第2話 喫茶ロマンの日常


 私立探偵、樫木啓太郎は笑っていた。

 事務所のエアコンの故障に加え、家賃の支払期限までのカウントダウン、おまけに貯金はもうすでに5桁を切っている。笑っているのは、己の悲惨な人生に対して開き直っているわけでもなく、変な薬をやっているわけでもなく、必死にポジティブになろうとしている証拠である。

「ヘイ、萌奈美ちゃん。コーヒーおかわり」

 彼が常連になっている喫茶店、喫茶ロマンのコーヒーは最初の一杯の三百円を支払えば、あとは一杯五十円でいくらでもお代わりが出来る。いくら貯金が4桁とはいえ、優雅にコーヒーを嗜む程度の贅沢は出来るのであった。

 ただし、樫木の大好物であるこの店のシフォンケーキに手を出すのは些か贅沢が過ぎるというもので、この時ばかりはそれを我慢せざるを得なかった。

「あんた、いい加減にここを事務所代わりみたいにするのやめてくれない?」

 喫茶ロマンにほぼ毎日アルバイトしに来ている萌奈美が、コーヒーのおかわりを注ぎながら呆れ混じりに言う。

「はっはっはっ」

 樫木はわざとらしく声に出して笑う。

「事務所代わりにはしてない。ちょっと居心地が良いから長居してしまうだけ。そう、現実からかけ離れたこの別世界で壊れたエアコンのことも考えなくてもいいし、家賃の心配すら気にすることもないからな!」

「……いや、そもそもここも現実だし。それに、居心地が良いってだけで1日に何時間も居座られちゃこっちが困るっていう話をしてるんだけど」

たたみかけるように萌奈美がため息を絡める。

「ふむふむ……」

 ドラマっぽく眉を少しオデコに寄せて、樫木は入れたてのコーヒーを少しばかり飲んだ。

「別にいいよなぁ、マスター」

 カウンター内の中でひたすら無言で仕事をしているマスターに振る。

「ああ」

古臭い四角い眼鏡に口ひげとマスターのイメージをそのまま人にしたような存在だ。それに無口、話しかけても「ああ」と「そうだな」くらいで、まともにしゃべるのはその必要がある時くらいだけであった。温かいまなざしで見守っているのか、それとも話を聞いていないのかは、マスター自身にしかわからない。

 萌奈美もマスターのその回答に肩を落とす。

「それにいつもそんな混んでないしさぁ」

 樫木が余計なことを口走り、萌奈美の舌打ちが耳に刺さる。

 とはいえ、店内を見回しても今店内にいるのは、別の常連客の自称小説家くらいだ。喫茶ロマンはカウンターが五席、テーブル席が三つあるのだがすべての席が埋まっているのを萌奈美含め、喫茶ロマンのマスターですら見たことがなかった。マスターの手前、変なことを口走ることもできず、萌奈美も何も言えなくなる。

「はぁ、わかった。これ以上、文句は言わないわよ。ただ、さすがにアマゾンで買ったものをうちに届くようにするのだけはやめていただけません?」

 話の本題に入るように萌奈美はカウンターテーブルにアマゾンの箱を置いた。箱に張り付いている宛名は樫木啓太郎と書いてあるが、届け先は喫茶ロマンであった。

「いやぁ、こっちにいると事務所留守になっちゃって……」

「だからってこっちに届けるんじゃないわよ! なんであたしがあんたの荷物を受け取らないといけないのよ!」

「はっはっは、まぁそれも仕事仕事」

「そんなわけないだろ、このイソギンチャク頭!」

 樫木のパーマがかかったヘアースタイルにまでイチャモンをつける。

「……ほんとに、マスターもなんか言ってやってくださいよ」

「……ああ、そうだな」

 眉一つ動かさずにそう返す。

「……」

「……」

「萌奈美、お前も少しはマスターを見習えば?」

「いい歳して現実逃避してばっかのあんたには言われたくないわ」

「おい、ちょっと待て、さすがに今のはひどいぞ。29歳はまだいい歳なんて言われる年齢じゃない。括ってしまえば萌奈美と同じ20代だぞ」

「お願いだから括らないで、私まだ23だし」

「いいか、いい歳ってのはな、あのテーブル席でひっそりと小説を書き続けるセンセーのことを言うんだ」

「今、絶対こっちに話がくると思いましたよ……」

 パソコンから顔を上げたのは、樫木の後ろにあるテーブル席に座って延々とノマド作業をしている柊だ。年齢は36歳で、樫木のいう「いい歳」の男である。

「柊さんはちゃんと小説家っていう職業だから」

「おい、俺だってちゃんと探偵っていう肩書があるぞ」

「あんたは企業に属してない私立でしょ、どっちと結婚したいかって聞かれたら私は小説家だな」

 萌奈美のその一言で、コーヒーを飲もうとして柊が噴出した。

「あ、いや、例え話ね。た・と・え・ば・な・し!」

「センセー……、一回り下の奴とのロマンスなんか期待してんじゃねーよ」

 樫木が柊を茶化す。

「別に、考えていませんよ!」

 少し憤慨したように耳にイヤホンを付けた。

「センセーも俺を主人公にした小説でも書けばいいのに。ちょいと盛ってハードボイルドな感じの」

「あんたを主人公にしたところで、毎日ここでコーヒー飲んでシフォンケーキ食べてるだけでしょ。そんなもん誰も読まないわよ」

 柊には萌奈美の最後の言葉だけがイヤホン越しでも耳に届いたのか、ガンとテーブルに頭をぶつけた。

「あーあ、萌奈美、お前言っちゃいけないこと言ってるぞ」

「あー……、確かに、今のは禁句だったわね」

 そんな会話の最中に喫茶店の扉が開き、そこに取り付けられているベルがチリンと鳴った。この時間にくる常連はパチンコ好きの定年親父の安井か「萌奈美の客」の大学生の畑谷かのどちらかだったが、樫木の予想は外れで一人の若い女の子が立っていた。

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