第192話 激動の水面です
それは、壮烈ながらもそれを感じさせぬ、極めて奇妙な戦いであった。
一見して、彼の騎士は釣りを楽しんでいるようにも見えた。読者諸君は存じているかもしれないが、魚を食料として釣ることを目的とする王国に対し、海外では魚釣りの過程を楽しむという文化が存在する。そういった人々から見れば、彼の戦いは羨望と嫉妬を覚える程の戦いに見えたのかもしれない。
しかし、筆者はこの騎士を虎視眈々と水中に引き摺り込まんとする、身の毛もよだつほどの巨躯を持った怪物を肉眼で確認したが故、これが命を賭した戦いであることを疑いはしなかった。
大きさはおよそ十メートル程だろうか。これは事前の調べで予想された大きさより更に大きかったと後に騎士団は語った。
その様相は例えるならば極めて巨大な鯰だ。口を開ければオークを丸呑み、全身は黒く怪しいぬめりを帯び、髭もある。目は非常に小さく、注意深く観察しても見逃しかねないものだった。その奇形は、筆者には悪魔的な凶悪さに感じられた。
プレセペ村に伝わる民間伝承になぞらえ、ヤヤテツェプと呼ばれたこの人食いの大魚に対し、戦っているのは一人の騎士であった。このアンバランスな光景に、筆者は当初、他の騎士は何をやっているのかと義憤を覚えた。
しかしこれは浅慮から来る全くの的外れな意見であり、いかに王国の剣たる騎士団も、剣や槍を抱えて十メートルに届かん怪物を水中で相手取るのは不可能であった。これは我々人間が陸に生きる生物である以上は如何なる鍛錬によっても覆すことの出来ない相性である。
時に引かれ、時に引き返し、周囲に注意を促しながら最新型の釣り竿を使いこなす若き騎士の奮戦は続き、状況が大きく動くまでなんと三時間にも及んだ。もちろん釣り竿を持つ彼はその間、休む間もなく船の上で立ったままである。
驚異的な体力と集中力の持ち主であり、筆者は改めてもっと早く彼の名を確認しておけばよかったと後悔に駆られた。気が付けば筆者自身もそれほどの長期間、彼の一挙手一投足に注目していた。
しかし、時間が経過するほどに気になるのが、騎士団が恐れていた雨季の到来である。例年より一か月も早く襲来したこの雨は、王国に生活する多くの人々にとって快くないものであり、既に雲行きからして降り出すのは時間の問題と思われた。
あのギャラクシャス川大氾濫事件以降王国が傾注していた治水事業の成果で大規模な水害は減っているが、この自然の形が残るイッペタム盆の、しかも中心地で行われる本作戦にとって、雨は致命的な事態をいくつも引き起こすことが予想された。
すなわち、この大鯰との戦いは水、天気、更には時間までをも同時に相手取って戦わねばならない極めて困難なものだったのである。
そして、作戦開始から三時間後。
とうとう騎士団と黒鯰の決着が近づく転機が訪れる――。
――著、記者パラベラム 『巨大黒鯰と騎士団の戦い』より抜粋。
◇ ◆
付かず離れずの戦いを続けた末に待っていたのは、良いニュースと悪いニュースという定番のものだ。
まず良いニュースは、竿から伝わるヤヤテツェプの動きがかなり鈍ってきていることだ。原因は肉に仕込んだ薬か、俺との格闘か、魔導式電網が潜在的なダメージを与えていたのか……詳細は何とも言えないが、確実にその抵抗の激しさは陰りを見せ始めていた。
そして悪いニュースがぱたん、と音を立てて船に落ちた。
ぱた、ぽた、ぴちゃん。
ぶつかる相手に合わせて音を変えるそれの正体は、雨粒。
意味することは、この土壇場に来てタイムリミットが迫ってきたということだ。
『アッ、冷タッ!! トウトウ雨降ッテキタ!!』
「聞いての通りっす! むしろここまでよく保った方か……!?」
「~~~ッ、ヴァルナくん!?」
「今すぐ釣り上げるなんて無茶言わんでしょうね副団長!? 弱っては来ましたが、相手の質量考えてください! 釣り竿が保ちませんッ!!」
「ノノちゃん、今の発言って釣り竿の強度さえクリアしてたら行けるように聞こえるのは気のせい?」
「ヴァルナくんは有言実行の人なので、もし本当に用意出来ればもしかするかもしれませんねー……」
そんなものに耐えられる釣り竿と糸があれば無理とは言わないが、今はたらればの話に意味などない。今出来ないことに意味はないのだ。まだ本降りとはいかないまでも水面を叩く水の音は増える一方であり、増水するのが目に見えている。
マモリの肩を掴む手が強くなるが、彼女は何も言わなかった。
「マモリ……」
「貴方に任せる」
「……おう」
結末が撤退であれ続行であれ、こっちはとうの昔に腹を括っている。
彼女の声は暗にそう言ってると感じた。
継続か、それとも撤退か、まだローニー副団長は何も言わない。
実行者である俺の意見を求めているのだろう。
しかし選択を前に、脳裏にふと場違いな疑問が頭を過った。
どうしてヤヤテツェプは攻撃を仕掛けてくるという知能があるのに、イッペタム盆の外には出ようとしないのか。
普通、魚は釣ろうとする釣り人側に自ら近づきはしないのでこれまで疑問には思わなかったが、考えてみれば広いとは言えない水路から糸を垂らす自分たちはヤヤテツェプにとって絶好の的である。
だったらば、本能以外の理性的な攻撃行動に訴えることも出来た筈だ。
そもそもヤヤテツェプは何故このイッペタム盆の外に出ないのか。
その答えは、よく考えれば既に耳にしていた気がする。
ヤヤテツェプは水深の深い場所にいるからこそ周囲に存在を気取られずにいた。よって水路にまでやってくるとヤヤテツェプは水深の関係からどうしても存在を気取られ、更に綺麗な水の中では正体が丸見えになる。
いかに狂暴なヤヤテツェプも、鳥から背中をつつかれれば相手の一羽一羽を倒すのは
段々と、怪物の化けの皮が剥がれていく。
もしかして俺たちは、ヤヤテツェプを過大評価し過ぎていたのでは――。
「アマナ教授!!」
「どうしましたか、ヴァルナ君!?」
「ヤヤテツェプってもしかして、『イッペタム盆の中でしか生きられない』んじゃないでしょうか、どう思いますかッ!?」
「――………」
俺の言葉を聞き、その意味を数秒咀嚼し、俺の言わんとする事に気付いたアマナ教授が答える。
「――その可能性は大きいですッ!! 魔物であっても進化の方向性には限度がありますし、イッペタム盆での環境に特化したヤヤテツェプはきっとここでの生き方しか知りませんッ!! でも、それが分かったところでどうする気ですか!?」
「雨季ってことはこれから水深が上がるんでしょう!! 水深が上がればこの水路も奴を引き込める環境になって槍の狙いもつけやすくなりますよねッ!?」
「え!? え、ええっと……君、正気!?」
「こうなったら出来るところまでやってやりますよッ!!」
うっわマジかこいつと言わんばかりにゲテモノを見る目でドン引きするアマナ教授の事はさておき、言質は取った。奴はこの沼でこそ最強なのであり、沼の外に引き寄せればその限りではない。
すぐさま考えを整理し、ローニー副団長にぶつける。
「ヴァルナ特務執行官の権限で作戦提案ッ!! 工作班を先行撤退させ、指揮船と遊撃班の船を二つ残します!! 指揮船とボートのロープは切り離し、ここからボート単独で奴を引き付けて水路まで引き込み、隙を見て遊撃班で挟撃ッ!! 魔式電槍をぶち込んで殺し、そのままプレセペ村まで引き摺って帰りますッ!!」
「馬鹿なこと言わないでください!! そんな滅茶苦茶な作戦がありますか!?」
「いいえ無茶じゃありません! 増水した水はマモリの話が正しければイッペタム盆からこの水路を通る、つまり流れに乗れば他の船もそれなりの速度で移動できる筈です!! そしてその中にあって動力付きのこのボートは柔軟な移動が出来る!!」
「それで無理なら!!」
「だから、逃げながら戦うんですよ!! 無理ならその時は諦めればいい!! この作戦ならまだ俺たちは戦えますッ!!」
実際問題、このまま増水して流れが速くなるであろう水路から撤退しなければならないのは決定事項のようなものだ。ならば撤退しながら戦えばいい。ライの操舵技術を知っている俺は、無理だとは思わない。
数秒間、雨が激しさを増すなかで俺とローニー副団長は睨み合う。
やがて副団長は、苦虫を噛み潰したような顔をしながら胃をさすり、恨みがましさの混じる言葉を吐露した。
「民間人保護の観点から安全を保障出来ないと判断した場合、即時撤退を指示します。分かりますか? ライ君とマモリちゃんに危険が及んだらその時点で作戦終了で――」
「俺が二人を指揮船にぶん投げればいつでも撤退可能ですよ」
「……私は貴方のことも含めて言っていますよ。万一船から放り出されたら君を助ける方法が――」
「俺は大丈夫です。練習して水面走り習得したんで船なくても帰れます」
「あ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!! 違う、そうじゃないというかそういう非常識的な対策を聞いている訳ではないんですが、確かにその対策ならいつでも撤退出来るから否定したいのに論理的に否定し辛いのが非常にもどかしいですねぇッ!?」
若干の怨嗟が籠っている気がして反射的に謝りかけた。苦労おかけします。
尤も、力技であることは否定しない。
騎士団の作戦としても俺のポリシーとしても褒められた内容ではない。それでも、ここまで来た以上は王国最強の実力も使えるだけ使い切る。もう赤字は確定なのだし、問題は予想外の赤字か予定内の赤字かだ。
狂乱気味に頭を掻きむしったローニー副団長は「全員聞きましたねッ!?」とヤケかつキレ気味に周囲に確認した。事実上の作戦承認だ。
「水面歩きとかアイツは泉の精霊の血でも引いてんのか!?」
「こんな所にいられるか! 俺は帰らせて貰う!」
「それが、我々が彼を見た最期の姿であった……」
「下らねぇこと言ってないで急げ!! せめて無事だった魔導式電網持って帰るぞ!!」
命令が下った以上は従うのが縦割り組織の大原則。
騎士たちが口々に思い思いの事を言いながら撤退準備に入る。
ただしフラグ建てた先輩だけものすごく周囲に監視されてるけど。
「チッ、余計な手間かけさせやがって。ほら、縁に寄るな。落ちて死ぬぞ」
「下らねぇこと言いがやる……おい槍貸せ。バランス崩して落ちたら大変だ」
「全く世話の焼ける……帰ったらちゃんと口をゆすいでお湯で体洗うのよ。最近は過酷な任務後の死亡も任務関連死に含まれちゃうんだから」
「要らんこと言った俺が悪かったけど死ぬこと前提で道譲られるのスゲー嫌だッ!?」
実際問題、この状況で事故が起こると本当に死にかねないのでかなり洒落になっていない。だからノリでいい加減な事を言うなと普段から言っているのに、空回り先輩は今日も空回りだ。その空回りっぷりが周囲にイジられキャラとして愛されていると言えなくもないが。
「まったく、運命の女神が喜びそうなこと言うんじゃねぇ」
「いやそこは死神じゃね?」
「マジかよ死神最低だな。よし外来種認定だ」
極めて自然に神を討伐対象にカウントしようとするスーパー不敬者たち。皇国の人間からすれば危険思想集団らしいが、こちとら仕事でやっているのである。神が王国を滅ぼそうとするなら、じゃあ神を殺す作戦立てようと言い出すのが俺たちだ。
だからこそ、巨大魚に今更怯んでなどやらないし、やるからには殺す気で挑む。撤退指示だとか民間人の犠牲を出さないなんてのは、剣で勝負をするのに剣を持てと言っているのと同じ事であり、前提だ。そもそも困難条件足り得ない。
ヤヤテツェプは今なお抵抗しているが、その距離は既にこちらまであと二十メートル程の場所にまで達している。こちらが苦しいときは、敵も苦しいのだ。
「操舵、ヤヤテツェプの横にはつけるなよ!! こうなれば槍は距離を取ったまま投擲するしかない!!」
「一番船は俺ことロンビードが投擲する! 二番船はディンゴがやれよ! 人数ばかり増やすと槍のコントロールが効かん!! 重量減らす為に十人は撤退の船に乗れやッ!!」
「魔式電槍を持った私はどうします!?」
「ガーモン班長は指示船で待機を!! 最悪、槍を渡す係も覚悟してください!!」
目まぐるしく人が行き来し、僅か数分で陣形が再構築される。
その間も段々と体力を消耗したヤヤテツェプはじわじわとこちら側に引き寄せられる。疲労の蓄積と水流によって反対方向に逃げるのが難しくなってきたのだろう。先行撤退の船が出発したときには雨は既に本降り状態であり、水深がみるみる上昇していくが、ヤヤテツェプにとっては逆風ならぬ逆流だ。
もしかしたら、この死中に見出した活を齎したのは、
死者まで借り出して現代の問題を解決するのは、眠る人々に対して余りにも酷だ。親の問題を子の世代が片付けんとする執念を抱き続けたマモリが掴み取ったと考えた方が、個人的には好ましい。
◇ ◆
唸る魔導機関、水面を駆けるボート。
その上からヤヤテツェプを釣り竿で誘導し続けるヴァルナたち。
隙をついて槍を投擲する遊撃隊。
「ライ、左寄れ!! あいつの尾が来る!!」
「ラジャアアアアアッ!! 草と水の境界線を俺のドラテクで穿つぜぇぇぇぇッ!!」
「ライの奴ハチマキ巻いた途端にキャラ変わってね?」
「いいから投擲急げディンゴ!! お前の投擲ロンビード班長の半分ぐらいしか当たってねぇぞ!!」
「バッカそりゃあの人がおかしいんだよ!! つーか、もう何本も刺してるのにアイツ出血少なすぎんだろ!!」
そして、その猛攻に遭って体力を消耗しながら、まだ鎮まらない
水が増水し続けるなか、遂にヤヤテツェプを水路まで引き摺り込んだ騎士団を待っていたのは、流れに乗せられて接近戦を仕掛けてくるヤヤテツェプとの、船上での激しい攻防だった。
その中にあって場違いな感覚を覚えているアマナ教授は、不思議と他人事のように二つの力の激突を眺めていた。
「何だか凄いことになっちゃってる……」
「ノノカもここまで激しい現場には初めて来ます。スゴイ迫力ですね~!」
「見物決め込んでどうするのノノちゃん……」
オークという狂暴な存在を追いかけるノノカと違い、アマナは魚が相手なのでこれほどの修羅場に同行するのは初めての事だった。少し前まで軽口を叩いていたような騎士が犬歯剥き出しで唸り、時折怒号のような指示が掛け声が飛び交う。現在、騎士団は予定通り『撤退しながらの戦闘』を続行し続けていた。
まるで出来のいい魔物討伐の演劇を見ている錯覚を覚えるアマナだが、時折激しく揺れる船の振動がこの光景が現実である事を訴える。
その中に、懸命に騎士ヴァルナにしがみ付きながら何かを叫ぶマモリの姿があった。無茶をして前線に来るかもしれないとは思っていたが、まさかあそこまで最前線に行くほど肝が据わっているとは思わなかったな、と思う。
敵と戦うのは戦士の役目。
それを観察して分析するのは学者の役目だ。
ぼうっとしている場合ではないと思ったアマナは首から下げていた双眼鏡を取り出し、観察を始める。こうなれば生きているヤヤテツェプの情報を集めなければ、危険の割に合わない。
それにしても、と思う。
(どうしてヤヤテツェプには電気が通じなかったのかしら)
魔導式電網は魔物相手にも効力を発揮する出力を誇り、実績もある。非正規品とはいえ学院の人間のチェックが入っており、それが四本もあるのなら劇的な効果が期待できた。
なのに、蓋を開ければ電撃の後もヤヤテツェプは暴れ回った。
今も騎士曰く弱っているそうだが、そうは思えない程の暴れっぷりだ。魔式電槍を叩き込むとして、何故ヤヤテツェプに電気が効かなかったのかというカラクリが暴かれなければ同じ結果になるかもしれない。
電気が全く体を通らない生物というのは、少なくともアマナは聞いたことがない。そもそも電気を完全に遮断するには絶縁体が必要であり、その絶縁体は殆どが人間による加工物としてしか効力を発揮しない。
ヴィーラなど水の魔法を使える生物であれば水を操り純水を作り出して電気を防ぐことは出来るが、もしあの巨大な魚が水の魔法など使えるのなら最初から騎士団に勝ち目がない。状況的に使えないと見るのが自然だろう。
と、ディンゴと呼ばれた騎士の投擲した槍がヤヤテツェプに飛来し、角度が悪かったか滑るように刃がヤヤテツェプの表皮を滑る。傷口は広いがかすり傷でしかなく、出血する様子もない。
「切れたってことは表皮はそこまで厚くないとして、出血が少ないのはなぜなの?」
人も魚も血は赤い。
そして体を守る鱗の中には当然血が流れている。
切られたり傷つけば必然的に出血するが、ヤヤテツェプの出血量は既に数本の槍が突き刺さっても少ないままだ。刺さった状態では刃が血管の蓋になっているが、激しい動きで槍が外れた後の傷にも出血が少ない。
目を細め、細心の集中力で観察する。そして、気付く。
「……そうか! ヤヤテツェプの体の表面部分は……!! 出血が少なかったのも電気が効かなかったのもそういう理屈!?」
だとすれば、と思い、アマナ教授は慌ててファミリヤ使いの騎士に向けて走り出した。あの非凡な友達が気に入っている非常識な騎士ならば、この情報をどうにかして料理してくれるかもしれない。
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