第259話 意地と意地の激突です
――俺は、一つの作戦を最初から必死に通していた。
いつ効果が表れるかもわからない戦法だが、コルカさんの情報を無駄にしたくなくて、何よりも負けて賞金に手が届かない事態を避けたくて、必死に頭を回転させて殴った。
人類最強の男に勝とうとした人間は数知れないが、彼が『人類最強』と呼ばれるようになってからは唯の一人しか勝利を掴んだ者はいない。その勝者も、対戦相手が白兵戦で規格外の実力を持つ『超越者』だったから勝てたようなものだ。
そんな相手にコルカさんが提案したのは、なかなかに無茶な勝ち筋だった。
『肝臓です。肝臓打ち(リバーブロー)を主軸にしましょう』
『肝臓打ち……?』
『やり方は簡単です。相手の懐に入り込み、右脇腹……お腹じゃなくて肋骨寄りを、斜め上に突き上げるようにこう!』
『おぶっ!?』
ドフッ!! と割とガチめな威力で殴られて驚く。
確かに体の奥底に響くようなパンチだったが、これが肝臓打ちなんだろうか。正直それがどう作用するのか、普通の殴りとどう変わるのか伝わらない。フられた件を根に持ってのささやかな復讐だろうか。だとしたら凹む。
『今、イマイチ分からないって思いましたよね』
『うん……即効性は感じないな』
『それが肝臓打ちの恐ろしさです。人間に内臓は沢山ありますし、どれも急所になり得ますが、格闘戦において肝臓打ちはいわば遅効性の毒なんです。鳩尾も当然効果的なのですが、当てるのが難しいですし……』
鳩尾は体の真正面。当てるには少々リスキーな踏み込みが必要になり、リーチの不利がモロに出る。その点、確かに肝臓打ちの方が狙いやすそうだ。それにしても遅効性の毒とはどういうことだろう。
『肝臓打ちは別に肝臓にダメージを与える技じゃありません。ヴァルナさん、肝臓の周りには何がありますか?』
『そりゃ胃袋、膵臓、胆嚢、横行結腸……腹直筋、アバラ、いろいろあるよ。細かいのだと腹膜とか』
『流石オーク解剖のプロ……騎士なのに何でそんなの知ってるんですか……実はその腹膜なんです』
『腹膜は内臓の大部分を覆う半透明の膜だけど……』
『タマエさん曰く、実は腹膜ってすごく痛みを感じやすい場所らしいんです』
それは初耳だった。ノノカさんなら知っていたかもしれないが、俺はそこまでは知らない。鳩尾が殴られて痛いのはてっきり骨や筋肉の合間で守る為の構造がないからだと思っていた。俺が解剖するのはあくまで死んだオークだし、ノノカさんは基本腹膜の中身が狙いで腹を捌いてるし。
『それも間違いじゃないんですけど、鳩尾を殴られて痛いのは内臓じゃなくて腹膜が痛いからみたいです。この腹膜に効率的にダメージを与えられる場所が、鳩尾と肝臓なんです』
『へー……あれ、でもそれなら普通に痛いってことじゃん。遅効性ってのは?』
『それは――痛みの蓄積です』
試合前の事を克明に思い出しながら、とにかく殴る。
自慢の速度にも追い付いてくるガドヴェルトの一撃必倒の拳を直撃だけは避けて、時折脇腹が難しいと感じたら別の場所も殴りながら、とにかく肝臓を狙って殴り続けた。少しでも『毒』を早く蓄積するためだ。
だが、戦えば戦う程、この生物は強くて遠すぎた。
自信がないどころではない、拳を握る気概そのものが砕けそうなほどの差。スタミナ温存を完全無視して戦っても体力消費もダメージも遥かにこちらが多い。まさに試合前にイメージした『大柄なタマエさん』を目の前にしてるようだ。いや、タマエさんなら柔の技も使ってくるが、ここまで体が大きいと彼自身にそれをするメリットが大してなかった。
吐き出す息が熱い。汗に混じって血が流れ出る。
全身のあちこちに掠った拳で鋭い痛みやじわじわとした痛みが広がっている。それでも戦い、殴る。終いには体が吹き飛んで脇腹に鈍痛が響き始める。人生で味わったことのない類の痛みだ。
(剣と一緒に心まで折れちまいそうだ……)
足にガタは来ていないのに、ガドヴェルトの動体視力がこちらを捉え始めた。氣の呼吸だけは無理やりにでも続けるが、肺がはちきれそうに辛い。こちらは現状を維持するので精一杯なのに、ガドヴェルトの動きはまだ洗練されていく。
――俺に負けた連中は、みんなこんな気分だったんだろうか。
ふと、殴っても殴っても顔色一つ変えずに反撃してくる怪物を見て、そう思った。強すぎる、高すぎる、不利過ぎる……どんなに考えて行動しても地力で覆される。しまいに、自分の攻撃は根本的に相手には効かないのではないか、勝利条件など元よりないのではないか――戦意そのものを揺るがす弱音が心の隅から次第に領域を拡大していく。
(だからなんだ。戦っている以上は倒してやる……!!)
俺は、その弱音を全部闘志で塗り潰した。
そうしないと、頂点を相手に喰らい付けない。
次第に恐怖は苛立ちに変わっていく。これだけ殴っているんだから効けよ、何か反応しろよ、という思い。自分の拳を安く見積もってしまわない為の八つ当たりにも似た自己暗示だ。己の拳が相手に届かないなどと弱気な事を考えたら負ける。
意地でもこの男を悶絶させてやるという対抗意識がマグマのように噴き出す。
――俺を脅威として見ろ!! いつまでも楽しい顔出来ると思うな!!
そうして気合だけで現状を維持して戦っていた折、俺は信じられないものを見た。
よそ見だ。
よそ見である。
一対一の戦いで目の前に相手を打倒せんと対戦相手が踏ん張っているときに、この男はあろうことか観客席によそ見したのだ。それはすなわちこの瞬間、ガドヴェルトは俺のことをどうでもいいと思っている、という意味である。
ぶつり、と俺の中で何かがキレた。
俺は殴り続ける状態を維持しようという考えを捨て去り、『もっと強くぶん殴ってやる』という燃料を煮え滾る闘争心に注ぎ込んだ。
「――どこを、見て戦ってんだッ、クソ筋肉達磨野郎ぉぉぉぉぉーーーーーーッッッ!!!」
瞬間、指先から足先までの全ての筋肉が直結したような未知の快感が全身を突き抜け、蒼炎のような見たことのない外氣を纏った拳がガドヴェルトの右脇腹を貫いた。今までと決定的に違う、左拳が肉を貫くような感触に、俺は歓喜した。
「が……ッ!?」
「その声……通ったろうッ!!」
ガドヴェルトが目を見開いて漏らしたその吐息こそ、遅効性の毒と怒りの反撃という二重の成功を物語る。
――このチャンスを逃してなるものかッ!!
両足を踏ん張って腰を捻り、俺は最小にして最適の動きでリズミカルに左拳をもう一度全力で肝臓に捻じ込む。ドフッ、と鈍い音がして再び拳が入った。
拳は振り抜かない。振り抜けば拳の回転率が落ちるし、当ててすぐ引いた方がダメージが逸らされにくくて結果的に堅実にダメージを与えられる。
更に同じ動きで畳みかけるように三発目、四発目を絞り出すように叩き込む。
が、これが限界。
「ぬぅあああああッ!!」
ガドヴェルトの鈍った動きが再び戻り、巨腕による薙ぎ払いが襲う。爪先と瞬発力を意識してとととん、と地面を蹴って間合いから離れると、今回は完全に回避できた。距離を取らせるための咄嗟の動きだったらしい。
「はぁ、くっ……ハハ……これは、完全に俺がマヌケだな……!!」
相変わらず楽しそうに笑うガドヴェルト。
しかしこれまでと比べ、決定的に彼の様子が違う。
脇腹を抑える手。
額に浮かぶ冷や汗。
口の端から垂れる唾液に、乱れた呼吸。
『こ、これは……ヴァルナ選手の拳が効いているッ!! 私は夢でも見ているのでしょうかッ!? ガドヴェルト選手が、揺るぎない筈の最強の不沈要塞がッ!! 今、確かによろめきましたぁぁぁぁーーーーーッ!!』
これまでの拳も、すぐ気付けないだけで腹膜に静かにダメージを蓄積していた。それが、今の数発で一気に爆発したのだ。しかも腹膜のダメージは一度爆発すると止まらない。殴るたびに更に鈍痛が加速し、呼吸するだけで耐えがたい痛みが襲ってくる。意識はあってもいずれ立ち上がれなくなるのだ。
肝臓打ちは確実に通っている。
だが、まだだ。この程度ではまだ足りない。
「もっとだ……もっと強く殴る。殴って殴って殴って、殴り飛ばしてやるッ!!」
「最高にイカした顔してるぜ、ヴァルナぁッ!!!」
もう幾度となく交わされた拳と拳の応酬。
しかし、形勢という名の天秤の揺れは激しさを増していた。
◆ ◇
「あれは――剛氣!?」
ヴァルナの見せた拳の輝きに、観戦中のバジョウが思わず身を乗り出す。普段はVIP席で観戦するアストラエも共におり、バジョウの口から洩れた聞き覚えのない単語に反応する。
「剛氣? ヴァルナが拳に纏ったあれか? そういえば君の使った『極奥義』も似たものを纏っていたが……」
「似ていて当然、根底は同じものだ! 内氣と外氣を極めた者のなかでも一握りの人間にしか発現させられない練氣法の一つ……使い手の心の色が反映されると言われているが、なんと美しくも熱気の籠った氣だ……!!」
アストラエは仕切り直しに構えるボロボロの友人の拳に宿る、炎のような氣を凝視する。ヴァルナが『氣』なる力を使っている事は知っている。アストラエも少しばかりヴァルナに基礎を教えてもらったが、戦いへの転用が難しく、必要性も感じなかった為に久しく使っていない。
「氣には体内を循環する内氣と体外に放出する外氣がある。その二つを習得し鍛え続けた先にある三つの到達点の一つ、それが剛氣。究極の攻撃手段だ。万物の『芯』を捉えるとされる剛氣は、相手を打倒し破壊するという一点に於いて比類ない。戦いの中で到達したのだとしても、一朝一夕で到達できるものじゃないぞ……!!」
「その力をヴァルナは手に入れた訳か……しかし、ともすればそれだけの威力を受けてもまだ戦えるガドヴェルトも同質の氣を纏っているのか?」
「その通りだ。あの黄金の気迫がそれだ。とはいえあの男のアレは最早『真氣』だが……」
「三つの到達点の一つ、とやらか?」
「あ、ああ。剛氣、蒐氣、そして真氣。真氣は前二つの特性を合わせ持つ上位互換で、二つを修得しなければたどり着けない攻防一体の力。だが、それを会得する頃には修業は五十年を超えるとも言われている……実質的な到達点だ」
「ガドヴェルトってまだ五十歳届いてないよな」
「つまり、そういうことだ。ヴァルナがあの若さで、しかも本格的な修行もなしに到達したのも異常だが――」
バジョウは生唾を呑み込み、戦いを凝視する。
「ガドヴェルトの氣はきっと天性のもの。生まれながらにして最強であり天才……!! でなければ、荒いとは言え岩をも砕く剛氣の拳を四発も食らって笑っていられるものかよッ!!」
「――しかし、流石はタマエ様のお弟子さん。素晴らしい着眼点です。確かにヴァルナ様がガドヴェルト様に勝利するにはその作戦しかありますまい」
ネメシアを宥めコルカと合流したチャン執事長は、ヴァルナの戦略を是とした。
「お恥ずかしながら嘗てはここで拳を振るったこともある私ですが、ガドヴェルト様の肉体の強固さは度を越して強力です。私も彼を打倒するには死力を尽くした全霊の一撃を叩き込むしかありませんでした。そして彼はその頃より更に強くなっている……」
(このおじいちゃん昔どれだけ暴れん坊だったんだろう……)
(さぁ、宗国出身だって話は結構有名だけど……)
「ほっほっ、昔の私などわざわざ調べるまでもない程度の男ですよ」
((絶対嘘だ))
ネメシアさえ確信する絶対やらかしてた感が凄かった。
とはいえ、執事長にお墨付きを貰って少し二人も安堵する。
「タマエ料理長とは仕事柄お会いする機会がありましたが、よく知っておられる。一体誰との戦いでその知識を求められたのかは謎ですが、腹膜へのダメージは呼吸を司る横隔膜にも少なからず波及します。このアドバンテージは絶大です。それに、もう一つ……」
嘗て人類最強に土を付けた男の分析は、二人の知らない情報に到達する。
「ガドヴェルト様は強すぎるが故、一対一の戦いでの長期戦を経験したことが殆どない。即効性のある鳩尾はともかく、肝臓打ちの苦しみを経験したことは恐らくないでしょう。警戒はしていた筈ですが、僅かな気の緩みもあった筈です」
「確かに……! そもそもほとんどの人があの人相手に時間を持たせられないし、即効性のある場所ばかり狙っていた筈……!」
「じゃあ、ヴァルナは勝てるんですか!?」
「勝算はありますとも。ただし絶対ではありません。何故ならば、ガドヴェルト様もそうした苦境を超える力を持っていらっしゃる。ヴァルナ様が氣の極致に手を触れた以上、此処から先は意地の張り合いが勝敗を分けましょう」
ステージ上でヴァルナとガドヴェルトが再び衝突する。
しかしその様相は明らかに先ほどと異なっていた。
「くたばれオラァァーーーーーッ!!」
「まだっ、楽しませろぉぉぉーーーーーッ!!」
ヴァルナがガドヴェルトの拳を拳で無理やり逸らし始めた。大振りだがガードもぎりぎりで機能している。その分だけ筋力と体力の消費は加速するが、拳が右脇腹以外にも威勢よく叩き込まれ始めている。
ガドヴェルトは冷や汗さえ楽しむように口元に笑みを浮かべているが、ガードが固くなり攻撃頻度が減っている。ヴァルナによって齎された未体験の苦痛が彼の戦法をわずかに消極的にさせていた。
「圧してるッ!! 圧し始めてるッ!! 嘘だろッ!?」
「ヴァルナァァァァァッ!! このクソ莫迦野郎、何で大陸に生まれなかったんだテメェぇぇぇーーーーーーッ!?」
「何やってるガドッ!! もっと攻めろやッ!!」
「いいやこれでいい!! ここが踏ん張り所だぞチャンプッ!! 相手に消耗させろッ!!」
「しかし
試合会場が狂喜や悲鳴の阿鼻叫喚に包まれるなか、ネメシアはそれでもやはり痛々しい姿を見ていられず、目を瞑って祈るように両手の指を組む。
「お願い、早く倒れてガドヴェルト選手……!!」
「ネメシアちゃん……って、そういえば」
コルカは先ほどから少し気になっていた事をチャン執事に問う。
「あの、失礼ですけど何をしに来られたのですか? 王子様の周りでは姿を見ませんでしたが……」
「ええ、実はイクシオン殿下に頼まれごとを受けまして……その話は試合終了後にでも如何でしょう? 老人の愚痴よりもこの決闘の方が、余程優先すべき光景でしょう」
「そう、ですね……」
最強を決定せしめんとぶつかる二人の拳闘士の勝負の行く末は、一気に最終局面へと加速していく。
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