413話 絶対者です

 スパルバクスは、別に貧しくもなくば高貴でもない平凡な家の生まれだった。

 普通に暮らし、普通に恋をして、普通に魔物に襲われ、普通に責任をなすりつけられて仕事を追われ、普通に政治に捨てられ、普通に落ちるところまで転げ落ちただけの人間だ。


 あるとき、いよいよ居場所がなくて入ったこともない森に食料を求めて入り、遭難した。彼の安否を気遣う人間などこの世には存在せず、誰も探しになど来なかった。

 魔物から逃げては神経をすり減らし、食べられると思った果実を囓って嘔吐し、川の水を飲んで腹を下した。三日後には意識は朦朧とし、舌は乾いていた。


 不思議な気分だった。

 森の全てが感じられるような一体感があった。

 自分は虐げられるちっぽけな個として死ぬのではなく、最後の最後にこの巨大な森の一員と認められて死ねる。そんな妄想に口元が緩んだ。


 しかしその妄想が、先代スパルバクスの目に留まった。


 既に高齢だった先代スパルバクスは、その技術を全て教えてくれた。彼はスパルバクスという暗殺者一族を一派と呼べるものにしようと数多くの弟子を取ったが全員上手くいかず、失意の中、森で暮らしていたという。


「私の先代が言っていたことが分かった気がする。この森の静けさに潜む数多の生命の営みを感じ取れなければ、操虫術を極めることはできない。それを理解しくれなんだから、弟子たちは自滅していったのだろうな」


 偶然にも、その操虫術に必要な素養を持っていたから、助けられた。そういうとこであった。勝手な理由だったが、どうせ何も失うものはないので老人に付き合い、スパルバクスのあらゆる術を学んだ。


 やがて師が全てを教え終え、息を引き取った後、そこには新たなるスパルバクスが生まれていた。


 スパルバクスは、自らの得た力を用いて、自らを貶めた人物たちを甚振って殺した。苛烈に、残虐に、殺した。しかし皇国の誰もそれをスパルバクスの復活と慄きながら、スパルバクスとなる前の男に辿り着くことはなかった。


 それからスパルバクスは様々な裏仕事をして名を上げた。

 裏切り者は絶対に許さず、聞くも悍ましい結末を迎えさせた。

 彼は裏社会の伝説の再来として皇国の要人たちを恐怖に陥れた。


 正直に言えば、いい気分だった。

 取るに足らないちっぽけな存在だった筈の自分が、今や誰も逆らえない畏怖の象徴となっていた。気が大きくなって理不尽な殺しもしたが、それでも年月を重ねるごとに彼は『美学』というものに傾倒していった。


 殺しのルール、殺しの美学だ。

 自らに課した一種のルールの中で条件を満たし、殺す。

 無駄な殺しや気の乗らない仕事はしなくなり、代わりに自分にしかできない仕事を、自分にしか達成出来ない条件で成功させることに快楽を覚え始めた。


 彼は遂に、王家に近い血筋にまで近づいた。

 フロレンティーナ・ド・モルガーニ――超名門モルガーニ家の息女。年端もいかぬ少女を残酷にも虫の手にかけさせることに罪悪感はなかった。その事実が、彼の悍ましい経歴を物語っている。


 現場は初めて赴く地、王国。

 スパルバクスの仕事の中で最も警備の厳しい国だったが、当時まだファミリヤ対策の甘かった王国などスパルバクスにとっては隙だらけだった。こうしてスパルバクスは暗殺に取りかかった。


 ――そこから先は、思い出すことさえ苦痛な悪夢。


 スパルバクスの美学を以てして最大限の罠を仕掛け尽くしたにも拘わらず、あのやんちゃな王国王子はその悉くからフロレンティーナ嬢を守り抜いた。一度は己の美学すら曲げた毒虫の襲撃も仕掛けたが、あっさり防がれた。


 こちらの手の内を見透かしているとしか思えない完璧な守護。

 あんな小さな子供に全てを防がれるのでは、立つ瀬がない。

 スパルバクスの暗殺者としての自信は、あの日、粉々に打ち砕かれた。


 ――。


 ――。


 スパルバクスは、フロレンティーナ暗殺の依頼者を暗殺して依頼そのものを有耶無耶にし、そのまま裏社会からも姿を消した。

 スパルバクスは恐れをなし、逃げ出したのだ。

 彼の暗殺失敗の噂が広がったのも、それに拍車をかけた。


 スパルバクスは文字通り地下に潜り、孤独に暮らした。

 孫を自称するカリムに操虫術を教えたのは、気まぐれだった。


 カリムには森と一体化するようなあの感覚はまったくないが、先天的な魔力量に加え、大型の虫と心を通わせる彼独特のセンスを持っていた。スパルバクスも長い隠遁生活で体中に衰えを感じており、慰めと後継者が欲しかった。


 なにより、悪と絶望に染まっていないカリムの無邪気な好意に、彼は長らく忘れていた愛情を思い出させられた。あとはカリムのことだけ考えて一生を終えるのも悪くない、と。


 しかし、ある日カリムに己が唯一失敗した仕事のことを漏らしてしまった。カリムはその日のうちに「じぃじの敵を取る」と彼の前を後にした。スパルバクスは、何故あの話をしてしまったのかと激しく後悔した。

 カリムは、暗殺者になるには素直すぎた。


 その後、カリムの安否は杳として知れなかった。

 ただ、彼が暗殺しようとしたフロレンティーナ嬢が無事に皇国に帰還したことから、カリムが失敗したことだけは明確だった。


 この頃にはスパルバクスは既に片足を悪くしており、王国に行くだけの体力と気力は残っていなかった。ただ、自分のような裏家業の人間には誰かを幸せにすることはできないのだという観念を抱いた。


 しかし、女神はスパルバクスにも微笑んだ。


 昔からの癖で虫に探らせていた情報により、カリムは無事であり、更には彼を解放する機会まで巡ってきたことを知ったとき、スパルバクスの心の中に僅かな熱が灯った。とうの昔に消えていたと思っていた暗殺者としての誇りである。


「これを、最後の暗殺とする」


 暗殺対象は、王国の王子アストラエ。

 それが孫のカリムを完全に自由にする唯一のタイミング。

 そして暗殺の現場から離れたスパルバクスは、どんな護衛も防げない究極の暗殺術の域に到達した決殺の策があった。


 それは、虫を操らないこと。


 自然の環境の中で、自然に過ごす虫に、暗殺させることだ。


 操虫術はファミリヤ妨害の影響を受けるし、鋭い氣の使い手ならばその存在に感づいてしまうという欠点があった。しかし、それはスパルバクスがより思い通りに虫を操ろうという欲望が生み出す隙だ。


 虫のことを理解し、虫の好む場所に虫を送り、そして虫のするであろう行動を予測した上で地形を作る。そうすることで、誰にも不自然に思われない暗殺空間を作り出すことができる。


 虫同士の干渉を避けるために最低限の虫しか配置できないが、この暗殺方法は氣による探知では即座に対応出来ない。


 氣は、大きく動的な氣は探知できるし、逆に気配を消しすぎた氣も不自然であると探知できる。故に、最も探知しづらい気配というのは、心を無にしながらも、あまりにも自然にそこにいるということなのだ。

 それが視覚的にも隠れていれば、気付くことはできない。


 当たり前に存在する事実、という前提を忠実に守った暗殺。

 これならば、誰であろうと防ぐことはできない。


 例えば、空から差し込む僅かな光を浴びる一束の雑草。

 少しでも労りの気持ちがある者は避け、そうでないひともわざわざ相応に大きめな草の束を敢えて踏み潰しにはかからない。しかしそれこそが究極の罠。雑草の中にはリープ・マンティスという魔物の幼生が潜んでる。


 リープマンティスはカマキリ型の魔物の中でも最大で、成長すると二メートルを超える巨体で鎌のような前腕で敵を引き裂くが、子供の頃はそこまで極端に巨大ではなく、いま草むらに潜んでいるのも精々10センチ程度しかない。

 ただ、子供であってもその前腕は鋭く、迂闊に近づいた人間の足を鉄のブーツごと両断するほどの切れ味を持つ。しかも擬態能力も高く、元々待ち伏せ型の虫だ。


 何も知らないスラムの者や王国の護衛が暗殺空間にやってくる中、予想通りその中心を歩いていた王子アストラエだけが雑草に近づいていく。スパルバクスの美学により他の者は巻き添えを食らわないよう拘り抜いたその暗殺空間に、王子は――。


「凝っているものだ。流石は今まで生き延びてきただけのことは……おおッ!?」


 ――リープマンティスを、真上から踏み潰した。


(オアアアアアアアアアアアアアッ!?)


 スパルバクスは内心で情けない悲鳴を上げた。


 今、アストラエが欠片でも草に意識を向けてから行動を選択していれば、絶対に彼の足は両断されていた筈だ。しかし、アストラエは全く草を意識しない動きと速度で、縦からの攻撃には疎いリープマンティスの幼生を踏み潰してしまった。

 雑草と高レベルで擬態しすぎたせいで、リープマンティスはその存在にすら気付かれないまま絶命している。


 無意識からの襲撃を、無意識によって潰す。

 今、アストラエ王子は間違いなく草に何かあると理解した上で、己の頭から草の情報を引き抜いて行動することによって逆に罠を潰したのだ。少なくともスパルバクスはそう確信した。


 凡人には決して真似の出来ない、無意識を操る矛盾した絶技。

 神に愛されし、天賦の才覚と言うほかない。


(分かっていた……こちらの想像を上回る相手だとは分かっていた。分かった上で、しかし貴様はここで死ぬのだ)


 リープマンティスの罠を躱された場合、アストラエの体はどこに留まるのか。それを考えに考え尽くした上で、誤差も含めてもう一匹の虫をスパルバクスは配置していた。


 地に潜る凶悪な虫、アントリオン。


 アントリオンは大陸でもごくごく一部にしか生息していない、リープマンティスより遙かに珍しい虫型魔物だ。ギルドでさえその存在については目撃証言が少なく懐疑的なほどで、魔物図鑑にも掲載されていない。

 外見はアリジゴクに少し似ているが、その生態は全く別。

 彼らは地面に潜り、自分の周囲から伝わる音や衝撃を感知して敵との距離を測り、必殺のタイミングで地面を突き破って敵を顎で挟む。


 この顎は強靱だが、リープマンティスのように敵を切り裂くものではない。だが、噛まれたら最後、顎から強烈な毒を注入して相手を致死に至らしめる。これは毒で殺すためではなく、毒によって相手を溶かして食べやすくするためのものだ。アントリオンが知られていない以上、アントリオンの毒を解毒する成分も一般的には知られていない。


 こうして敵の命を奪ったアントリオンは、地面に体を戻して身の安全を図りつつ殺した相手の体液を吸い尽くす。

 地面の中という、人間にとって認識の及ばない別世界。

 そこに潜む究極の暗殺者こそ、アントリオンだ。


 しかも今回、アントリオンはリープマンティスと喧嘩しないようにエリア側面の土の中に放ってある。天才的な暗殺回避を見せつけた王子アストラエの命運は既に尽きた。

 アストラエの足がアントリオンの潜む壁の方角へ近づいていく。

 あと一歩足を地面について震動を出せば――。


「アストラエくん、そういうの良くないと思うなぁ。単純に不注意だし」

「いや、本当に申し訳ない――うおッ!?」


 ――摩擦。

 ごく自然に、アストラエはリープマンティスの体液を利用して、なんの違和感もなく足を滑らせた。滑れば地面に力は伝わらず、震動があまり起きない。そして滑ることでアストラエの体は加速していく。


 このまま壁に激突すれば、もはや彼は何が起きたのか理解することもなくただ死すだろう。しかしスパルバクスだけは、その運命と真逆の未来を確信していた。何故ならアストラエの見る先と、彼が素早く手に握った剣の鞘の先端が、まさにアントリオンの潜む場所に向かっていてたからだ。


 結果、アントリオンは何一つ気付くことなくアストラエの剣の鞘に貫かれ、死んだ。


(アギェエエエエエエエエエエッ!?)


 スパルバクスは頭皮を掻きむしりたい衝動に駆られた。

 

 アストラエの剣はアントリオンの前方にあった土を押し出す形で突っ込まれたため、アントリオンの死因は圧縮された土による圧死。アストラエの鞘には毒の一滴すら付着していない。


 足が滑るという本来であれば絶対に避けるべき不意の運動を攻撃に組み込み、アントリオンの裏を掻く。その瞬間的な判断力の高さ、対応力、正確性、何よりも不注意という無意識を、無意識故の最速の攻撃に転用する埒外の発想。


 もはや超人を通り越し、当然として奇蹟を起こす聖人。


(だがッ、だがだがだが、だがぁッ!!)


 そんな奇蹟すらも乗り越えるためにスパルバクスは最後にして最強の罠を仕掛けていた。聖人だろうが何だろうが、必ず殺すという決意を具現化させた罠を。


 それは唯一、スパルバクスが現役を引退してから発見した種。

 ギルドも完全に把握していない新種。

 その名も、スパイク・ホーネット。


 この蜂型魔物は単純な戦闘力や群れの規模ではデッドホーネットに大きく劣る。恐らくだが、生存競争に敗れて彼が発見したその地でしか生き延びていないのだろう。その生存競争に敗れた理由こそ、スパイクホーネットの戦闘方法にある。


 スパイクホーネットは、尾の毒針を亜音速で発射するのだ。

 ただしその力は働きバチにしかなく、しかも発射直後にスパイクホーネット自身は確実に死亡するという究極の自爆技である。死後の死体が強い熱を帯びていることから何らかの化学反応で自らの体内を爆発的に膨張させ、その圧力で針を飛ばしていると思われる。


 死と引き換えなだけはあり、亜音速で発射された針の貫通力は絶大。

 これは貫通力より、命中した際にその生物の体内に伝わる凄まじい衝撃で相手を殺すのが主であるらしい。射程距離は数メートル程度だが、この空間にはスパイクホーネットが隠れられる場所は上にいくらでも存在する。

 これだけの戦闘能力がありながら生存競争に負けたのは、やはり一度使用すれば即死するという壊滅的な欠点故なのだろう。


 スパルバクスは今回、このスパイクホーネットを念入りに手懐けた上で、リープマンティストもアントリオンとも喧嘩しない位置に配置した。このスパイクホーネットのみ、自然の配置ではないと言えるかもしれない。


 しかし、むしろそれが自然。

 何故ならスパイクホーネットは真社会性の生物だからだ。

 生まれながらの使命に従って動くことが、逆にスパイクホーネットにとっての自然。統率者が不在の場所で、彼らは単独では生きていけない。それが最も自然な生き方であれば、動いたとしても不自然な氣など生じない。


 また地形も自然のスパイクホーネットが巣を守る見張りをする場所に限りなく近づけてある。つまり、スパイクホーネットはごく自然に、侵入者の中で最も女王代わりのスパルバクスが敵視する者を正確に狙う。スパルバクスが命じるまでもなく、勝手に。


(終わりだ王子アストラエ! 亜音速の針に貫かれて高貴な血を撒き散らすが良いッ!!)


 懐から何かを取り出して火を付けているが、事ここに至ってもはや何をしようが手遅れ。意識の外からの攻撃が今にも彼を貫かんとしたとき――突然、スパイクホーネットが行動を放棄した。

 否、その身を襲う強烈な苦しみにもだえ、命令を受け取れなくなった。その原因は――。


「すぅ……はぁ……ふぅ」


 アストラエが火をつけた香炉からけぶる、ハーブの成分だ。


 生物にとって、何が毒であるかとは難しいものだ。

 人間が平気なものが犬にとって毒であったり、或いは毒であってもその量によって逆に健康になったりする。個体差、消化酵素の差、原因は様々だ。

 重要なのは、今アストラエが焚いたハーブの香に含まれていた成分の中に、スパルバクスですら全く知り得なかったスパイクホーネットにとっての致命的な毒が含まれていたということである。スパイクホーネットは動かなくなった。死んではいないがもう助からないだろう。


 もはや人知を超えた英知。

 彼の者は、全ての未来をっていたとしか考えられない。


(アァ……アァァァアア……)


 スパルバクスは、魘されるように歩き出す。

 スパルバクスの長い人生全ての知識、経験、執念、そして覚悟を籠めて行った究極の陣。あの王国筆頭騎士ヴァルナにさえ短期間とはいえ気付かれずに隠しおおせた三重の罠。その全てが、潰えた。


 それは崩壊を意味し、そして再生をも意味する。


 やがて暗闇から光ある場所へ辿り着いたスパルバクスは、震えた。

 丁度太陽が天井を吹き抜ける穴を真上から照らしたとき、そこには人を統べるに相応しい絶対者でありながら、見上げるべき神々しさを纏ったひとりの存在があった。


 いたのではい。

 あったのだ。

 陽光に祝福される彼の如く、その絶対者は降臨していた。


 嗚呼、嗚呼。

 或いはもっと早くこうして拝顔の栄に浴していれば。

 ――いや、よそう。

 死ぬ前にこのような気持ちになれただけで、幸せなのだから。


 今、暗殺者としてのスパルバクスは致命的に死んだ。今ここにいるスパルバクスは、嘗ての愚かで救いようのなかった人格の衣を剥ぎ取られた者。全ての常識を打ち破られた末に、彼は人生で初めて心の底からその絶対者を尊敬した。


「王国第二王子、アストラエ様……この暗殺者スパルバクス、残りの人生を全てあなた様に捧げましょう。全能にして奇跡の王子よ……」


 この日、六十年以上他者の生命を弄び続けた男は仕えるべき主に膝を突いて、一度たりとて本気で下げたことのなかった頭を深く垂れた。


 対し、王子の反応は。


「え?」

「かなりガチめの『え?』が出たな、アストラエ」

「なんか凄い感謝されてるっぽいけどなんか手回ししてたの?」

「え? 知らんけど。何、え、こわっ」


 何も分かってなかった。

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