第153話 もうお嫁にいけません

『はぁ? 平民の候補生なの? やだ、話しかけて損したわ。明日からは馴れ馴れしく話しかけないでくださいな、不愉快なので』


 あの言葉の衝撃を、あの掌の返しようを、俺は未だかつて忘れられたことがない。


 田舎育ちの俺にとって初めて出会う、貴族の令嬢という生物。

 容姿端麗という言葉がよく似合うアッシュブロンドにスラリとした長い脚。

 当時を思い出せばあの場には他にも美人は多くしたし、セドナとて注目を集めていた。しかし、大衆的なイメージで言う「オーソドックスかつスタンダードな貴族の女性像」という意味では、彼女は最も目を引いた。


 しかも、身分を知るまでは友好的だったのだ。身分を知るまでは。

 それだけに一度持ち上げられてからのスマッシュブローは通常のスマッシュ以上に痛烈だった。


 士官学校時代、最も俺にちょっかいをかけてきたのはオルクスだ。

 一日五回の嫌味は当たり前、調子のいい時は四十回くらい挑発したり罵倒したりする驚異の精神力を見せつけていた。嫌いなものの為にあそこまで労力を費やせるのは、今になって思えば愛ゆえだったのかもしれない。

 しかしオルクスのそれはいわば反撃を警戒してばらまかれたジャブの類。

 真のファイターであるネメシアはジャブなど使わない。

 全て渾身のストレートである。


 例えば寮の廊下で偶然ばったり出くわしたとしよう。

 オルクスならこうだ。


『おや、清涼な空気に交じって何やら獣臭が立ち込めていると思ったら……おっとすまない、君の故郷には入浴の文化はなかったね。失敬失敬、文化人として非礼を許してくれたまえ! ああ、それはそれとして近寄らないで貰えるかな? 感染るのは厭だからね』


 なかなかの嫌味っぷりだが、割といつも同じパターンなので慣れるといなすのは容易い。


 続いて、ネメシアの場合はこうなる。


『此処で生活しているだなんて信じらんない! ここは神聖な学び舎なのよ!? その絨毯を雑菌に塗れた薄汚い靴で踏み荒らすなんて、貴方が私の屋敷の使用人なら即刻首よ!! 吊る方の!!』


 このように、殺意に溢れている。なまじ美しい人物に苛烈な言葉を投げかけられると、慣れていても心に棘が突き刺さるものがある。案外遠回しにネチネチ十回言われるより、一回直接的な害意を向けられる方が俺の精神にはきつかった。


 ただ、最初の頃はまだ救いがあった。彼女は俺と口を聞いてしまったことを本気で後悔するほど平民を見下していたので、時々グサッと通り魔的に心を刺される程度の被害で済んでいた。


 しかし――彼女は当時、セドナを可愛がっていたのである。

 セドナはチヤホヤされ慣れているので特に思うところはないのだろうが、他の特権階級と比べてもネメシアはセドナを可愛がっていた。妹に似てるとかなんとかという噂だが、俺も当時はセドナと何の接点もなかったから、特に気にすることはなかった。


 しかし、一見して平行線を辿るかに思えたこの人間関係は、セドナが俺に懐いたことで完全崩壊してしまったのである。


『あんな家柄も知能も金も何もない平民猿に一体何を吹き込まれたの!?』

『何でさ! ヴァルナくんあんなに一生懸命で嘘つけなくて剣の面倒も見てくれて、すっごい良い人じゃない!!』

『貴方の家柄を見てそうしているだけの道化に決まってるでしょ!! いいから、縁を切りなさい!!』

『~~~っ!! バカ! ネメシアのバカぁっ!! わたしは自分で色んなことを選んで、自分が決めた人と一緒に生きていきたいのっ!! そんなこと言うネメシアは嫌いだっ!!』

『なっ……い、いいでしょう! そこまで貴方が盲目だとは思わなかったわッ! だったら馬鹿な男に騙されて後悔するその日まで、私も貴方と縁を切るわよッ!!』


 ――というやりとりがあったに違いない、とアストラエは雄弁に嘘臭い三文芝居を語る。実際にどんなやり取りが交わされたかは知らないのだが、ともかく俺がきっかけで二人は他人行儀に接するようになってしまったらしい。

 当人たちはその時の話を思い出すのも嫌だとばかりに何も語らない。

 ただ冷たい視線を空中でぶつけ、バチバチと火花を散らすばかりだ。

 やめて、俺のことで争わないで。

 蚊帳の外な上に流れ弾が命中するから余計に辛いんだ。


 ともかく、概ねこのような経緯を辿って俺とネメシアの一方的な対立関係は決定的なものとなってしまった。

 後はもう突然現れるゲリラ豪雨ならぬゲリラ暴言を凌ぐ毎日の始まりである。

 彼女はいつも目が合うや否やそれがバトルの合図だとばかりにヅカヅカ正面から突っ込んで来て罵声を浴びせてくる。


『貧乏人が金をたかろうとこんな場所に来てっ!!』

『俺がいつ誰に金をせびった!?』


『貴方のような教養のない人には理解しがたいでしょーけど、高貴な身分の人間には察するという文化があるのよ!! 少しは学ぼうとか思わないの!?』

『俺のお前に話しかけないという気遣いを汲めやッ!?』


『この世界で上手く世渡りしたいのならば貝の如く口を噤み、ただ諾々と従うことね!!』

『……(貝のように口を噤んで頷いた)』

『……』

『……』

『……喋らない口に何の意味があるのよッ!! ただ黙ってるだけで上手くいくほどこの世界は甘くないのよこのサル頭ッ!!』

『あのさ、用がないなら帰っていい? お前もう俺が何しても認めない気だろ』


 ここにセドナが居合わすと、二人で睨み合いになった後に「ふんっ!」とばかりにぷいっと顔を逸らして素通りだ。この際のネメシアの視線が実にきつく、俺は胃がキリキリするのを感じた。


 そしてちょっと目を離したらいつの間にかネメシアとセドナの喧嘩が勃発している。理由はいつも同じらしいが、喧嘩の理由については二人も皆も頑として語らなかった。このキャットファイトは両者の顔面に引っかき傷が出来るほど激しい。アストラエも茶化す気になれないくらい精神を削られる光景らしく、今ではあいつもネメシアがちょっと苦手である。


 思い出すだけで壮絶な日々だった。

 三日連続で出くわすのでおかしいと思って偵察に出ると俺を罵倒する為にネメシアが曲がり角にスタンバイしていたこと。道を変えると「何で来なかったのよ!!」と後で待ち合わせをすっぽかされた彼女みたいな理由で罵倒されたこと。余りにも話をするのが嫌で窓から飛び出して屋根の上を移動したらあちらも屋根に上ってきたこと。


 まぁ、決して根が悪人だという訳ではないのは知っている。

 セドナとも、卒業前くらいになると多少は歩み寄っていた気もする。

 だがしかし、そんな些細なプラスを塗りつぶす圧倒的なマイナス面、すなわち半ばトラウマと化しつつある彼女への苦手意識は今も一切拭えていない。


 一つだけ注釈しておくのならば、俺は彼女が嫌いなのではなく、苦手なのだ。

 人を嫌いになるには思いの外強いエネルギーが必要になる。

 そして彼女に罵倒されると怒る気力ごと持っていかれる。

 だから、苦手なのだ。




 ◇ ◆




 一応この場における王立外来危険種対策騎士団の代表はヴァルナだ。

 しかし、ヴァルナは既に職務放棄しかけていた。


「もうさ、名前聞くだけで拒絶反応出るのよ。頭の後ろにこう、ぞわーって」

『グルルルルルル』

「しんどい。体じゃなくて心が」

『グルル……クルルルル』

「そうか。分かってくれるか……そうか。お前いい奴だな」

『ヴォウッ』


 壁の端にいるワイバーンに延々と独り言を言っている王国最強騎士。

 その陰鬱な危うさもさることながら、普段は頼もしい筈のその背中に一切の強者オーラが感じられない。ワイバーンもこの若人から何かを悟ったのか、軽く頬ずりするように頭をヴァルナに押し付けている。


「……先輩は当分立ち直れそうにないんで、俺らで先にやりますか」

「ううむ、うちのエースを名前を聞かせただけで戦意喪失させるなんて、一体ネメシアちゃんとは何者なんでしょう……ま、それは後でいっか。ヴァルナくんー。先に始めるけどいいよねー?」

「え。ああ……はい、さっさとやっつけてくださいこんな仕事……」


 もう本格的に駄目である。仕事に対する誠意が欠片も感じられない。というかあんなに至近距離に近づいて噛まれたりしないのだろうか、とキャリバンは心配になるが、その心配は杞憂だった。


「なんと、うちの竜で一番乗り手を選ぶ暴れ竜のエカテリーナちゃんが初対面の人に懐くとは! いやぁ~やっぱり出来る騎士は違いますな~!」

「ワイバーンって顔見知りするんっすか?」

「子供の頃はしないけど、ある程度成長するとね。だからワイバーン調教は若いうちにパートナーを決めるのが大切なんだ。そういう意味でも、今回の問題は困りものだね」


 キャリバンには分からないが、騎士バネウスにはワイバーンのあの仕草が友好を示していることが分かったらしい。ノノカも知っていたのか何も触れなかった。


 やっつけ仕事は良くないが、先輩の為にやれることをやってしまおうとキャリバンは思い直した。

 ワイバーンの足には、キャリバンの師匠であるリンダ教授の持つそれよりは簡易な輪が嵌められている。それは竜が人を捕食対象と見做さない為に生まれてすぐ嵌める、抑制型魔道具だ。プロを通して自分の契約の指輪とこれを共鳴させれば、多少はワイバーンの感情の動きが分かる筈である。


 問題のワイバーンは、目の前の知らない人間たちに好奇心を示しているようだ。

 なるほど、先ほどからヴァルナと戯れているエカテリーナに比べると目がくりっとしており、表皮も少し真新しい感じがする。それでも体の大きさは三メートル以上だ。


「この子の名前はミラマールです。年齢は六歳と二か月で女の子。まだ子供っぽさが抜けませんので悪戯をしてくるかもしれませんが、僕が止めますので問題ありません。では、彼女の気を引いておきますのでその間に調べちゃってください。あ、顔の前には立たないように。甘噛みならぬ甘ブレスが時々出ます」

「甘ブレス!?」


 そういえばバネウスのチリチリ髪はブレスを喰らったせいだと言っていたのキャリバンは思い出す。どうやらワイバーンのねぐらは砂を敷き詰めたり岩を設置したりして整えられているようだが、これはワイバーンの生態のほかに火事防止の意味もあるのだろう。

 ワイバーンはバネウスの持っていた棒で羽根の根元をごしごし擦られ、恍惚の表情を浮かべる。


「ここか~。ここがいいんだろ~」

『クルルルルルルゥ……』

「じゃ、今のうちにっと」


 ノノカは靴を脱ぎ、下で控えていたベビオンの用意したワークブーツに履き替えて躊躇いなくワイバーンに近寄っていく。その後ろを、若干ワイバーンにビクつきながら荷物持ちのベビオンも続く。


「こ……怖くないんでしょうか、ノノカ様?」

「野生生物に対してビクビクしたら無駄な隙を見せるだけなので、調べるならば堂々とが基本ですよ? ヴァルナくんもホラ、臆してはないじゃないですか」

「別のモノに臆してるようですが……?」

「それはそれ、これはこれ。野生種ならともかくこれだけ人に慣らされたワイバーンならヘンなところ触らない限り大丈夫大丈夫♪ ガンバレ男の子!」


 未だワイバーンの前でぶつぶつ言っているヴァルナを見やったベビオンは、気合を入れ直すようにぐっと拳を握りしめてしっかりと歩き出した。ノノカさんが「計画通り」と声を出さずに呟いた気もするが、気のせいだろうとキャリバンも近づいていく。


「さてと……まずはお尻の穴に体温計をブッスリやっちゃいますよー!」

「え」

「え」

「体温計、大型用……これですねノノカ様!」


 表皮が硬質化したワイバーンの体温を計るのに最も適切な場所。

 それは、他の多くの動物と共通する排泄器官、すなわちお尻の穴である。

 そして指示に従ったベビオンが取り出した体温計は――ワインボトル並みに大きかった。思わず間違いではないかとキャリバン、バネウス両名は同時にバッとノノカの顔を見るが、当人は「これこれ~!」といつも通りの快活な笑顔でそれを受け取っている。


「大型魔物の体温を測るために作られた特注品です! これに挿入しやすいようぬるぬるクリームを塗ってですね……」

「い、いやいやいや!! 口から計ってもいいんじゃないっすか!?」

「そ、そうですよノノカ先生! ホラ、うちの子は噛みませんから!!」

「何をおバカな事を。お尻から計る体温はとっても正確なのですよ? 人間だって本当はお尻の穴で計った方が正確ですし、ワイバーンの体で正確に体温を測れ、かつ体温計を破壊するリスクが低いのはお尻しかありません! それに入るのはさきっぽだけだし痛くない痛くない♪ ついでに排便を促してウンコの様子も見ちゃいましょう! さあさあ皆、ビックリして蹴られちゃうかもしれないのでこのベルトをミラマールちゃんの足にしっかりつけてくださいね~♪」


 ノノカは至って真剣である。

 動物の体調を計る指標として体温やウンコのチェックは基本中の基本だし、その為に必要な体温計をお尻に刺すのも当たり前に行われる事だ。事実、彼女がクリームを塗っているそれはオークの体温計測にも使われた折り紙付きの頑丈さを有している。


 それを、ミラマール(♀)のお尻に突き刺すのを野郎たちで手伝い、更には脱糞させる。これといって意味はないのだが、キャリバンは謎の背徳感と忌避感を覚えた。プロに至ってはもはやワイバーンよりノノカにおびえるように後ずさりしている。

 ベビオン以外の周りの反応が悪い事に気付いたノノカは、トドメの一言を放つ。


「……これは専門家としての判断だゾっ♪」


 数分後、男たちに囲まれて両足を黒いベルトで縛られたミラマールは、その肛門をクリームまみれの体温計で貫かれ、竜小屋に切ない悲鳴が響き渡った。

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