探偵喫茶ロマン
高柳寛
第1話 消えた家族
だんだんと日の出の時間が早くなってきたことを実感できるようになった2月の始まり。中学二年生の三倉智は学年末試験を目の前にしながらも、それどころではない状況下に置かれていた。
それに気付くまではなんの変哲もない、いつも通りの朝であった。
目覚めと共に布団から起き上がり、簡単に朝食を用意する。隣の部屋では寝入っているであろう母親がいるため、テレビは付けないままである。母親はスナックで働いており、いつも帰ってくるのは明け方頃となる。父親がなくなってからというものの、母親は一人でこの家の家計を支えているであった。智としてもそんな母親をとても尊敬していたし、いまだに反抗期という概念を理解できていなかった。
朝食を済ませ、眠っている母親の姿に向けて独り言のように挨拶をしてから学校に行くことが彼女の日課だったのだが、ふすまを開け、部屋を目の当たりにし、そのことに気付いた。その日、母親はまだ帰宅していなかったのだった。
ただ翌朝に帰って来ない、などということは今までにも何度かあった。気の合うお客さんに会ったから、同僚からの相談事でなかなか帰れず等、理由はさまざまであったが少なくとも翌朝に帰れない状況となれば事前にメールにせよ、電話にせよ、なんらかの形で必ず智に連絡がくるはずであった。母親としても、智を心配させまいと、そのルールだけはしっかり守っていたのであった。しかし、そんな母親からなにも連絡は来ていないのである。
智は改めてスマホを確認するも、やはり帰宅が遅れるというメッセージ履歴はどこにもなく、仕事が休みだった時の夕食に何が食べたいかのやり取りが残っていた。
智は、いてもたってもいられずに少し震える手で母親が働くスナックに連絡を入れる。呼吸も荒く、落ち着いて酸素を吸えないほど智の表情は強張っていた。
「もしもし、三倉美咲の娘の智ですが……」
その返答は留守番電話の録音のメッセージであった。それもそうである。お店は6時に閉まっている。閉店作業などしていても既に2時間が経過した今、誰もいなくなってしまったのだろう。
ここで、智は改めて考えつく。普段身内の相談事であればお店で行うことが多いという話を母親から聞いていた。つまりは、既に店を出ていて家に向かっているのかもしれないということだ。ただ、そうであれば数分前に送った「いまどこ」というメッセージに対して既読もつかない状態というのも納得がいかない。単純にメッセージに気付いていないだけか、もしくは携帯の電池が切れたか。
智はひとまず学校にいく準備をして、先にスナックの方面へ向かうことにした。己の震える手をぎゅっと握りしめ、家の鍵を閉める。そして、一つため息をついて智は歩き始める。
いつもより風景の進みが早い。だんだんと不安が大きくなるにつれて、足が忙しなく動き、胸の鼓動も高鳴っていくのがわかる。過去の経験がトラウマとなって、智に襲いかかってきているのは智も自覚していた。
2年前、智が小学校を卒業する前に父親は突然消息不明となった。
当時は警察に頼ってみたものの、成果が見えてこない状況が続き、母親は他の手段で父親を捜そうとしていた。だが、いくら手段を変えても、結局父親を見つけることはできなかった。子供ながらに優しい父親だった記憶が残っており、智は怒られたこともなく、とても穏やかな人であったことは覚えている。
母親がいないという今の状況に、その心のトラウマの傷が開き、ジュクジュクと痛み始めているのが分かる。それでも智は、唇を噛みしめながらも淡々と歩を進め、そしてスナックにたどり着いたのであった。
やはりお店の看板はもう片付けられており、ドアにはクローズの知らせが掛かっている。試しにドアを数回叩いてみるも中から人の気配は感じられない。
ここまで来ている間に母親とすれ違うこともなかった。改めてスマホを見るがやはり既読はついていない。もうここにいてもしょうがない、と智は警察に連絡するために近所の交番まで駆けだした。交番に向かっている途中も何度か母親に電話をかけてみるが、電波が届かないか電源が切れているという状況しかわからなかった。
「……すみません!」
智は行き場を無くし、交番に駆け込んだ。
「どうしました?」
中から若い感じの警察官が出てきた。少しばかり頼りない面持ちであるが、いまはそれどころではない。
「すみません、母が、昨日から帰ってこなくて……」
「お母さんが……、昨日っていうのはお買い物かなにかに行ったきりってことなのかな」
「あ、いえ、母はその、スナックで働いていまして、朝になるといつも帰ってくるんですが……」
スナックという言葉に警察官はなにかが急に緩んだように智の肩に手を置いた。
「それで昨日の夜から帰ってこないってこと?」
「……はい」
警察官の表情からいろいろと察してしまう。どうせ飲みに行ってどこかで寝ているだろうと言わんばかりの表情だった。智は思わず歯を食いしばってしまう。
「ほら、お付き合いとかってのもあるだろうし」
「でも遅くなる時はいつも連絡をくれるんです!」
心の中では無駄だと思っていても、自分の正当性を示すように少し強めでそう言う。強めだったのがどうやらこの警察官の気に障ったようで、表情がまた変わる。
「はい、わかった。ひとまず名前と連絡先をここに書いてもらっていい?」
おもむろにデスクの引き出しから付箋とボールペンを取り出し、智に押し付けた。
「なにか分かり次第連絡するからね。それに君、中学生だろ。早く学校に行きなさい」
智は腑に落ちない気持ちでいっぱいになりながらも母親と自分の連絡先を記載し、その警察官に渡した。
「早く帰ってくるといいね」
最後のその一言は智にとって、もはや嫌味でしかなかった。いや、この状況に立たされて心が荒んできているせいなのかもしれない。
ただ、警察を頼って一つわかったことは、彼らに頼ってはダメということだった。父親が消えたあの時に警察を頼った母親も同じ気持ちになったのかもしれない。ただ、母親は別の方法で捜索を依頼していた。たしかどこかの探偵に依頼したとかだったような気がする。
今の警官の反応も踏まえて、警察に頼るよりもその母親と面識のある探偵に頼んだほうが良いかもしれない。
お金に関しては、母親が見つかってから支払ってもらえば良い。おおよその金額感は確認する必要があるかもしれないが、今の状況では背に腹は代えられない。
智はいったん自宅に帰り、母親の名刺ケースを漁った。職業上大量の名刺があったが、その中に1枚、探偵事務所の名刺を見つけることができた。
「……樫木探偵事務所」
ひとまず、電話をかけてみることにしたが、コール音が響くだけで誰も出る気配もない。
「もうっ……!」
このまま学校に行ったところで、まともに集中して授業なんか受けられるわけもないと、智はその名刺に書かれた探偵事務所に向かうことにした。直接行けば話は聞いてもらえるだろうと。
その探偵事務所は自宅から数駅先、制服姿だと先ほどの警察官のように注意を受ける可能性もあるため、いったん私服に着替えて家を出た。
マフラーをしていると少しばかり暑さも感じる。冬が終わり春へと季節が移り変わっていく。期末テストも目前だ。そんな中で母親も行方知らずになったらどうしようという不安が智にまとわりついて離れなかった。電車に乗り、考え事をしていたら数駅もあっという間に過ぎて、智は探偵事務所の入り口前に立っていた。
事務所は商店街通りから路地に入ったところにある古めかしいビルの2階で雰囲気としては、まずビルそのものにすら、とても入りにくいものがあった。それでも智には他に頼るべき人がいなかった。いったん息を大きく吸い込み、そのビルの階段に足を乗せる。
まるで廃ビルのような状態のボロボロの内装、埃っぽいにおい、チラシが詰められているポスト。本当にまだ営業しているのだろうか。電話に出なかったのはもう閉業してしまったからではないか、いろいろな不安が智の頭をよぎっていった。
いざ、ドアの前までくるも、不透明なガラスの向こうは電気が付いていないようで薄暗かった。そのガラスには樫木探偵事務所という記載はあるので、場所については間違いないだろう。一つ気になったのはドアノブに小さいホワイトボードが掛かっていること。ドアに鍵がかかっているのを確認し、そのホワイトボードを手に取ってまじまじと見た。
そこには、「御用の方はこちら」という文言と簡易的な地図にその場所のお店であろう名前が書かれている。
「喫茶ロマン……?」
まぁ、名前からして喫茶店であろう。打合せでもしているのだろうか。智はどういうことだと疑問に感じながら、その場所をスマホで検索してみた。検索結果で言えばやはり至って普通の喫茶店である。時間帯としてもお昼時には少し早い十一時。まぁ、休憩に喫茶店にいるのかもしれない、そのうち帰ってくるだろう、と智はしばらくその入り口で待つことにした。
その間にも母親からなにか連絡がないかと何度かスマホを確認してみるが、相変わらず智が送っているメッセージを閲覧した様子もない。このよくわからないビルに一人、誰も頼れる人がいないという現状に少し鼻の奥がツンとする。智は何度か強めに瞬きをして立ち上がった。
まだいなくなったと決まったわけじゃない。きっとすぐに見つかるさ、と自分に言い聞かせる。ただ、その気持ちに対して自分が今探偵事務所の前にいるという矛盾にも気付いている。
そして十分、三十分と時間が経過しても事務所の人は戻ってくる気配もなく、智はいてもたってもいられずに、結局その喫茶店まで足を運ぶことにしたのであった。
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