第158話 もしかするかもしれません
ネメシア・レイズ・ヴェン・クリスタリアの心は、沈み切っていた。
大切な話だなどと言われ、真剣な顔で手を引かれ、訳も分からないままヴァルナに引かれて砦を歩く。部屋から出たくもない気分なのに、抵抗するほどの力が湧いてこない。この無礼者が時々強引なことをするのは士官学校時代から知っていたが、普段は強気に出られても自分が一番苦しいときは簡単に押し負ける自分が情けなかった。
相竜となる筈だったミラマールの不調とその原因を考えるほどに、自分が悪いのではないかという思いが心の内で強まっていく。ミラマールの調教はベテランの先輩が行い、体調は竜小屋責任者の騎士バネウスが並々ならぬ情熱を注いで行っている以上、竜に過失や責任がある事自体が考えにくいことぐらい、ネメシアはとうに悟っていた。
当の昔に仲間に後ろ指を指されている。
金持ちの女が竜に嫌われたと。
名門家の癖に同期に出遅れた女と。
役に立たないのなら餌やり係にでもなればいい、と
原因を見つけて改善すれば見返してやれると躍起になって、本を読み漁った。ヴァルナにも読ませたあの本は、もうすでに全冊三回以上は読み返している。それでもネメシアには原因がとんと分からなかった。専門家が来ると聞いて僅かな望みを抱いたが、まだ原因が不明なままだ。
どんどん置いていかれる。セドナは聖盾騎士団で経験を積み、同級生は順調に人生を進め、ヴァルナに至っては責任者と呼べるほどの出世までこなしている。自分とミラマールも同じくらい活躍して、ヴァルナに見せつけてやれるようになるつもりで意気込んでいたのに、結果が現状だ。苦笑いもできない。
挙句、時間がかかりすぎて咎が勝手にミラマールへ向かうという噂話を聞いてしまった。騎士バネウスとノノカ教授の話の節にも微かにそれを匂わせる物言いがあったことにも気づいていた。
クリスタリア家の人間は、間違ってはいけない。
間違いをなくそうと考えれば考えるほど、ネメシアはミラマールの未来を塞ぐことが間違いに思えてくる。それを防ぐために原因を探っているのに、一向に光明は見えない。久しぶりに会ったヴァルナにいろいろとぶつけたことで少しは気が晴れたと思ったのに、気が付けばこの様だった。
あるいは、それがいけなかったのかもしれない。周囲に気取られまいと気丈に振舞っていたのに、ヴァルナという緩みが本音を口に出させてしまった。ネメシアは自分が情けなくなった。
砦を出て、訓練終わりの騎士たちがこちらを見る。同級生も年上もこちらを見て、嘲るように笑っていた。
「おーおーあれが噂の……手まで繋いじゃってラブラブですってか?」
「ワイバーンに嫌われて男に走るとは、クリスタリア家のご息女殿も乙女だねぇ。ははははっ!」
「いっそ鞍替えしてもいいと思いません? ワイバーンに乗れないのに聖天騎士団にいたって惨めなだけですもの」
「こらこら、そんな酷いこと本人の前で言うなよ。だいぶ参ってるみたいだぞ? しっかり慰めて貰えよ~!」
特別扱いされているネメシアを疎んでいる者もいたが、男を連れていたという話題性が本音を軽く口にさせている。ヴァルナに引かれるがままの弱くて情けない女となったネメシアには言葉を返す気力もなく、ただ自分がどうしようもなく惨めに思えて俯き――。
「苦しんでる同僚にかける言葉がそれか。聖天騎士団の若年騎手には、どうやら騎士が一人もいないらしいな」
その言葉を誰が発したのか、しばらく誰も分からなかった。
やがて周囲の視線がそれを言ったと思しき人物に集中し、ネメシアも思わず顔を上げて言葉の主を見た。
ヴァルナだった。
その目に侮蔑の色はなく、皮肉の色もない。
ただ迷いのない真っすぐな瞳だけがあった。
「おいお前……ッ! 止まれよ!」
騎手の一人である若い男――一年先輩のサイラードが肩を怒らせヴァルナの前に躍り出る。ヴァルナは全く気にせずにネメシアの手を引いて竜小屋に向かっていたが、その態度が余計に癪に障ったのかヴァルナの肩を掴む。
しかしヴァルナは無視して歩き、逆にサイラードが引っ張られる。彼は転びそうになりながらも肩を掴んだままヴァルナを追っていた。彼は気付いていないようだが、ヴァルナの歩法は普通に見えて実は武術に裏打ちされた異常なまでの安定性を保っているので、多少肩を掴んだ程度では重心どころか歩幅も崩れない。
だが、そんな実力差にも気付けないサイラードの顔には強い苛立ちが含まれている。
「おい、誰が騎士じゃないだって? その一人の騎士ってのは、もしかして仲良しこよしで手を繋いでるクリスタリア嬢のことか? 彼女の前で恰好をつけたいのは結構だが、言葉を選んだらどうだ?」
「俺の知ってる騎士は、悩み苦しんでいる人間を嘲笑ったりはしないんだがな。お前の言う騎士ってのはそんなに低俗なものなのか?」
歩きながら、ヴァルナがサイラードを見た。
その問いかけは、ただの確認だった。
自分にとってはこうだが、お前にとってはどうなんだ、と。
ただそれを問いかけている、怒りも悲しみもない確認行動でしかなかった。
ただそれだけの事なのに、その目を直視したサイラードが反射的に肩に置いた手を放して飛びのき、取り巻きが言葉一つ出ないほどに口をつぐみ、周囲の空間が耳が痛いほどの静寂に包まれる――覇気とも圧力とも知れない空気が場に伝播した。
ヴァルナは何事もなかったかのようにネメシアの手を引き、歩みを止めない。
引かれて歩きながら、そういえばいつもヴァルナはそうだった、と思う。
愚直なまでに自分の騎士道を信じ、それを貫く。何かと何かを天秤にかけるとしても、それはすべて自らの騎士道を前提としてでしか成り立たせない。だから悩んでいるように見えて悩んでおらず、迷っているように見えて迷っていない。馬鹿には馬鹿と言い、最低な人には最低だと言い、騎士失格だと思ったら騎士失格だと言う。
結果として、その言動はすべて彼の騎士道を貫く道に真っすぐに続いていく。
多分、いつもヴァルナを悪く言ってしまうのは、その背中があまりにも迷いなく、そして「間違いがない」ように見えたことに対する嫉妬なのだ。
「……ねぇ」
「……なんだ?」
今日、幾度となくかけた一言を、また繰り返す。
「騎士は一人もいないってことは、私も騎士じゃないの?」
「今のお前は駄目だな。助けられる側だ。知らないのか? 騎士ってのは民を安心させるぐらい強くて優しくなくちゃいけない。お前に足りないのは――」
「……平民に優しくしろ、とでも?」
「違う。心の強さだ。後はまぁ、不器用すぎる他人への気遣い方も改めた方がいい気もするが。どうせ同僚たちにも強気の態度で接してたんだろ?」
「弱音なんか見せられないわ。私はクリスタリア家の人間よ」
「クリスタリア家は他の議員や民を無視して法案通せるほど偉いのか?」
「……揚げ足取りよ、そんなの」
法案を通すには議員の承認なくしてあり得ない。或いは反対派を黙らせるための協力や根回しは、正しくあるために必要なことだ。政治になんて興味がないくせに、変な所で的確な言葉を飛ばしてくるのが、なぜかすこし腹立たしい。
今も昔も出鱈目で、訳の分からない男。
なのに、そんな男の言葉が心の奥に温かく響くのは、何故なのだろう。
厳格な父、カルストの揺るぎなき大きな背中と彼の背中が被るのは、どうして。
空が
「今更何をするって言うの」
「あ?」
「ミラマールのところに行ってるんでしょ。今更私を連れて行って、何が変わるっていうの?」
「何も変わらねーよ。ただ再確認するだけだ。ほれ、行くぞ」
二人同時に、ミラマールのいるエリアに入る。
昼は訓練で出ていたワイバーンも数頭いて、今は餌を食べて寝るかリラックスしているようだった。気位の高いエカテリーナだけは一瞬目を開いてヴァルナを見たが、自分に用がある訳ではないことに気づき目を閉じた。
しゃり、しゃり、とワイバーンの寝床用の砂を踏みしめる音と、ワイバーンの呼吸音だけが響く。
やがて足はミラマールの前で止まり――こちらに気づいていたミラマールが顔を上げて待っていた。
『ヴォウッ!』
「……ミラマール」
初めて見たときは、あまりにも驚いて尻もちをつくほど恐ろしく感じた面構えが、今は愛おしささえ感じてしまう。
おっかなびっくり近づいて鼻先でつつかれたことがあった。
意外とつぶらな瞳だと思い、女の子だと知って驚いたこともあった。
餌やり、翼の手入れ、マッサージ……それほど時間はかけられなかったが、毎日やった。
一緒に空を飛ぼうとかたい皮膚に頬ずりして、逆に頬ずりされた。
飛行訓練でバランスを崩してからは、体調が悪いのではと上官やワイバーン専属医、騎士バネウスにかけあって色んな原因を探った。大丈夫、きっと飛べると日が暮れるまで気の沈んだミラマールを慰める日もあった。
「今日は大変だったでしょう。知らない人たちに調べられて。でも、みんな私たちの為に親切にしてくれているのよ」
『クルルルル……』
甘えているときの鳴き声だ。ミラマールの鼻先がネメシアのお腹にやんわりと押し付けられる。大きな体をしていてもミラマールはまだ子供っぽさが抜けないから、パートナーの自分がしっかりしなければ、とよく自分に言い聞かせた。
気づけば、それは逆になっていた。
周囲も、自分も、原因はミラマールではないことを言葉に出さずとも悟っていた。いつしかミラマールの為という大義は薄れ、自分が過ちを犯したという事実を認めるのが恐ろしく感じていた。原因が見つからないことへの苛立ちの陰に、自分が間違っていたという事実が出てこないことに対する小さな安堵が潜んでいた。
しかし、もう限界だった。
お前のせいだと態度にも口にも一切出さないヴァルナの姿に、ネメシアの方が耐えられなかった。考えれば考える程自分の考えが、欲求が、麻の如く拗れてゆく。自分がミラマールの足を引っ張っているのではないかという現状に耐えられず、とうとうネメシアは自分から身を引きたいと口にした。
ヴァルナは、それを肯定すればよかったのだ。
きっと話はそれで終わったのだ。
なのに彼は自分をこんなところまで連れてきて、一番会うのが辛いミラマールと向かい合わせる。甘えるミラマールの首筋を撫でながら、それでも、もう無理だと思った。彼女と出会えば考えが変わると彼は思ったのかもしれないが、矢張り違った。湧き出てくるのは、情けないパートナーでごめんなさい、という謝意だけだ。
「本当は、あなたと一緒に空を飛びたかった。でも――」
「はい確認終了ー」
ばっさりと空気を切り裂く緊張感のない声が背後から響いた。
なんというか、怒るを通り越して、真面目に考えている自分が馬鹿らしくなるほどいい加減な声だった。一度ミラマールの首を下げさせ、ありったけの白け顔で振り向く。
「今ので、何の確認ができたわけ?」
「お前のやりたいことの優先順位第一位は、ミラマールと一緒に空を飛びたい、だ」
びしり、とヴァルナの指が突き付けられた。無礼である。
しかしヴァルナはさもこちらが間違っているかのように首を振ってため息をつく。
「責任とって辞めたいってのはそれが叶わなかったときの話であって、本音じゃそんなことしたいとは全く思ってない。当たり前だ。面倒見のいいお前がパートナーになった相手に対して責任放棄なんぞ、それこそクリスタリア家のプライドが許さん。だから理想は、ミラマールと空を飛びたい、だ。それが一番」
「そんな理想論で物事が立ち行くともでも!?」
「理想だけじゃ何もできん。だけどな、理想すら追求しないで世の中の何が変わるって言うんだ? よりよい未来への展望に向かうから人の営みは発展していくのだろう?」
「ああ言えばこう言う……とにかく、ミラマールの不調の原因が発見できない以上、彼女の為にはそうするべきでしょう!?」
「まだ時間があるのに勝手に諦めた気になるなと言ってるんだよ。俺が時間ギリギリまで粘ろうって奮起してる時に、やれ『私のせいだ』、やれ『責任を取る』……やる気の削げることばかり言って自分の気概まで削ぐな。第一目標をきっちり定めろ」
ヴァルナの強い目がネメシアを見つめる。
不安は欠片も介在せず、ただ目の前の問題を放り投げようとするネメシアに対する非難にも似た感情が籠っていた。まるで父が子を叱るような――そんな懐かしさをどこかに感じる声で、彼は諭す。
「俺たちに声をかけておいて一人勝手に降りるな。許された時間を活用して課題をクリアすることだけ考えろ。その子が本当に大事だってんなら、その子が気を許すお前が先に諦めてどうする。もう少し、お前の周りの人間を信じろ。いいな?」
「……」
すぐには、返事が出来なかった。
ただ、気が付くとだらりと下げていた己の手のひらを、ざらりとした温かなものが這っていた。
『クー、クー……』
「ぁ、ミラマール……」
ミラマールが、己の手のひらを舐めていた。
慰めか、名残惜しいのか、或いは――がんばれ、と応援しているかのように。
振り返り、ミラマールの角の付け根を撫でる。
くりっとした愛らしい瞳を心地よさそうに細めたミラマールが、くるるるる、と鳴いた。
「もう少し――もう少し時間を頂戴、ミラマール。今度こそちゃんと、一緒に空を飛びましょう」
決意は、固まった。
「……待たせたわね、ヴァルナ! さあ、今日はこれまでにして明日から仕切り直しよ! ……って、何やってんのあんた?」
「いや、邪魔しちゃ悪いかと思ってエカテリーナとちょっと遊んでた」
『クルルルルルル……クー、クゥ』
もう成獣になって気位の高いエカテリーナがヴァルナの腹や顔に自分の匂いをつけるようにすりすりと頭を擦り付けている。しかもそれだけでは飽き足らぬと、今度はヴァルナの手を大きな舌でべろべろと舐め始めていた。あんなに甘えるエカテリーナは初めてである。
まったく、人を一方的に連れてきておいて、やっと覚悟を決めたと感謝の一言でも言おうと思っていたら、本当に真面目なくせになぜか緊張感の感じられない男だ。
もういい加減に日も暮れる。
待っていられないと思ったネメシアは最後に一度、ミラマールの顔に頬を当ててお休み、と言い、ヴァルナのもとにずかずかと向かう。優雅さのない歩き方だったが、もう気にしなかった。
「もう、ワイバーンに素人が近づいて! 不在中のヴァン筆頭騎士の相竜なんだからそんなにべたべたするんじゃ……」
『クゥ』
「ぅひゃあっ!? え、え!? エカテリーナ!? ちょ、何故私の手をそんなに激しく舐めまわしてるの!?」
『クゥ、クー!』
「……俺の言えたことじゃないが、お前もお前で何やってんだ」
結局、戸惑うネメシアをヴァルナが無理やり連れて行く形で、二人は竜小屋を後にした。
しかし、ネメシアはもう俯きもしなければ弱気も吐かない、いつものネメシアに戻ることが出来た。ヴァルナの言ったままになったというのが非常に癪ではあるが、それでもミラマールの為にあと数日全力を尽くすという覚悟くらいは出来た。
ヴァルナは、そんないつもの調子に戻ったネメシアを見て、何で俺がこいつの世話を焼いてるんだ、と思った。
その日の夜。夢の中にて。
『いやー、ワイバーンって魔物だからと思ってちょっとどうかなーって思ってたけど、ああしてみると意外に可愛いところもあるわねぇ』
『……しまった、部屋替えの時に魔避けの木鈴を置いてきてたか!』
俺としたことが一生レベルの不覚。またしてもこの(自称)女神の奇襲を許すとは。まぁ別に嫌いという訳ではないし目の保養にはなるのだが、何せ女神は自称だし。ちょっと本物っぽさはあるけど。
件の女神は憤慨して両手をぶんぶん振って抗議してくる。
『そ、そんなに邪険にしなくてもいいじゃない!? それに、あれですからね!? その気になればあんなプロテクト簡単に突破できるんですからね!!』
『ほーん。そんじゃ霊感先輩にもっと強力な魔除け用意してもらおっかなー』
『だから何でそんなに邪険なの!? こ、ここ一か月は魔除けがないのに来なかったじゃない! たまにはちょっと地上の子とお話ししたいなーとか、人生ちょびっと覗いちゃおっかなーとかしたっていいじゃないのよう!! そんなに運命の女神の託宣が嫌いなの!?』
『いや、損する訳じゃないけど腹の足しにもならないからどっちでもいいというか、そのどっちでもいいを面倒くさいと同一視してしまうというか』
『何よう、ワイバーンにはあんなにペロペロさせてたくせにっ! でも確かにあんなに甘えられると可愛いわよねー。なんていうか、マタタビの香りに誘われた猫ばりに舐めてたし』
『…………』
『……ん?あれ?わたくしなにか変なこと言いました?』
『……(自称)女神様』
『な、なぁに? そんな真面目な顔をして?』
『いや、ありがとうございます。そのヒント、もしかするかも……お礼と言ってはあれですが、また暇になったら俺を呼んでいいですよ。節度を持ってですけど』
『……??? よく分からないのだけれども、そういう事ならそのうちまた招かせていただきましょう! ……敬虔な教徒だとお話ししてもひたすらに堅苦しいんだもの。貴方とお話するの、楽しみにしてるのよ?』
ほう、と疲労を感じるため息をつく悩まし気な女神。
女神も大変らしい。敬虔ではない教徒は何とはなしにそう思った。
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