第175話 冗談ではありません
イッペタム盆。それはこのシャルメシア湿地にて最も草の生い茂った、湿地中心から少し北の方角に広がるエリアの中心地である。遭難者や死者の多くがここで発見され、或いは荷物だけが漂っている魔のエリアは、未だに前人未到の地と言って過言ではないという。
現地人でさえ近寄らない魔の水域。
しかし、調べないことにはこの湿地にオークが生息しているかどうか判別できない。そういう訳で騎士団は前々からここを調べる為にずっと調査船を開発していたらしい。
「よっす! 今日の船頭は俺ことオルレアが務めまーす! ……他の連中はあの辺近寄りたがらねぇし」
「よろしくお願いします。特務執行官ヴァルナおよび部下三名、それと専門家のノノカさんです」
「ノノカ・ノイシュタッテ教授です! よろしくぅ!」
昨日使用した手漕ぎボートの四倍はあろうかという大きな船を前に、俺たちは今日の調査で行うことを確認し合っていた。まさかいきなり俺が最前線に送られるとは、とも思ったが、そういえば任務中はだいたい一番危ないところに送られるのでいつものことだと思い直した。
ちなみに残りの部下三名というのは便宜上一時的に俺の指揮下に入ったリベリヤ・トロイヤ・オスマン三兄弟である。諸事情あってボートの乗り手が削られた結果だ。とにかく水場に強い三人がモリを抱えている姿は心強いが、この三人と一緒では到着時には精神疲労で参ってしまうのではという疑念もある人選だ。ちなみに俺はノノカさんの補助係、兼多少の危機なら自力で何とかするやろ係である。
信頼されすぎて逆にぞんざいってどういうことだよ。
「これまでの事から鑑みるに、あの盆の中に水棲魔物が潜んでいる可能性があるということで、今回は盆に辿り着くまでに支障がなく、かつ安定性を重視したギリギリの大きさの船を用意しました。ちなみに名前はシャルル号! じじいがどうしてもって言うんで勇者シャルメシアの愛称からとりました」
「勇ましい名でイイじゃないですか! 外付けのアウトリガーまであるみたいですね?」
「多分これまでの船は網や釣り竿ごと水中に引き摺り込まれたんじゃないかってことなんで、とにかく浮力と安定性にはギリギリまで拘っています」
「時に、ボートの後ろの方に見慣れぬお嬢さんがいますが……?」
「ああ、ありゃ『ネイチャーデイ』から来た俺のお手伝いさんですわ。マモリって言います」
「……ども。よろしゃす」
どうやらよろしくと言いたいらしいマモリさんは、かなりローテンション気味の女性のようだ。昨日のコメットさんとは正反対の、言葉を選ばず言えば暗い印象を受ける。前髪も顔の前にかかり気味だが手際はいいのか船の上でてきぱき作業をしている。
しかし、何故だろう、彼女からはどこか「場違い」な印象を受けた。
ともかく、彼女を乗員に加えても船の大きさから考えて、現地人二人の操舵では限界がある場面も想定しておこう。非常時には俺たち騎士も漕ぐ必要があるかもしれない。
今回、俺たちはこの船から釣りをする。
食用の魚を釣る訳ではなく、本当に水棲魔物或いはそれに匹敵する大型の魚がいるかどうかの確認だ。釣り上げる必要はないので船がまずくなったら釣り糸をぶった切って逃げる手筈になっているが、恐らく獲物が見えた時点で三兄弟のモリが致命の一撃を叩き込むだろう。
可能ならば生け捕りだが、場合によっては一瞬しか姿を見られないということでノノカさんに直接見てもらうことになった。非常時の最終手段ということでみゅんみゅんも樽に入れて連れてきている。最近パワーアップした彼女のパワーならばノノカさんを運びながら逃げ切れる筈だ。
「もしもの時は俺の代わりにお前がノノカさんを守るんだぞ」
「みゅーん! まもぅ、まもぅー!」
まかしとけ! と言わんばかりにグっと拳を握るみゅんみゅん。イッペタム盆辺りは水が濁っているそうなのであまり快適とはいえない。できれば彼女の出番が来ないことを祈るばかりだ。そもそもノノカさんが水に落ちる状況だと船ひっくり返ってる可能性高いしね。
これで安全確保が難しいとなると、いよいよ草のエリアをこつこつ開拓していくという重労働をしなければいけない。今後の湿地調査の分かれ目になる重要極まりない調査だ。
「……とういわけで、お三方には申し訳ないけどあんまり私語はしない方向性でお願いします」
「らじゃーで~す」
「今日はトロイヤ兄さんを立てて口数少なめにいきま~す」
「お兄ちゃん責任重大だよ~」
こういう時つくづく思うけど、仲いいなぁこの兄弟は。
俺も兄弟欲しかった、といまさら言う気はないが、いたらどんなのだろうと想像はしてしまう。多分探せばいとこくらいはいるけど、会った事ないなぁ。
さて、ここからは半ば昨日と同じ光景。湿地をボートで進んでいく。
オルレア代表もちょくちょく湿地についての豆知識を語ってくれたが、どこか緊張感がある。やはり彼にとってもイッペタム盆の調査は心休まらないものがあるのだろう。共に乗っているマモリさんは、緊張してるのか元々こういった人なのか判別がつかない。今日は命令とはいえ三兄弟も会話抑え目なので、船上の空気はかなり硬かった。せめて身のある話をした方がいいと思った俺はノノカさんに話を振る。
「ノノカさん、専門家としてはイッペタム盆に生息しているかもしれない生物について予想とか出来てますか?」
「もちろん現場を見ないことには何とも言えないですが……いるとすれば、魔物にせよ普通の生物にせよ、ほぼ間違いなく『頂点捕食者』だとノノカは予想してます」
「えっと、センセ。なんすかそれ?」
聞き慣れない言葉に首を傾げるオルレアに、俺が代理で説明する。
「頂点捕食者ってのは簡単に言えば、その地域にいる生き物の中で一番強い奴って所かな。熊とかワニみたいに、狂暴な生物や体の大きな生物がだいたいそれに当たる」
「一般的には生態系の頂点である場合が多いです。環境によって魚だったり鳥だったり、場所によっては軍隊アリなんかも頂点捕食者に数えられるので、必ずしも生態系の頂点とイコールではないのですけどね」
アリンコが頂点捕食者。
軍隊アリのことはよく知らないが、その情報は初耳である。
ちっぽけな生物の代表格扱いのアリのくせに頂点とはこれ如何に。
「軍隊アリはその辺にいるアリとは数も大きさもぜんぜん違いますからねぇ。動物相手でも数を頼りに全身を這いまわって毒を注入したり肉を少しずつ食い千切ったり、とてもじゃないけど一度襲われたら助かりません」
「怖っ!? 魔物より性質悪いじゃないですか!!」
「昔ちょっとした実験で軍隊アリの巣の近くに捕獲したオークを放り出したんですが、翌日に見てみたら全身のお肉が食べ尽くされて骨になってましたよー? 案外オークが熱帯気候の地域に住んでいないのは、軍隊アリに対抗できないからというのも理由の一つかもしれませんね?」
世の中魔物ばかりが恐ろしいと思われがちだが、魔物以外の生物も強力な野生の力を秘めているようだ。
「話を戻しまして……自然界では時折、特定の条件が揃うことで異常発達した個体が発生することがあります。例えばオークは大陸では襲われる側の存在が多くいますが、王国にはそういった個体が少ないために爆発的に増殖しました。天敵のいない環境は特に、特定の生物を異常発達させることがあります。釣り人がよく言う『ヌシ』というのも、調べてみるとそういった敵のいない条件だから大型化していたというケースが多いです」
「イスバーグの超大型オークに穴持たずの熊……」
「近いですね。言ってしまえばそういった存在は生態系の破壊者で、頂点捕食者は本来その生態系のバランスを保つ役割を持っています。例外が外来種ですが、先に在来種もしくは環境に影響のない外来種であった場合の話をしますね? 聞き逃しちゃメっ、だぞ!」
ほえー、とオルレアさんも三兄弟もすっかり聞き入っている。こちらに背を向けて舵を取っているマモリさんも耳だけはしっかりこちらに向けていた。この知識量、頼もしい限りだ。
「恐らくですが、イッペタム盆には超大型の魚、或いはそれに近い水生生物がいるのでしょう。その生物は恐らく繁殖力が低いから個体数が一定に保たれているか、或いは何らかの理由でオス、或いはメスが根絶してしまい繁殖したくても出来ないのかもしれません。そうでなければ盆の外でもそれらしい大型種が確認される筈ですしね」
「イッペタム盆のみで繁殖している可能性は?」
「なくはないですね。その場合、イッペタム盆の外は生息環境に適さないから自然と数が維持されているということでしょう。生態系に馴染んでいるということです」
「外来種が、馴染むんですか?」
「たまにありますよ? 繁殖が出来なければ所詮は個体数の限られた存在ですし、寿命や数の関係もあります。彼らの捕食量に合わせて他の生物の数のバランスが取れ、最終的に均衡すれば生態系は保たれます」
「そうでない場合ってのが、オークみたいな外来種って事ですかい?」
「正確には魔物とは限りませんケド。生物は特殊な環境下では、通常では考えられないほど長生きする個体が出現することがあります。そうなりやすいのが従来の生態系から外れている外来種、そして外来の魔物です。頂点捕食者であればなおさらのこと、次々に獲物を食べて体も肥大化してしまうことが多いです」
話を総合するに、もしイッペタム盆に伝説にあるような怪魚がいるとしたら、とりあえずイッペタム盆に入りさえしなければ生態系に影響はないという事だろう。逆にその魚が攻撃的である場合、水上をボートで通り過ぎるような調査は今後禁止した方がいいかもしれない。
ヌシを捕えるのも無理ではないが、不要なリスクを背負うことになるぐらいならやめた方がいい。
状況の整理も一通り終わり、やがて船は次第に濁った水の流れる場所を音も少なく滑ってゆく。ゆらぐ水面の波紋が不気味に広がり、やがて完全に手つかずの場所へと誘われてゆく。現地人でない俺ですら、巨大な怪物の口に自ら近づいているような焦燥を微かに抱いた。
「……まもなく、イッペタム盆だ」
そこは、大きな、とても大きな盆のような丸い場所だった。
聞いていた以上に大きく、村の生け簀全部の面積をゆうに上回っている。見回すと盆と呼ばれる空間の中心部には、ちょっとした島くらいの茂みがあった。
「盆っていうからお盆みたいに真っ平かと思ったけど、なんかあるな」
「盆の上には食べ物とか置くもんでしょ? 伝承ではあれが怪魚ヤヤテツェプの目玉の名残とされてるんです」
「成程ね……先輩方、糸と餌の用意は?」
「生け簀から持ってきた魚~」
「弱ってて死にそうだから貰ったのを~」
「生餌にして放ちま~す」
既に準備万端なのか、桶の中から弱々しく跳ねる魚を取り出して見せる三兄弟。念のために干した魚の規格外品や養殖場で死んだ魚の切り身なども用意しているようだ。どれに一番食いつくのかという疑問もあるが、まずは生餌からだろう。
「盆の中に入ったよ~……ごめん、これ以上進むのは流石の俺も怖いですわ」
「じゃ、いつでも尻尾巻いて逃げられるよう用意だけお願いします。それじゃトロイヤ先輩!」
「ぼくリベリヤ~」
「もとい、リベリヤ先輩! まずは生餌をお願いします!」
「そーれ、ぽーいアンドりり~す!!」
リリースと言いながらガッツリ釣り針で貫かれている哀れな魚が、どぼちゃん! と水面に沈んだ。浮力の高い木を浮き替わりに様子を見る。釣りはあまりやったことがないが、この場に漂う緊張感を思うと高揚感は湧いてこない。
既に弱っていたとはいえ水の中に入った魚は泳いでいるようで、浮きが少しずつイッペタム盆の中心部近くに向かっている。
「……」
「……」
「……」
誰一人声を発することなく、気が遠くなるような、しかし短い筈の時間を過ごす。
釣りに焦りは禁物だというのは、俺でも知っている。放った魚とつながっている糸を持つトロイヤ先輩でさえ、普段はつぶらすぎて目つきが全く分からない目をいつも以上に見開いている。率直に言って目がギョロっとしているように見えてちょっと怖い。
このまま永遠に時間が過ぎてしまうのではないか――そう思えるほどの時間が経過した。
そして、事態は急激に動き出す。
ざぶん、と、浮きが突然沈んだのだ。
「来た来た~、なんか来た~~~」
「最初は無理に引かずに相手に引っ張らせるんだ! 頼むぜオスマンさん!」
「だからリベリヤだってば~~~」
緊張のあまり名前を間違えるオルレアだが、幸いにして元漁師らしいリベリヤ先輩の手に淀みはない。カラカラカラカラ、と勢いよく糸を束ねていた滑車が回って糸を吐き出していく。やがてリベリヤ先輩が糸を引き始めると、微かに船が糸に引かれて動いた。
「これ、大きい~~。最低でも二メートル以上、サメ並みの引きだよ~~」
「オルレアさん、確かこの湿原で今のところ確認されてる最大の魚って!?」
「あー、えーっと、確か百五十七センチのサーモン! だが時期が合わない! あれは九月頃だ!」
「でも何だか手ごたえが変~~。生き物だけど、魚っぽくない~~~」
糸を引くリベリヤ先輩が困惑の表情を浮かべる海と湿地で魚の手ごたえが違うのは当たり前だと思うのだが、こうも露骨に変だと断言するということは、魚ではなく魔物の類の可能性も出てきた。俺は剣を引き抜き、残りの兄弟はモリを構え、臨戦態勢に入る。
それほど間を置かず、釣り糸にかかった『何か』は突如として急上昇を始め、先輩方も焦って糸を引く。どうやらこのまま水面まで上がってくるつもりらしい。さぁ、巨大魚とやらの正体を拝ませてもらおう。
大きな魚影が濁った水の中から浮上し、それはついに白日の下にその身を晒した。
逆光を背に浮かび上がる、その巨体。
疣のある緑色の肌。
醜悪な顔面。
いや……いや。実をいうと心のどこかでそうではないかという予感はあった。
しかしまぁ、流石にこの期に及んでそれはなかろうと楽天的に考え過ぎたのかもしれない。
条件は揃っていた。
人を襲う種だと知っていた。
二メートルを超える巨体で、水中で過ごせる能力。
更に言えば、元よりここにいる可能性が示唆されていた。
であるなら、必然――それは起こりうる現実に他ならない。
「ブギョボボボゴォォォォォォォォッ!!」
それはもう、人魚と見紛う美しいフォームで水面を跳ねた。その無駄に洗練されたポーズが余計に腹立たしくて、そしてまたこんなしょうもないオチを用意されたことに対して万感の思いを込めて。迸る怒りと諦観が声となって響き渡る。
「またオークかよぉぉぉぉぉーーーーーーッ!?」
今日も今日とて邂逅す、憎くて緑のあんちきしょう。
世界は、ああ。
いつだって冗句のような奇跡の連続で成り立っている。
そう思って気を抜いてしまいかけた精神を引き戻せたのは、行幸だったのだろう。
跳ねたオークはしっかりと釣り針に口を引っ張られていた以上、魚を食べたのはオークで間違いない。息継ぎの為に水面に現れたのもエラ呼吸でないオークのことだから理解できる。分からないのは、普通に息継ぎするだけならば跳ねる必要はないということであり、直後に船の後方から「まだ何か来るッ!!」と叫んだマモリさんの言葉がなければ俺も反応が遅れていただろう。
直後、オークが跳ねた時とは比べ物にならない巨大な魚影が膨大な質量の水を押しのけ、跳ねるオークの下半身に真下から迫る。そして、口らしき巨大なそれを大きく広げ、オークの下半身に喰らい付いた。オークが哀れにも悲鳴を上げてその口を手で殴るが、余程堅牢なのかびくともしていない。
「なッ……んだよ、こいつは……!!」
黒いのか、もっと違う色なのか、一瞬だったので自信がない。
ただ断言できるのは、俺が今までの人生で見たどんな水棲生物よりも、それが巨大であったこと。
恐怖に染まったオルレアが絞り出すような声を漏らす。
「人喰いの怪魚、ヤヤテツェプ……」
推定サイズは五メートルか、それ以上。
まさに怪魚と形容するに相応しい威容。
それだけの質量で、しかもオークを丸呑みしかねない程の桁外れの悪食。
そして、その怪魚が口に咥えたオークの糸は、船に繋がっている。
(これは……マズイのでは?)
三兄弟の表情を見ると、無理だ、とはっきり感じているのが確認できた。
唯一ノノカさんだけはひとかけらでも多くの情報を得ようと身を乗り出していたが、俺が手で制する。事ここに至ってアレを生け捕りするのは無理だ。
ぐん、と体が引っ張られる。
否、船が引き摺られているのだ。
このままでは船が転覆すると確信した俺は、剣で迷いなく釣り糸を断ち切った。ビィンッ! と糸が弾け飛んでリベリヤ先輩が尻餅をつくのに目もくれずに叫ぶ。
「撤退する!! 全員オールを漕いで全速力でイッペタム盆を離れるぞッ!!」
「あ、アイサー!」
俺たちの仕事は断じて、ここで勇敢に戦死することではない。
命を無用な危険に晒さず、生きて情報を持ち帰ることだ。
俺の指示に反論する者は一人とておらず、そしてオークの悲鳴と激しく水を打つ荒々しい音を背に、俺たちは一目散に撤退を慣行した。
この二重の意味でとんでもない調査結果は、言わずもがな騎士団と村に激震となって伝わることとなる。
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