第191話 苦渋に満ちた決断です

 竿の先端がしなり、ちゃぽん、と小気味のいい音を立てて浮きが沈む。


「……!」


 竿を引く。先ほど岩のように固かった感触とは違い、明確に奥に引き摺り込まれている。リールがカラカラと音を立てて糸を吐き出し、足でなんとか衝撃を抑えたにも拘らずず船が揺れた。


「来た?」

「来たな。すげぇ重さだ。竿が保つかな」

「それはきっと貴方次第」

「ッ!! 全員、迎撃用意ッ!!」


 周囲がざわめき、ローニー副団長の怒声染みた指示と共に周囲が一斉に水面に向けて槍先を構え、魔導式電網の電気漁モードレバーに手をかける。

 しかし、いくら何でも気が早すぎる。


「副団長、これから水面のこちらに近づけるまで時間がかかりますから、まだ構えなくとも大丈夫です」

「そ、そうですか……というかヴァルナくん、心なしか悠長じゃありませんか?」

「巨大魚を竿で釣るのは必然的に時間がかかります。方法がこれしかない以上は近道もないですから、リラックスして行きましょう」

「ヴァルナがそうなら、私もそうする」


 マモリも立っているのが疲れたのか、隣に移動して水面を眺める。傍から見たら釣り人カップルみたいだと思ったが、口にしたらマモリが怒りそうなので気付かないフリしとこう。

 釣りの当事者たちがのんびりし始めた影響で、せっかく気合を入れて構えた騎士たちも戸惑いながら臨戦態勢を解除し、警戒態勢レベルに降りる。


 作物は育てるという過程があって初めて収穫という結果に辿り着くように、釣りも魚と格闘する過程なくして仕留めることは出来ない。

 この辺の事を議会レベルのお偉いさんはイマイチ理解してないから増やせとか減らせとか言葉だけ飛ばしてくるのだが、今回の場合は様々な制限の足枷が重くて時間に過敏になってしまっているのだろう。

 時間は逼迫し、現場は緊迫している。

 なのに出来る行動はのんびり確実に釣りを進めることだけだ。


「流石に引き強いな。糸が凄い勢いで引かれていく。リールから手を離した瞬間に負けそうだ」

「でも相手は水棲生物。一度針が刺さったなら逃げることは出来ない」

「肉に仕込んだ薬が効けばちったぁ楽になるけど、堅実に行きますか」


 手ごたえが右に移れば右に竿を傾け、左に行けば左に手を傾ける。

 奥にいくなら糸を伸ばして、手前に来た瞬間に緩みを縮めてリールを巻く。

 時折強烈な引きに体が持っていかれそうになるが、注意力を切らさなければ幾らでも対応できる。


 暫くすると騎士団連中も状況に順応し、お喋りや手遊びで時間を潰し始める。

 この適応能力は恐らく他の騎士団にはないものだ。

 緩める時に緩め、締める時に締める。

 これを王立外来危険種対策騎士団は仕事の本質だと思っている。


 休める時は休めばいい。

 無駄に集中力をすり減らすより健全だ。

 ローニー副団長もそれは分かっているから、時々お小言を言う程度で全体を咎めはしなかった。

 ただ、ファミリヤは風が出てきたせいで飛び辛そうだ。ファミリヤ飛ばしをローテーションに変えて飛ばす数を減らしながら、キャリバンが警戒するように報告してくる。


「雨雲、近いっすよ。空気も湿ってきてます」

「うん。それまでに相手も消耗してくれればね……っと」


 糸の緩んだ隙を見逃さずにすぐさまリールを回す。

 この瞬間にちょっとした楽しさを覚えてきた。

 なるほど、釣りの楽しさとはこういうものもあるのかもしれない。


「先輩、心なしか釣りを満喫してません?」

「してるかも。今まであんまり興味はなかったけど、大物釣りも悪くないな」


 満喫しているということは、釣りに集中しているということだ。それが証拠にマモリも別段それを咎めたりはせず、彼女に渡された槍の穂先を磨いている。

 彼女の父親も、こんな風に釣りを楽しんでいたのかもしれない。

 今になって少しだけ、彼女の父親に会って話して見たかったと思った。


 更に時間が経過し、空が黒く淀んできた頃――少しずつ水面に変化が見え始めた。


「こんにゃろ、暴れ始めたか!?」


 俺は竿を右に左に振り回されながら悪態をつき、隙を見てリールを回す。

 突然しびれを切らしたように、ヤヤテツェプが激しく抵抗してきた。

 巨体がのたうつことで水も暴れ、イッペタム盆中央部右付近で大きく波紋が広がる。一度身をよじるだけでボート一つが転覆しそうな水量が水面からせり上がる。マモリが激励するように助言してきた。


「焦れてきて振り切るつもり。でもここを耐えればあちらも消耗する」

「とはいえこいつは、激しいぞッ!! ぐぅ……ッ!!」


 ぐん、と手前に引っ張られる。

 俺が裏伝を学んでいなければそのまま水面に放り出されていたのではないかと思うほど強烈な引きは、もはや釣り手の俺に対する明確な殺意さえ感じさせる。


 調査用の大型船改め指示船となり、今は動力ボートに連結された船が共に引かれて揺らぎ、難を逃れようと慌てて後方へ手漕ぎを始める。

 しかしそれは前方の船で釣りをする俺にとっては悪手だ。

 すぐさま気付いたマモリが後方を睨む。


「漕ぐのを止めて! 漕ぐか漕がぬか、どちらへ向けて漕ぐかはこちらが指示を出す!」

「な、なんで君が命令を……?」

「このまま引かれ続けたら電網にぶつかっちまうだろ! 漕がないでどうしろと!?」

「……こちらが指示を出すと……言っているッッ!!」


 マモリの眼が見開き、周囲を震わせる気迫の籠った怒声が響く。

 その剣幕に圧され、彼らのオールを漕ぐ手が一斉に止まる。


 怒髪天を突いたかの如き、物静かそうな彼女からは想像も出来ないドスの効いた声。加えて彼女の殺人的な目つきが悪い睨み。それが否応なしに彼らにマモリの命令を受け入れさせた。普段物静かな人に限っていざというとき怖いな。俺は怖くないけど。

 彼女がなぜそうまでして漕ぐ手を止めさせたのか、その理由を理解している俺も叫ぶ。


「今の状況で無理やり後方に下がれば釣り竿の糸が切れかねません! 多少は前にも出ないとヤヤテツェプを釣りあげられない! 今や船も釣り具の一部なんです、勝手に漕がないで!」


 こちらの意を真っ先に汲んでくれたローニー副団長が間髪入れず指示を飛ばす。


「……ヴァルナくんの指示に従ってください」

「り、了解!!」


 指揮系統が再構築され、俺はまた釣りに戻る。

 マモリは俺とヤヤテツェプの戦いの趨勢を見て、後方に漕ぐように、前方に向かうように、全力で漕ぐようにと矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 ライもその指示にぴったり合わせて魔導機関の出力を調整する。

 その手際の良さにはマモリも目を見張っていた。

 彼女の場合は魔導機関そのものに対する物珍しさもあるだろうが、今日初めて触った機関を手足のように操れるライの技量には気付いたようだ。


「……そんなに細かく動かせるの?」

「昔取った杵柄ってヤツですよ、お嬢さん」

「お、お嬢さんって、なん……」

「ライ、口説くなら後にしろ」

「口説きませんよ。ヴァルナさんの隣にいる人は口説かないと決めてます」


 おい、それどういう意味だ。

 何故無駄にキメ顔なんだ。

 マモリは意味が分からないとばかりに変なものを見る目でライを見ているが、実際変なものなので訂正しないでおく。特に頭にハチマキ巻くとヒャッハー兄弟に負けず劣らず変だし。


「というかライ、実際問題お前の方は彼女とかいないの?」

「え、ヴァルナさんが恋愛方面そっちの話を振るの珍しいですね……」


 ライはルックスについては俺より少し上だし、収入も俺より上である。そして騎士団の任務に同行しているとはいえ騎士よりは休みも取りやすく、自由がある。彼女がいても全くおかしくはない。

 しかし、意外にもライははっきりと否定する。


「彼女はいないです。可愛い後輩とかはいますけど、恋愛対象じゃないですし」

「ふーん。理想のタイプとかいるのか?」

「そうですね……ある日風を感じたくなって何も言わずにバイクで荒野に駆けだして一か月後にフラッと家に戻ってきても、変わらぬ笑顔で迎えてくれるような……」

「昔の船乗りの好みかよ。そして割と最低な亭主関白になりそうだな」

「うぐっ、それを言われると趣味人生の人間としては辛い……」

「でも列国の女はそういうのが理想らしい。母上から聞いた」

「そういうもんか……男女格差大きそうだな、列国」

「列国と王国では男女観が違う。それを頭ごなしに否定するのは王国民の悪いところ」


 やんわり怒られてしまった。

 価値観は国によって千差万別ということだろう。


 雑談しながらも竿から一切気を離さず釣りを続ける。

 先ほどのどうでもいい会話をしながら、しかし俺は少しずつヤヤテツェプの抵抗が弱まってきたのを感じる。

 ポイントなのは、『抵抗が弱まっている』ことと『ヤヤテツェプ自身が弱まっている』ことは、必ずしも同じではないという点だ。

 一度休むつもりか、それとも――。


 釣りを始めて思ったのだが、釣りとは人と魚のコミュニケーションだ。

 竿と糸を伝って釣りあげと拒絶の意識を戦わせる中で、なんとなく魚の次の行動や思考が読める気のする瞬間がある。


 その独特の感覚が今、警鐘を鳴らす。

 次によくないことが、予想のつかない事態が起きると第六感も騒ぐ。

 ついつい魚を基準に考えてしまっているが、相手は暴食の怪物である。もしも魔物化して魚以上の知性を得ていたのならば、釣りの定石を無視した作戦もあり得るのではないだろうか。


「魚の動きが不審です! 念のため警戒をッ!!」


 気を抜いていた騎士たちが一斉に持ち場に戻り、構える。

 念のためとはつけたが、結果的にその頼みは正解だった。

 急速に糸が緩んでいく。それはつまり、急速接近を意味している。

 上空からのファミリヤの声を受け取ったキャリバンがはっとした。


「魚影確認ッ!! 魔導式電網に真っすぐ突っ込んできますッ!! 距離三十、二十五……!!」

「何だとッ!? クソっ、電気漁モード用意!!」

「距離十! 有効射程圏内入りました!!」

「飛んで火にいるなんとやらだ! 痺れな、魚野郎ぉぉぉーーーーッ!!」 


 計四基の魔導式電網のレバーが一斉に引かれ、魔導機関が唸りを上げて水面を照らす痛々しい電流が紫電を奔らせる。

 本来の電気漁モードでは必要なのは一本なのを、巨体用に四本用意してある。待機組からすれば相手から突っ込んできてくれるなら早期決着を図れる絶好の機会だ。


 ちなみにこのまま釣り竿を持っていると電気が通電するのではないかとか、電気により熱が発生して糸が切れるのではないかとか懸念もあったのだが、ノノカ・アマナ両教授のお墨付きで大丈夫らしい。


 ドバァァァァッ!! と、水面を押しのけて巨大な魚影の頭が顔を覗かせる。舌なめずりした先輩方が電気漁モードを起動させ――そして、異常に気付く。


 一度浮上したヤヤテツェプの頭が急に沈み、代わりに水上四メートルに及ぼうかという巨大な尾が振り上げられていた。危険察知能力にだけは人並み以上に優れたその場の騎士全員の顔面が蒼白になる。


 全員の脳裏をよぎったのは、仕事柄無駄に詰め込んだ生物知識。

 水棲の大型魔物は、尾を叩きつけて水上の人間や船を攻撃する事がある――という話だった。


「た……退避ぃぃぃぃぃーーーーーーッ!!!」


 それは本来指揮権のない誰かの声だったが、その声が響いた時には既に尾の先にいた全員が脱兎のごとく駆けだしていた。直後、膨大な質量が一直線に振り下ろされ、イッペタム盆入り口に見上げる程に巨大な水柱と轟音が響き渡った。


 視界が高らかと上った泥水に覆われ、前方が見えない。

 逃げ足は超一流の先輩方だ。上手く逃げていてくれると信じてはいるが、電気漁モードの電気の巻き添えになっている可能性がある。雨のように泥水が周囲に降り注ぐ中、船の甲板で顔を守りながらローニー副団長が叫ぶ。


「グッ……損害報告ッ!!」

「ゲッホゲッホ……電網要員点呼!!」


 一、二、三、四! と全員分の威勢のいい声が無事を知らせた。

 槍隊も点呼を行うが全員分の返事がある。

 ただし一部は電気の方から逃げ切れなかったか、舌が回らず声も震えているようだ。水飛沫が収まる中で怪我人に肩を貸す騎士たちの姿が見えた。


「ヴァルナ君、助かりました! まさかああやって攻撃してくるとは……」

「入り口の足場が今ので全部おじゃんだッ! 怪我人運びは迂回路を使え!」

「おい、魔導式電網が二つねぇぞ!! 沈められたか!?」


 魔導式電網は足場に固定してあったが、先ほどの叩き下ろしで発生した水の圧力によって足場そのものが無残に破壊されている。あの一撃を人間が受ければ文句なしの一撃死だろう。雪山で出会った巨大白髪オークさえも上回る圧倒的な質量攻撃に全員がつばを飲み込む中、水難から逃れたガーモン班長が叫ぶ。


「それよりヤヤテツェプです!! 有効射程範囲に入った筈でしょうッ!!」


 全員が水面を見ると、そこには電流によって無力化された魚たちが力なくぷかぷかと浮いていた。


 ただしその中に――あの巨大魚の姿はない。

 それが示す答えは、一つしかない。


「第二作戦……失敗! 第二作戦失敗! 作戦を第三作戦に切り替えますッ!!」


 一瞬の言葉の淀みは、きっと現実を受け入れたくないというローニー副団長の弱さ。しかしその弱さを御する事が出来る彼は、苦渋に満ちた顔で魔導式電網による感電作戦の失敗を自ら認めた。ここからは今度こそ予算度外視、騎士団の財政を傾ける事さえ厭わない最後の作戦が始まる。


 ライを見る。彼はこの状況にむしろ高揚しているかのようににやりと笑った。

 後方のオルレアとパラベラムを見る。顔面蒼白だが、一瞬も見逃すまいと必死に船にしがみ付いている。


 最後に、マモリを見る。視線は力強く、しかし手は微かに震えていた。

 心は覚悟を決めていても、体が上手く動かない時はある。

 俺は冗談めかして彼女に笑いかけた。


「武者震いか、勇ましいな」

「ちが……ううん、そう。これは武者震い。父が天から力と勇気を貸してくれてるの」

「俺の勇気も貸すよ。大丈夫……これまで君が重ねてきたことの全ては、きっと無駄じゃない。今日という日に辿り着く為にあったんだ。だから、マモリの覚悟も俺に少し分けてくれないか?」

「……ぁりがと」


 一瞬虚を突かれたような顔をしたマモリは、小さく、ほんの小さく、安心したように微笑んだ。ここ数日で見た妙に苛烈な所がある彼女からは想像もできない、たおやかな笑みだった。この笑顔を絵に描けたら楽しいだろうな、と思い、今度彼女に絵を教えて貰えないか頼んでみようと思った。

 汗で冷たくなった彼女の指先が、再び俺の肩に触れる。

 その指先に震えはもうなかった。


 彼女は今日の今日まで、雌伏の時を堪えた。

 待ちながら、この巨大魚をどう釣るか一人で考え続けた。

 そして年月を重ね、奇しくも父と同じく一見無謀に思える釣りという結論に達した。

 それはきっと、正しい選択だったのだ。


 騎士団の弄した最大の策は、電気の効果がなかったという最悪の展開で打ち破られた。彼女が釣りの道具まで用意して備えていなければ、ここで撤退に追い込まれるしかなかったのだ。

 マモリの執念、苦悩、勇気の全てが、この決戦への道を拓いた。

 ならばその道を勝利まで繋いでやるのが、きっとここに来た俺の役割だ。


 ヤヤテツェプと呼ばれた怪魚よ、お前を倒すのは剣を振り翳した勇者ではない。

 お前を追い詰めるのは、父を喪った一人の小さな女の子の不撓不屈の覚悟なのだ。

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