トーキョー 二◯二◯

尾巻屋

第1話 需要と供給と

 へぇ、と目の前の人間が頷いた。

 そいつの目は嘘偽りのない、純粋な光をたたえてこちらを見てくる。醤油で少し汚れた箸も止めて、彼は真摯に話を聞いてくれていた。

「それでな、すべての言語の仕組みを一発で説明できる理論っていうのが、もう少しで完成するそうだ。この辺りの教師連中も近いうちにご破算だろうな。その時まで教えるガキが残っていればの話だがな」

 ははは、と笑いながら、小さな器を持ち上げる。照明の明かりを反射して、一瞬真っ白になった水面が見えなくなった頃、鼻腔が清酒の独特な香りに包まれた。

「そっかぁ。都会ではいろんなことが起きてるんだな。田舎じゃそんな話全く聞かないよ」

 器に映る自分の像を見ているのか、そいつは酒に目を落として言った。

 彼は松と呼ばれていた。自分と同じ、新潟の、この小さな町の出身の男だ。根が真面目で、気がよく、皆からもよく好かれる奴である。一度は大学の進学を機にここを離れたものの、愛着ゆえに戻ってきてしまうくらい、郷土愛にもあふれていた。

 人と対立ばかりしていて、もう二度とこの地を踏むものかと言って出て行った私とは大違いだ。

「それで、こっちの生活はどうだい?今年の雪は少なかったって聞いた」

「ああ、今年は楽だったよ。おかげさまで事故も少なかったらしい」

「そっか。それは良かった」

 意気込んで出て行ったはいいものの、人間縁を切るのはそう簡単なものではなく、結局自分もまた、時折この地を訪れるのであった。今日はたまたま連絡の取れた松と昔話をするべく飲み屋に来たのだった。

「にしたってこの酒は美味いな。嫌なエグみもないし、さらっとしてる。流石米所ってとこか」

「この銘は俺のお気に入りなんだ。あれだよ、林んちの酒蔵が作ってるんだ。覚えてるか?」

 咄嗟に記憶を手繰り寄せる。名前とどんな奴は思い出せそうだが、顔がどうもピンとこなかった。

「おいおい。忘れちまったんじゃ無いだろうな。全く、もっと頻繁に帰ってきたらどうだい」やれやれ、と奴がそういう顔をする。

「忙しいんだ」

 若干ムッとした声音で返事をしてしまった。視線が泳ぐ。

「まぁいいか。そういや北村先生の息子さん、お前と同じ大学に行くんだと。すげぇなぁ。立派になったもんだ」

 また他愛もない会話が始まる。私には知らされない、よく見知ったはずの故郷の風景が書き換わって行く。時の力が恐ろしくなってしまうようだった。

 その代わりに、私は都会で聞きかじった新しい世界の話をしてやった。彼は子供のように目を輝かせてこれを聞くのだった。

 

 そうして、二人の顔がよくよく染まった頃、若い店員に座敷を追い出されてしまった。

「あそこにコンビニがある。最後に一杯だけ買って、座ろう」

 夜になるとほとんど真っ暗になってしまう道路の先で、孤独に光るガラス窓を指差して松が言った。

「ああ、コンビニなぁ―」

「なぁ、松。知ってるかい?今時の市場調査っていうのはもう、単なるニーズの観察じゃないんだ」

「へぇ、というと?」

「人工知能だよ。最近は何にだって人工知能が使われてる。交通整理に、機械の設計、市場調査だってそうだ。売りたい地域や客層に分布している人間の数、年齢、性別、職業、所得、買い物をする時間帯に、買うものなんかとかそのほかにも色々―そういうのぜーんぶ人工知能に情報として託して、需要予測をしちまうんだ。だから、コンビニなんかに今時並んでるものは、全部機械が決めたものってワケ」

「まーじか。そりゃあ、びっくりしたな」

 どのくらいこれが優れた技術なのか、彼は分かっているのか、分かっていないのか頭に手を当ててジェスチャーしてみせた。

「でも、それって―ある意味で怖いな」

「ん?どういうことだ?」

「つまりだぜ?全部機械が勝手に決めてるかもしれないってことだろ?打ち込まれた情報なんて全部無視しちゃってるかもしんない。人間が欲しがりそうなものを思いついて、流行りなんかも自分で勝手に決めて、そうして人間がざわつくのを見て楽しんでたりなんかして」

 うけけけ、なんてそいつは笑いながら言った。

「おいおい、機械は機械だぜ?そんな人間みたいなことするワケないだろ?」

「それもそうか。うっし、じゃあ俺が買ってくるから、お前は外で待ってけろ」

 おう、とこちらが手を振ると、松は少しふらついた足取りでコンビニの中へと消えていった。

 一瞬酔いのさめた頭で、先ほどの会話を反芻する。

「機械が流行りを決める―か」

 昔、大学の講義で教授が言っていたことを思い出した。アナロジーとホモロジーの話だ。

 人工知能の思考は人間のそれと違う。

 いくら我々が思うままに考えさせようとしたところで、私らの『思考』が進化してきた歴史全てを彼らにインプットするわけにはいかない。彼らの生まれ方は我々と全く異質なものなのであり、その動作全てを我々と同義に考えることはできないのだ。

 彼ら人工知能は、仕組みと前提からして人間とは全く違う存在なのである。

 ならもし、私らの想像もしていないようなところで、機械が己の思考をしていたら?

 技術の進んだ現在、人工知能がほぼ完成しつつある今、もしも我々の認識を超えた領域にブラックボックスが生まれていたならば?

 それが、需要予測のような数字に影響を及ぼしていたならば?

「おーい。酒買ってきたぞ。あと水も」 

 松の間抜けな顔が、私の思考を断ち切った。

「次、いつ帰ってくるんだ?」カップ酒を手渡しながら、彼が聞いてくる。

「そうだな―」

 ガラス瓶の蓋をはがしながら、悩むふりをした。

「わからないや」

 その日最後の一杯は、なぜか味がしなかった。

  

 

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