第258話 きちんと前を向きましょう

 ガドヴェルトは峡国という大陸北東部に存在する小さな国の出身だ。


 峡国は嘗てどことも目立った国交を持たない『ならず者国家』で、歴史を振り返ると宗国や列国といった近隣諸国に海賊行為を行ったり、侵略戦争を仕掛けたことさえある。女神信仰の考えも薄く、その文化性はお世辞にも道徳が浸透しているとは言い難い。


 しかし、峡国が無秩序に暴れていたのも数百年前の話。

 他国への侵略戦争で返り討ちに遭い、更に減少した兵力で魔物と戦わなけれなならないという大失態を冒した峡国は随分変わり、国際化の道を選ばざるを得なくなった。


 ガドヴェルトはそんな国で、奴隷として生を受けた。


 この国の奴隷とは、いわゆる戦犯――前の国の主導者と共に無謀な侵略戦争を仕掛け、唯でさえ不安定だった峡国を滅茶苦茶にした連中の子孫だ。より正確には、半ば責任を擦り付けられた面もある。前の国の主導者は驚くことに当時この国で最強だった海賊であったため、海賊の子孫の扱いが良い訳もない。親の罰を子が背負う――それが当然という文化性のある峡国で、ガドヴェルトは「お前らの血が悪いのだ」と罵られ、劣悪な環境で労働に従事することを「そういうものか」と思っていた。


 炭鉱で何に使われるかも知らない石を掘り、農園で何かに加工するらしい名前も知らない木の実を拾い、船に乗せられると魚介を箱に満杯に詰めるまで網を引き、何度も海と陸を往復させられた。

 辛く苦しい環境の中で野垂れ死に同然に死んでいく者もいるなかで、ガドヴェルトはそれを憐れみながらも、已む無いことなのだろうと思っていた。


 逆らうものは鞭打ち、飯抜き、不休労働、最悪の場合は死刑。奴隷と奴隷が子を為すことは黙認するが、生まれた子も奴隷とする。表向き国際化の道を選んだ峡国だが、その実態はとても威張って国際化したと言えるものではない。

 しかし、奴隷は檻の外に出られない。

 ガドヴェルトは自由という言葉の意味も知らず、十四歳になった。


 この頃、ガドヴェルトは既に成人と変わらぬ体躯に育ち、奴隷の監視員の目を盗んでは周囲の奴隷に手を貸していた。それは見つかれば鞭打ちだとは分かっていたが、体力に余裕のあるガドヴェルトはせめてこれぐらいしてもいいだろうと思っていた。


 ある日、とうとう所業がばれ、ガドヴェルトは公開鞭打ちの刑に処された。


 棘を組み込まれた鞭による鞭打ちは、特に若い者に対しては恐怖を叩き込むために苛烈に行われる。数人がかりでの鞭打ちはガドヴェルトの全身に傷を作った。


 しかし、このときガドヴェルトは人生で初めて不思議な事に気が付いた。


 鞭打ちは確かに痛いが、泣き叫ぶ程ではない。

 目の前の大人たちは怖い顔をしているが、自分の心は恐怖を感じていない。

 縄に縛られて括りつけられているが、ロープが余り頑丈に感じない。


 最初は苛烈に責め立てていた監視員たちも、叩いても叩いても不思議そうな顔で見つめてくるガドヴェルトに疲労と恐怖を覚えはじめ、勢いが萎んでいった。

 そんな中、監視員の一人が苛立ちを露に叫んだ。


『抵抗する素振りすら見せないのか!!』


 それは、本来なら嘲りの意味を込めたものだ。

 抵抗できない相手であることを理解した上で、敢えてそう口にして己の矮小さを思い知らせる。そんな意味合いで発される言葉だ。しかしこの時、監視員は自分の必死の攻撃が『相手にすらされてない』という勘違いからプライドを傷つけられ、激高したことで出た言葉だった。


 それは一つの引き金だった。


『抵抗していいのか?』

『ああッ!? やれるならしてみろッ!! 呑まず食わずで丸一日括りつけられ血を流したその体で、何か一つでも抵抗できるならなッ!!』


 ガドヴェルトは昔、自分の父親が自分を守るために監視員を殴り飛ばし、その後三日間食事を抜かれて死ぬ寸前の夜の事を思い出した。


『いつか、どんな形でもいい……生きて、力付けて、仇ぃ……取ってくれ。お前なら出来る……おれの……むす、こ……』


 やせ細った父の手を握った時の骨ばった感触。

 崩れ落ち、冷たくなっていく父が、監視員にまるでゴミでも運ぶように引き摺られていく光景が脳裏にフラッシュバックする。

 怒りはなかった。ただ、悲しかった。


 あの時の父より、今のガドヴェルトの身体は大きくなっている。

 今ならこの拳で、父の仇とやらが取れるかもしれない。

 殺そうという意識はなく、ただ、父が放ったそれより強い力で相手を殴れればそれでいいと思った。


『父ちゃん。おれ、やってみるよ』


 ガドヴェルトが腕に力を込めたら、ロープは一秒と持たず千切れた。

 余りにも呆気なく解放されて唖然とする監視員に向けて拳を振り翳したガドヴェルトは、込められる全ての力を注いで拳を振り抜いた。


 人生で一度も戦った事がない男の、技術も何もない拳。

 

 その一撃は、その場にいた全員の監視員を数十メートルに亘って吹き飛ばした。彼らは地面を何度もバウンドし、奴隷を閉じ込める木製のフェンスに背中から叩きつけられ、悲鳴も発せず崩れ落ちた。


「……ああ、そうか。おれは強かったのか」


 初めて気づいたその事実が、心に闘志を宿した。

 そこからのガドヴェルトの人生は、怒涛だった。


 騒ぎを聞きつけた監視員や国の衛兵たちを我武者羅に殴り飛ばし、奴隷を閉じ込める巨大な壁を素手で粉砕し、次々に押し寄せる戦力――国家の戦士一万名を相手に三日三晩の死闘を繰り広げながら場所も分からず進み続け、気が付いたらガドヴェルトの目の前には見たこともない煌びやかな服を着た男がひれ伏していた。


『頼むッ!! 奴隷は全て解放するッ!! だからこれ以上この国で暴れないでくれぇぇぇッ!!!』

『……つまり、どういうことだ?』

『ヒッ!? き、峡国はもう奴隷を支配しない! いえ、しません! おま……いえ、貴方様はもう誰の束縛も受けなくていいんですッ!! 何でも言う事を聞きますッ!! だから、だから……もうこれ以上私の国を滅茶苦茶にしないでくださぃぃぃぃぃーーーーーーッ!!!』


 ――のちに聞いたことには、その男こそが峡国の国家元首。


 そしてガドヴェルトは無我夢中で暴れまわった三日の間に国の兵力のうち約六千名をなぎ倒し、三千名を恐怖で敵前逃亡させ、残り千名を開放された奴隷たちが叩きのめしたことで国の戦力を事実上壊滅させてしまったらしい。


 何でも言う事を聞くと言った国家元首にとりあえず腹が減ったのでたらふくの食事を要求し、それを平らげて丸一日寝て、次に目が覚めた時にはガドヴェルトは奴隷仲間たちに囲まれていた。


『すげえよアンタ、奴隷解放の英雄だっ!! もしかして人類最強なんじゃねえの!?』

『人類最強……? おれが?』

『そうだよ間違いねぇ!! 丸一日鞭打ちの後で三日三晩暴れたんだぜ!? つまり四日間戦い続けて、絶対勝てないと思ってた戦力差を殆ど一人で覆しちまったんだぜ!?』

『金はたんまり貰ったし、俺等はこれから自由だ!! どこにだって行ける!! なんならあの王様ぶちのめしてお前が王様にだってなれる!!』

『親父は、これで浮かばれたかな……』

『あったりめぇだろ!! さぁ、次はどうするんだガド!!』


 全員の期待の視線が集中する。

 皆が皆、ガドヴェルトの言葉を待っていた。

 ガドヴェルトは一旦答えを保留して周囲の奴隷たちと色々な雑談をして、当面の目標を一つ定めた。


『外国ってやつに行ってみたいな。この奴隷区の外に広がってるもっともっと広い世界を、この目で見てぇ』


 すなわち、峡国という狭い檻からの解放である。

 ガドヴェルトはその後、死んだ奴隷たちの魂を弔う慰霊碑を立ててもらった。弔いを済ませて故郷にやり残したことはない。峡国が奴隷から搾取し貿易で得た金を全て毟り取り、ガドヴェルトは解放奴隷たちと共に国を捨てて旅に出た。


 長く楽しい旅路――というほど楽でもなかったが、未体験が次々に押し寄せてくる世界はガドヴェルトを飽きさせなかった。

 奴隷たちは少しずつ、外の世界でやっていきたいとあちこちの国に居住んでいった。そしてガドヴェルトは全員が世界の中に自分の居場所を見つけるまで付き合ったのち、一人になった。それは孤独ではなく、自分が密かに抱いた夢をよりよい形で叶える為に望んだものだった。


『この腕でどこまで世界をのし上がれるか……なんて口にしたら、絶対着いて来る奴が出るからな。守りながらの戦いじゃなくて、俺は自分だけの戦いがしたかったんだ』


 なお、数年後に元奴隷たちにこの事を話すと失笑交じりに「知ってて身を引いたんだよバーカ」と言われたのは、今でもいい思い出である。


 こうしてガドヴェルトは戦いの道を邁進した。

 絢爛武闘大会での優勝に、巨人殺し。

 二度目の大会では人生初の敗北を喫したが、それすら得難い経験だった。

 氣も粗削りながら習得し、必殺の奥義を身に着けた。


 ――その必殺の奥義が、中級の剣で放った奥義で相殺されてしまうのだから、人生という戦いは本当に面白いものだ。


「らぁあぁああああッ!!」

「剣をへし折られても全く折れないなッ!!」


 全力疾走で間合いに踏み込んでくるヴァルナを前に、冷静に動きを見極め、軌道を潰し、叩きのめすために拳を振るう。それでもヴァルナは獣のような身のこなしを完全に意識的に行い、死に物狂いで拳を潜り抜けてくる。


 細身の腕から放たれる拳がまた一発、ガドヴェルトにとっては弱いパンチだが脇腹に叩き込まれる。


(同じ場所を狙って来てるな……)


 戦っていれば当然気付く。ヴァルナはガドヴェルトの身体の当たる場所にとにかく拳を叩き込んでいるようで、実際には出鱈目な殴打をフェイクに一か所だけ的確に同じ体の位置に拳を叩き込んでくる場所がある。既に十発は喰らったが、対応はしている。彼は変なリスクは避けるタイプだと聞いていたが、この戦いではリスク覚悟で飛び込み、攻撃を掠らせながらでも叩き込んでくる。


 それでいて、その個所をガードする素振りを見せるとすぐさま低リスク戦法に切り替える。実に嫌らしい動きだが、それもまた面白い。


 涓滴岩を穿つ、という言葉がある。

 狙いは恐らくそれだろう。


(剣での奇襲は狙えるタイミングだから狙っただけ……戦法自体は終始一貫している……惜しいなぁ)


 もし彼が剣ではなく拳に人生を捧げた男であったなら、もっと面白い戦いになっただろう。しかし彼は剣を扱う男だ。攻撃を回避する瞬発力と予測能力の高さで言えば今までに戦った戦士の中で最高かもしれないが、拳の攻撃は上の下。内氣を扱えているのは流石チャン・バウレンの弟子といった所だが、そこから先にまで踏み込めなかったことが彼の敗因となるだろう。


 拳の軌道を突如横薙ぎに変えると、とうとうガドヴェルトの指先がヴァルナのわき腹に命中した。


「かふっ……!!」


 全身に駆け巡る衝撃を、しかしヴァルナは空中で全身を回転させながら床に転がることでギリギリ逃がした。ただ、衝突時の感触からしてアバラは無事ではないだろう。転がる勢いで腰の鞘が一つ場外に弾き出された。それでも氣の呼吸を乱さず、ヴァルナは立ち向かう。


 接触、回避、殴打、離脱。

 そのバランスが次第に崩壊し、ヴァルナの一撃とガドヴェルトの攻撃が釣り合い始める。掠る箇所が次第に広く、吹き飛ぶ距離が次第に長く、床を汚す出血が次第に多く。ヴァルナの身体はどんどんボロボロになっていく。


「まだ続けるか?」

「俺は立ってる」


 虚勢なのは一目瞭然だった。もはや呼吸法でも息の乱れを立て直せず、全身を巡らす氣でカバーしなければ立つことさえ困難な状態だ。医者ではなくとも戦士であるガドヴェルトには、拳を通して全てのコンディションが手に取るように分かった。


 ただ一つ、射抜くような眼光だけが不気味なまでにギラギラと光っている。

 より本能的に、より原始的な勝利を求める極限状態の目。


 こんな目をする人間の行き付く先は二つに一つ。

 この男はどちらだ――もう長くないであろう試合の中で、それを見極めることだけがガドヴェルトの楽しみになりつつあった。


 と――。


「きゃっ……! ご、ごめんなさ――」

「これは大変失礼しました、美しいレディ。お怪我はございませんか?」

「大丈夫です、すみませ……え……あ、貴方は……!!」


 会場のどこからか聞こえる場違いな会話。

 しかしガドヴェルトの本能が、反射的にそちらに首を向かわせた。


「何度かお会いしたことがございましたな、ミス・クリスタリア。お久しぶりです。王宮執事長のセバス=チャン・バウレンでございます」


 あの頃より随分老けた声なのに。

 あの頃の不愛想な態度からは想像もできない優雅な声なのに。

 決して間違える筈のない声の持ち主に、ガドヴェルトの目は釘付けにされた。




 ◆ ◇




 時間はほんの僅かに遡り、会場最前列。


「もう見てられない……!!」

「あっ、ネメシアちゃん!?」


 コルカの静止を無視し、ネメシアは席を立った。

 見る見るうちに傷つき痛々しい姿に変貌していくヴァルナの試合を、ネメシアはそれ以上直視できなかった。余りにも酷過ぎる。戦い方が拙いというのではない。このような戦いをしなければならない意味がネメシアにはもう分からなかった。


 素人目に見ても分かる。

 ヴァルナの勝ち目は万に一つ以下だ。

 どんなに頑張っても、どんなに踏みとどまっても、人類最強に素手で勝てる筈がない。


 なのに立ち向かい続けて傷つくヴァルナに感情移入し過ぎて、ネメシアは自分の心の痛みに耐えきれなくなった。この戦いをこれ以上直視することに耐えられない。涙に滲む視界を擦り、会場の出口に一直線に走った。

 ヴァルナはもう頑張った。

 十分すぎるくらい粘った。

 なのに戦いをやめられないヴァルナが負ける瞬間を、視界に収めたくなかった。


 だが、会場の出口まであと少しまで迫ったその時、突然の予期せぬ衝撃にネメシアは仰け反った。


「きゃっ……!」


 誰かにぶつかってしまったことに気付いたネメシアは思わずヒステリックに怒鳴りそうになるのを堪えて相手の顔も見ずに謝罪する。全速力でぶつかった割には自分も相手も倒れていないことを不思議に思いながら。


「ご、ごめんなさ――」

「これは大変失礼しました、美しいレディ。お怪我はございませんか?」

「大丈夫です、すみませ……え……あ、貴方は……!!」


 顔を上げ、愕然とする。

 その顔をネメシアは幾度か見たこともあるし、少しばかり言葉を交わしたこともある。


 王宮の秩序の体現にして最も王の信頼が厚いとさえ語られる、背筋のしゃきっとした老紳士。すべての仕事を完璧にこなし、後進育成も完璧にこなし、誰もが自然と彼に敬意を払う男。どうしてこの場にいるのか予想外過ぎるが、見間違える筈もない。


「何度かお会いしたことがございましたな、ミス・クリスタリア。お久しぶりです。王宮執事長のセバス=チャン・バウレンでございます」


 宗国人特有の細い目と艶のある黒い髪を一本三つ編みに背中に垂らす執事服の男――執事長セバス=チャン・バウレンは、柔和な微笑みで恭しく一礼した。




 ◆ ◇




「チャン……チャン・バウレンッ!!」


 もしも女神が願いを叶えてくれるとしても、ガドヴェルトは手に届く物は自分で手に入れるからと断るだろう。だが、もう一度チャン・バウレンと戦いたくないかと言われたら、きっと断れない。


 記憶の中で最も鮮烈な存在、『二代武闘王セカンドオデッセイ』に、ガドヴェルトの視線は釘付けになった。


「てめえ……」


 ――この場、この試合、この瞬間に。


「――どこを」


 ――絶対にやってはいけないことを。


「見て戦ってんだッ」


 ――ガドヴェルトは、してしまった。


「クソ筋肉達磨野郎ぉぉぉぉぉーーーーーーッッッ!!!」


 意識を戦いに戻したとき――蒼炎の如き燃え盛る闘氣を宿したヴァルナの左手が、寸分の狂いもなくガドヴェルトの右脇腹に突き刺さった。ヴァルナが何度も拳を叩きつけた、その場所に。


「が……ッ!?」

「その声……通ったろうッ!!」


 己の拳の手応えに、ヴァルナは獰猛な肉食獣を思わせる犬歯剥き出しの壮烈な笑みを浮かべる。その一撃はこの試合が始まって初めて――いや、この大会が始まって初めてガドヴェルトが漏らした、明確な苦悶の声だった。

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