危険なマティーニ

須藤二村

危険なマティーニ



 女はその時が、男とは初対面であった。

「Kさん? お久しぶりです」


 男は、この女のことをはっきり覚えていた。

「ええと……すみません。どこかでお会いしましたっけ」


 いったいどういう訳でこんな状況が起こったのだろうか。



***



 ホテルの上階にある高級そうなレストランに女が一人で座っている。

 腰回りを絞ったタイトなクリーム色のワンピースに、丈の短いジャケットを着ていた。女は長い髪をかきあげて面白く無さそうにワインの残りを飲み干した。


 女は友人の結婚式の帰りだった。若い頃から二人で馬鹿なことばかりしていた仲の良い友人が、自分を取り残して何処かへ行ってしまったような気がしていた。

 そこそこに酔いの回った女は、テーブルから立ち上がってバーのエリアに目を向けると、一人の男が煙草を吸っているのを発見した。

 

「よし、今日はあれに奢らせてやるか!」


 これは二人で食べに来た時、たまにやるゲームのようなものだ。食べ終わった後で、どちらかが適当な男に声をかけ、バーで仲良くなってから男に飯代を奢らせようというゲーム。

 別に強要するつもりはない。酔ったふりをしてちょっと色目を使えば大抵の男は下心から進んで払ってくれたものだ。

 しかし、女はあの頃のように若くはない。今でもそんなことが通用するのかといった不安が、より自分を得体の知れない何かにイラつかせた。自分にだってまだ男を振り向かせ、晩御飯くらいは軽く奢らせるだけの魅力があるのだと、再認識したかっただけなのかも知れない。


 女は、バーにいる男に声をかけた。

「Kさん? お久しぶりです」

 女はだいたいそうやって声をかけることにしている。はっきりKと発音しなければ日本人の一割程度には当てはまる苗字だ。フランス語のrのような、日本語に無い音を出せれば尚よし。むしろ違っていれば、向こうから名前を教えてくれる。


 男は少し驚いた表情をして、失礼のない程度に女を見て答えた。

「ええと……すみません。どこかでお会いしましたっけ」

 近くで見ると、男は同年代で仕事のできるサラリーマンのように見えた。

 少なくとも相手に合わせて「覚えているけど、名前を失念してしまって……あはは」などと見え透いた嘘を言わなかったところには好感が持てる。

「はい、その節はありがとうございました」

 女は万能の切り返しでもって様子を見る。とりあえず名前はKのままで良さそうだ。


 当たり前だが、以前に会ったことは無い。もし会っていたなら、この誠実そうな男と連絡先くらいは交換していたに違いない。


 女はバーのカウンターから視線を寄せるマスターにウインクして見せた。

 レストランの入り口に併設されたバーのマスターは、レストランのソムリエを兼ねている。彼女たちの、このちょっとしたゲームはマスターと顔見知りだったことから始められたようなものだ。

 実を言えば、彼女達に出されるグラスには、ほとんどアルコールが入っていないのである。


「本当に申し訳ありません。ですが、せっかくですので、飲んでいかれるならご一緒してもよろしいですか?」

 男は丁寧に頭を下げて、自分の隣にある高めのスツールを女が座りやすいように引いた。

「お邪魔でなければ是非!」

 女は内心で握りこぶしを掲げた。



***



 男は依頼を受けて人を消す仕事をしている。荒っぽいこともやむを得ない場合にはやるが、多くは発覚しないように細心の注意をもって実行された。その方針のおかげか、今では業界の信用も厚い。

 しかし、経験が長くなるにつれ容姿が知られていくと都合の悪いことが多くなり、やむを得ず男は整形して顔を変え別人となったのだった。

 だから男は最初に声をかけられた時、顔には出さないまでも内心ギクリとした。


——顔を変える前の自分は、確かにこの女と会っている。


 その時に名乗っていた名前が、KだったのかSだったのかは判然としなかったが、使ったことがあるのは確かだ。整形で顔や姿を変えても、親兄弟には見破られるといった話を以前にも聞いたことがある。

 記憶では食事代を奢ってやっただけの間柄だったが、そういった鋭い才能を持った連中も中には存在するのかも知れない。


 女が声を掛けてきたのは、本当に偶然だったと確信できるまで、話を合わせながら何杯かのカクテルに付き合わされることになった。

「次はマティーニをいただこうかしら」

「では僕もそれを」

 バーテンは、キューブアイスを大きめのミキシンググラスにつめ始める。

「ちょっとお化粧直ししてくるわ」

 男は会釈し、女がスツールから離れる。


 しばらくすると、バーテンはシェイカーを傾けて、マティーニがグラスに注がれた。そしてオリーブが最後に添えられる。

 冷えたマティーニのカクテルグラスが二人の席の前に並んでいた。


 女がまだ戻って来ないのを確認して、男は内ポケットからペンを取り出し、女のグラスに液体を注入した。わずか2〜3秒の出来事だったろう。男の行動を見ていた者は誰もいない。

 男にとって、この女は確実に始末しておかなければならない相手だ。男の二つの過去を繋ぎ合わせることができるとしたら、それは過去におこなってきた犯罪と今の犯罪との繋がりをも示す証拠となる。そんなことがあっては、ここで準備した計画が全て水泡にすのだ。


 男が入れた液体は、睡眠薬の効果を発揮したあと静かに心臓麻痺を起こしてターゲットをほうむってきた。この毒は体内で分解されて証拠はどこにも残らない。


 女が戻ってきて席に着くと、ほぼ同時に男の携帯から着信音が鳴った。今日ここで会う予定になっていた相手からだ。男はバーから見える高層階からの夜景に目をやりながら

「はい、バナナは明日にはお届けできると思います。ええ、では」

 と短く伝えて電話を切った。もちろんこれは日時の変更を伝える暗号である。バナナには特に意味はない。

「お仕事ですか?」

「大丈夫ですよ。もう終わりましたから」

 男は女に向かってグラスを持ち上げて見せ、口をつける。

 それを聞いて、女も安心したのかグラスのカクテルを飲み干した。


 心なしか女の目は潤んで、頬はかなり赤みを帯びていた。席を立つ前より、スツールの位置は男に近い。

 男は飲みながらバナナの話をしてやった。グァテマラのバナナ園で、病原菌によってグロスミッチェルが全滅した話。そして耐性のあるキャべンディッシュに置き換わった話などだ。

「ちょっと酔っちゃったかも……」

 女はカウンターテーブルの上にある自分の腕に頭を乗せてウトウトとし始める。

 薬が効いてきたのは明らかだった。あとは目立たぬように退散するだけだ。


 男は、バーテンに向かって微笑むと、指でチェックのジェスチャーをして自分と女の支払いを合わせてするよう指示した。



***


 声をかけずに立ち去った男を見て、寝たふりをしていた女は諦めて体を起こす。

「マスター……。あたし、ふられちゃったみたい……」

「やはりお酒の味が変わったことに、お気付きになったのでは?」

 マスターが、男の席にあったグラスを下げながら言う。

「あの時の私に必要なのは、アルコールだと思ったのよ!」


 ちょっとした悪戯心だった。本能に任せて相手に飛び込めるほど、今の自分はもう若くはない。一歩踏み出すのに、ほんの少しお酒の力を借りられれば良かったのだ。


 女は、男用に出されたアルコールの強いカクテルと、自分のグラスを男が電話している隙に取り替えてしまったのだった。

「人生って上手くいかないものなのね」

「まあまあ、万事塞翁ばんじさいおうが馬とも言いますから」

「なによそれ」

 女はため息をついて、マティーニを追加で注文した。

「強いのにしてね」

 マスターは無言で頷いた。



***


 男はタクシーの中で、組織への定時連絡を終え、女のことを思い出していた。

 なかなかの美人だった。別の形で出会っていればと少し惜しい気もする。

 緊張から解放されたせいか、少し眠くなってきた……。



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危険なマティーニ 須藤二村 @SuDoNim

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