先に言われてしまいましたけど、本当に今回の件についてはご尽力いただき、感謝しています。なので、そんな風に自分を責めないでください」
すすったと思っていた鼻水が氾濫を起こしたかのようにブバっと飛び出した。それと同時に涙もダムが決壊したかのようにあふれ出てきた。
「ごぢらごぞ……、あでぃがどうございばす……ッ!」
そして樫木の感情の爆発も落ち着いてきた頃に、三倉美咲は厚めの封筒を樫木に手渡した。
「これは本当に感謝のしるしです。こういった形なのは失礼かと承知なのですが」
「全然失礼ではないです。こちらこそ改めてまとめた報告書を作成しますので」
「夫は……、まだ帰ってこれていないですが、あの人が命がけで守ろうとしたあの証拠で、今警察は大忙しだそうで」
結局のところ、智が母親から渡され大事にしまっていたものは、半田が有限会社新世界を通じて行っていた裏取引の証拠であった。会社設立時に念のためと三倉友和が収集していた記録。それが公になり、その関係者たちへの家宅捜索が一気に始まったとのことだった。内容について、三倉美咲は別の封筒で送られてきていた手紙で夫の詐欺被害としばらく疎遠になることを知り、このままでは迷惑がかかると捜索を依頼していた樫木へキャンセルを伝えたのであった。ただ、それでも会いたい気持ちを抑えきれず、個人として夫の行方を探し続けていたのであったそうだ。
「樫木さん、これからどうするの? また事務所に戻るの?」
智は心配そうに樫木に問いかけた。
「正直、あの事務所に戻ったところでエアコンも壊れっぱなしだし……」
ちらりと樫木はマスターの方を見る。
「マスターさ」
この時、萌奈美の顔が引きつる。
「この前、智が使ってた部屋って家賃いくら?」
「うそでしょ!」
マスターが答える前に萌奈美が声を上げた。
「いや、そうくるかなー、そうなるかなー、と思ってたけど、あんたそれ本気で言ってるの?」
「冗談で聞くか、こんなこと」
「冗談であってほしいから聞いてるの!」
「ねぇ、マスターってば」
マスターは無言のまま、両手で五本と一本の指を立てた。
「六万か、よし決めた!」
「おい、ちょっと、人の話きいてるの?」
萌奈美が騒ぐなか、樫木は色々と想像を膨らませていた。
「私たちがいない間にコーヒーとか買っての飲むんじゃないわよ!」
「そ、そんなことしねーし……」
「うそでしょ、顔にバレたってまんま書いてあるんだけど……」
そのやり取りで三倉親子は笑い、柊先生はまだテーブルにうつ伏せ状態のまま、マスターですら少し微笑んでいた。
「それでは、また」
しばらく会談したのち、三倉親子は店を出る。智は少し顔を上げて、喫茶ロマンの店の前に植えてある桜のつぼみが少しずつ大きくなっていくのに気付いた。もう少しで、温かい春が訪れるのであった。
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