第4話 調査開始


 調査に入るにあたってのプロファイルは以前、智の母親、三倉美咲から聞いていたものと、今回分の依頼者である智自身から話を伺うことでまとまっていた。

 ひとまずの調査の流れとしては、まずは一番ヒントが眠っていそうな職場の確認からだ。美咲が働いているスナックは午後6時にならないと開かないため、それまでは智に対して、今後の調査スケジュールと方針、そして五日間の期限を伝えた。

 期限、その言葉は樫木の家賃支払日の期限でもあった。それまでに美咲を見つけられなければ、一応拠点ともしているあの樫木探偵事務所ともお別れになってしまう。つまりは、樫木もこの調査については早期解決のため、フルパワーで行うつもりであった。

 少しは気が安らいだとはいえ、緊張状態が続いている智をなんとか説得し、毎日報告に向かうと約束し、家に帰らせた。

「さてさて、報酬がもらえるかわからん調査が始まるわけだ」

 樫木は伸びをして、コーヒーのおかわりを要求した。既に前金であったシフォンケーキは見事に完食済みで使用した皿ももう洗われ、食器棚にしまわれている。

「それにしても大丈夫なの?」

「何が?」

 萌奈美の突然の質問に樫木は顔をしかめる。

「父親が行方不明なうえに急に母親までなんて、なんかやばそう問題があるんじゃ」

「んー、まぁなぁ」

「まぁなぁ、ってあんたその辺ちゃんと考えてないの?」

「いや、考えてるんだけど、考えたところで仕事選べる立場じゃないしなぁ」

 樫木は背中を丸めて注がれたコーヒーを飲む。

「そりゃ……、まぁ……、そうなんだろうけど」

「とりあえず、もし何かに巻き込まれているのであれば、前回の依頼の時からずっと謎だった、急に依頼を取り下げた理由もわかるかもしれないしな。俺って結構「気にしい」だからずっと引っかかってたんだよね」

 樫木はふと時計に目をやる、時刻はもうすぐ五時半だった。スナックであればオープンと同時に入店すれば余計な客に会わずに話が聞けるだろう。

「さぁて、お仕事お仕事」

 自分にエンジンをかけるようにそう言って、樫木は重い腰をお気に入りのカウンター席から下した。

「まぁ、あんたなんか心配する義理はないけど、一応気をつけなさいよ」

「ツンデレツンデレ」

「そういう死語で馬鹿にするの、ほんとやめてくれない」

「はっはっはっ」

 店のドアが開かれ、ドアのベルが鳴る。

「マスター、またな」

「……あぁ」

 樫木はそう意気揚々と喫茶ロマンを後にした。


     *


 実際に美咲が働いているスナックに訪れるのは初めてだった。というのも、調査打ち切りの段階で聞いた話で、場所さえも知らなかったし、探偵としては依頼中断後の依頼人へ無駄に首を突っ込むわけにもいかなかった。しかし、こんな形で元依頼人の職場に訪れることになるとは誰が想像しただろうか。

 樫木のパーマがかった前髪を日の落ちた冷たげな風が揺らす。

「しっかし、日が落ちるとほんと寒いな……」

 人通りの少ない路地に、智から聞いていたスナックの入り口が現れる。昭和に建てられたであろうその建物は良くも悪くも一目でスナックとわかる佇まいであった。コンクリート壁に一枚のヨーロピアン風な扉が設置され、常連でもない限りは店に入りづらい雰囲気が漂っている。

 スマホの時刻は十八時過ぎ、オープンしたてであろうその扉に手をかける。

「はーい、いらっしゃい」

 中からよく耳に響く低めの声が聞こえる。声の主はその声質とは異なり、ちんまりとした小柄の女性のものであった。見たところ、歳は若めに見たとしても五十代後半あたりであろう。

「あら、随分変わった子が来たね」

 客商売で慣れているのか、言葉だけで聞くととげとげしさがあるが、その声は寛大な包容力に含まれていた。

「いやー、ちょっと気になって入ってみたんですよねー」

 樫木はさらりとそんなウソをつき、まだ誰もいない店内のカウンター席に座った。

「さて、何にする?」

 ママは少しばかり自慢げにカウンター背後にある酒瓶を見せつけた。

「とりあえず、バーボンのロッ……、いやハイボールで」

「はい」

 カランカランと氷の音が店内に響く。不思議とそこに会話はなかった。BGMで流れる聞いたことのないスウィングジャズが心地よい。さて、ここからどう会話を始めようかというところでグラスが目の前に置かれた。

「で、あんた、飲みに来た客じゃないね」

 ママは微笑みながらそう言った。

 ここは自分の演技力を恨むべきか、この女性の洞察力の高さに感服するか、考えながらも我慢できずに思わず笑ってしまった。

「ふふ、よくわかりますね」

「そりゃあ、このカウンターに立ってもう三十年だからねぇ」

 樫木は一口ハイボールを飲む。そして一息をついてから名刺を差し出した。

「樫木啓太郎、私立探偵です。ちょっとした依頼事で」

 その名刺を見たママは少しばかり険しい表情に変わる。

「……もしかして、美咲ちゃんになにか?」

 この反応からすると、ママにしても何か美咲について思い当たる節があるようであった。

「なにかご存知で?」

「いや、まぁこんなこと探偵とはいえ、お客さんに話すことじゃないしねぇ……。それで、あんたは何の依頼でうちに来たんだい?」

「まぁ、まさに今名前が出た三倉美咲さんの娘さん、三倉智さんからのお話しで……」

「あら、智ちゃん? 智ちゃんがどうかしたの?」

 あれだけ温厚だった表情が次第に強張る。これほどまでの変化はやはり何かを察しているように感じた。

「いえ、正確には智さんからの依頼で連絡が取れなくなった母親、美咲さんを探してほしいという依頼を受けていましてね」

 ママは口に両手を当て、信じられないという表情をしている。どうやらまだ行方不明になっていることについては知らなかったようだ。

「行方不明って、あ、ちょっと待ってて」

 そう言って、ママはいそいそと入口に向かい、OPENと表記されていた札をひっくり返した。

「……、なんかすみません」

「いいのよ。そんなことより美咲ちゃん、どうしたの?」

 これはハイボールを飲んでいる場合ではないと、少しグラスを横によけた。

「今現在、美咲さんが智さんに知らせもなしに、連絡が取れない状態になったとのことで、もし何か知っていることがあれば教えていただきたいんです」

「そんな……、美咲ちゃんまで」

 ママはショックを隠せずに少しばかり混乱している様子であった。

「それで、今朝の退勤時間はわかりますか」

「え、ええ、でも実は美咲ちゃん。今朝じゃなくて昨日の夜のうちに早退させてくださいっていう相談があって、もう九時くらいに帰っちゃったのよ」

「早退?」

「そうなの、まじめな美咲ちゃんが珍しいなって思ったんだけど、何か困っているようだったから昨日の夜はそのまま帰しちゃって……」

「ということは、その後の行き先とかは」

「本当にごめんなさい、聞いておけばよかったわね……」

「大丈夫です、知っていることだけを教えていただければ」

 あまりに動揺するママを見て、少しばかり後悔の念を抱くが、樫木の中でもあまり証言者にあまり深入りしないようにするため、その後悔を断ち切った。

「ではここ最近で何か違和感のようなものはありませんでした?」

「ごめんなさい、それもわからないわ」

「……そうですか」

 あまり得られる情報がなさそうだと樫木も少しばかり気を落とす。

「あの子、数年前に夫が失踪していてね……」

「ええ、実は私もその時に一度、美咲さんに依頼を受けていまして」

「そうだったの? あの子、ずっと一人で行方を捜しているものだと思っていたけど」

 少しばかり不信に思う。

「どういうことですか?」

「あの子、ここで仕事を始めてからもずっと一人で旦那さんの行方を探していて、どこかに相談したらって進めてはみたんだけど、聞く耳を持たないというか、いつもこう、他人に迷惑をかけるわけにもいかないからって、突っぱねられちゃって……」

「そう、なんですか」

「探偵さんも旦那さんを見つけられなかったってことなの?」

 言い方としては胸に刺さるものがあるが、ここに悪意はないだろう。

「その通り、なんですが。ちょうどここで仕事を始めたと伺った頃に依頼をキャンセルされてしまいまして」

「キャンセル……?」

「理由についても私は存じ上げていないんですよ。それ以降は一切美咲さんとは会っていません」

「そうだったの……」

 少しばかり言葉が消える。その間に樫木は考えをまとめる。智の母親の美咲は依頼をキャンセルした後でも一人で夫を探し続けていたという。当時はキャンセルした理由はわからなかったが、今の話の通りであれば、他人に迷惑をかけるのを嫌がった結果だという。

 この事実が導き出される可能性は、美咲はおそらく夫がいるであろう場所に目星がついていたのかもしれない。それも関わっているだけで、何かしら被害を受けてしまうような危険な場所。それが何なのかは樫木にはまだモヤがかかって見ることが出来ない。

「探偵の私が聞くことではないのですが、美咲さんは旦那さんの居場所について何か気付いていたというような様子はありましたか」

「そうね……」

 ママは両手の人差し指をこめかみにあて、必死に何かを思い出そうとしている。少しでもなにか手掛かりを思い出そうとしてくれている様子を見ると、いかにママが美咲を大事にしているのかが垣間見ることが出来た。

「そう、そうだわ」

 突然大声を上げるので樫木は少したじろいでしまう。

「な、なにか……?」

「少し前に、仕事終わりにずっとそこにおいてある電話帳とにらめっこしていたの、何かなと思って聞いたんだけど、なんかはぐらかされちゃって」

 電話帳……。なんだか久々に聞いた単語だが、スナックに置かれている古ぼけた公衆電話の下に確かに分厚い電話帳が置かれていた。

「これですか」

「そう、それ。なにか印かなんか残っていればいいんだけど……」

 樫木は電話帳を手にしてパラパラとめくる。いかんせんページ数が多いうえ、すべてを確認するには時間が必要そうだ。ところどころページに折り目があるがそのページ内にはこれといって印はなかった。おそらくは折られているページをそれぞれ確認して、共通する項目を調べる必要がありそうだった。

「もしできれば、この電話帳……」

「ええ、ええ、持って行ってちょうだい!」

 ママは樫木が言い終えるまえにそう言葉を押し付けた。

「ありがとうございます」

「お願い、必ず美咲ちゃんを見つけてあげて。これ以上あの子を、智ちゃんを悲しませないであげて……」

 その言葉に思わず胸を締め付けられる。

「ええ、任せてください」

 ひとまずはこれをもって、拠点に戻ろうと頼んでしまったハイボールの分の料金を支払おうと財布を出す。

「お代はいいわ、それと私も智ちゃんと連絡とってみるわね」

 よくよく考えたら財布の中にはその一杯分の金額程度しかなかったので、ほっと肩をなでおろす。少しばかり借金でもしておいたほうがよさそうだな、と頭の中の付箋に書き残す。

 智のことをお願いし、樫木は電話帳を片手に急ぎ足で拠点に戻ることにした。

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