第96話 マメな話です

 豆。それはマメ科植物の種子。

 豆は広義における穀物に分類され、古来より人間の食物として栽培されてきた。保存性もよく、栄養価も高く、また二毛作や二年三作などの農法との相性も良い。王国でも生産は盛んだが、流石に国土の広さの問題からか、質はともかく出荷数は大陸東部にある宗国には遠く及ばない。


 さて、豆と言えば士官学校では不意打ち的に非常にマズいペースト豆のスープが出されるという嫌がらせみたいなイベントがある。これは緊急時に食料調達が上手くいかない場合でも食べられるものは食べられるようになれという教訓――と見せかけた嫌がらせである。何故かと言うと、特権階級身分は希望により免除されるからだ。昔は必須科目だったが自分に甘い特権階級が権力で捻じ曲げたらしい。そこを妥協しては教訓の意味がないのではないだろうか。


 ちなみにこのスープを歴史上最後に食べた特権階級身分は王子アストラエなのだが、口をつけた瞬間顔から血の気が引き、スープ半分辺りで一度嘔吐しそうになり、残り四分の一の時点でガチ泣きを始めながらも数時間かけて飲み干したという逸話(?)がある。その隣ではセドナが応援し、とっくに飲み干したヴァルナが珍しく腹を抱えて大笑いしていたそうだが。


 しかし、そんな王族まで泣かせるほどまずいスープを飲もうと器を持ち上げたアマルが小さな悲鳴を上げたのを、ロザリンドは聞き逃さなかった。


「どうかいたしましたか? いつもの好き嫌いではないようですが……」

「いや、手マメが潰れちゃって……いつつっ!」


 手を抑えて呻くアマルの手を見てみると、確かにマメが潰れて赤く痛々しい皮膚の内部が顔を覗かせていた。おそらくここ数日の猛烈な特訓のせいで出来た手マメが度重なる訓練で潰れかけ、器を持ち上げた拍子に潰れてしまったのだろう。


「剣術で手マメが出来るのは下手な証と言いますが、これは……ここ数日の猛特訓で無理やり型を修正してきたツケが溜まっていたのでしょう。迂闊でしたわ、潰れるまで見落としていたなんて」

「なんか膨れてるなーって思ってたけどまさか潰れちゃうなんてなぁ。あーあ、明日からの剣術訓練は地獄の予感」

「何を馬鹿な事をおっしゃってますの。本来ならば薬で治療するのが道理でしょうが時間がありません。治癒士に治させます。さあ、行きますわよ」


 呑気な事を言っているアマルの手を掴んで立ち上がる。

 「わたたっ!?」とスープをこぼしそうになるのを防ぐアマルだが、そんなスープなど放っておけばいい。もう試験まであと三日しか猶予がない。そんな大事な時にマメが潰れた痛みを我慢しての特訓など無謀だ。

 しかし、引っ張られているアマルから言わせればロザリンドの言い分の方が予想外だ。


「で、でも! 治癒士の治癒ってメッチャクチャ高いお金取られるじゃん!? わたし絶対に払えないよ!?」


 そう、治癒士はこの国に指で数える程しか人数がいない。

 それぞれの騎士団にも正式に認められている治癒士は一人ずつしか配属されていない。当然、士官学校の保健室になどいる筈がない。という事は、王立魔法研究院附属病院での治療という事になる。

 確かに治癒士にマメを治してもらう事は可能だが、即効性のある治療の代償として取られる治療費は相当に高額だ。よほど重症か重要な箇所に傷がつかない限りは誰も利用しない。


 しかし、アマルにとっての高額とロザリンドにとっての高額は数字の桁が5個程違う。

 

「精々が取られて百万ステーラ程度、わたくしが払えないとお思い? 試験で結果を残してヴァルナ様に認めてもらう事に比べれば安い出費ですわ」

「そ、それならまぁ考えるけどさ……ちょっと待って! この豆スープって確か飲み干せなかったら放課後に特別練習させられるんじゃなかったっけ!?」

「ああもう、煩わしいですわねっ」


 そんな些細な事はどうでもいいと一蹴したい所だが、規則は規則だ。豆スープを飲み干せなかったら本当に放課後の無駄な練習をさせられて貴重な指導時間が潰されてしまう。ここは大人しくアマルにスープを飲ませるのも手だが、と考えた刹那、横から別の生徒の声が上がった。


「この豆スープは、確か他人に手伝ってもらう事も出来るルールだぞ」


 それはアマルの同級生である平民生徒の言葉だった。


「あ、ええと……平民クラスのコーニアだっけ」

「その話、本当ですの?」

「ただし手伝った他人が飲み切れなかったら連帯責任。助けられるなら助けてみろってな所かな。ま、良家のお嬢様にはこのスープを飲むのは無理――」

「貴重な情報、感謝しますわ」


 どこか人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる彼に軽く会釈をしてロザリンドは豆のスープの器を掴む。

 彼女の価値観と経験則からして――時間を手に入れる手段があり、なおかつ急いでるときは、多少のリスクがあってもその手段を実行するべきである。




 ◇ ◆




 コーニアという男は、劣等感に苛まれる日々を過ごしていた。


 平民に生まれたから馬鹿だと言われ、勉強して秀才だと呼ばれても所詮は平民だと侮られ、ならばと今度は出世の為に騎士になろうとした。

 それでも、士官学校の入学試験は秀才程度で問題が解けることはなく、コーニアは全五名の平民士官の中でも四番目。しかも最下位の女は一夜漬けの半端な知識と選択問題という問題形式故に偶然点が高くなっただけの唯の馬鹿だった。


 幼い頃から立場と金にものを言わせて英才教育を受けた貴族たちは、騎士団に来る者となると必ずと言っていいほど何らかのスポーツで優秀な成績を修めるなど体力にもそつがない。平民全体の中では秀才だとしても、国で最高峰の秀才の中ではコーニアは下の方だった。


 努力しても努力しても大きな壁を越えられない――たった一年の士官学校での学業が、砂漠を彷徨うような果てしなさと共に押し寄せる。そんな毎日を送っていれば、人間は次第に周囲の何もかもが敵のように思えてくる。


(最近貴族サマと仲良くしてるよなぁ、アマルテア。お前は、って思ってたんだけどなぁ……! お前も、平民と対等ですとでも言いたそうに演技してる貴族サマも、気に入らねぇよ俺は……!!)


 貴族に喧嘩を売った代償など、コーニアは知っている。

 だから実行しては来なかった。

 まして公爵家の令嬢に逆恨みで手を出すことの馬鹿馬鹿しさなど語るまでもない。

 それでもコーニアは、一つ証明したかった。


(いい子ぶってるけどよぉ、治癒すんのは治癒士で、有り余ってる金があるから……自分が痛くねえからそうしてるんだろ? 自分の身が可愛くなったら大人しく待つのが本性なんだろ?)


 所詮、貴族など上っ面だけの人間の付き合いしか出来ない。我儘のアマルテアは手伝えと言い始め、ロザリンドは自分がやりたくないから拒否する。コーニアの想像通りの事が、きっとコーニアの言葉で引き起こされる。

 その光景を想像してほくそ笑む。

 さぁ、想像通りの光景を見せろ――。


「貴重な情報、感謝しますわ」


 ロザリンドは顔色一つ変えずにアマルが口をつけようとしたスープの器を手に取った。そして他の誰が声を上げる間もなく――幾人もの生徒を嘔吐させて食に対する冒涜の域に達した味のスープに、口をつけた。


 本来はスープを飲む為に器に口をつけるなどマナー違反だが、この豆スープだけはスプーンを使わないというルールになっている。特権階級からすれば挑むことそれ自体が下品とも言える。まさに貴族の尊厳を徹底的に破壊するかのようなそれを、ロザリンドはアマルの為に何の躊躇いもなく飲み込み始める。

 味を気にしなければ僅か数十秒で飲めるが、それを為した者は殆どいない。しかしロザリンドが口をつけたスープは驚くほどの速度で止まらず減り続け、やがて彼女は器を静かにテーブルに置いた。


「ご馳走様」

「え、はぁ……!? う、嘘だろ!!」


 器の中身は、空だった。ロザリンドは軽くナプキンで口元を拭い、水で口直しすらせずに、周囲と同じく唖然とするアマルを連れて食堂を後にした。

 

 その場にいる誰もがロザリンドを品がないと笑う事は出来なかった。

 余りにも毅然とし過ぎていて、何の間違いもないと言わんばかりに堂々としていたから。

 そこには上っ面だけの行動では決して成し得ない――本物の風格があった。


 その場の全員が何を言えばいいかも分からず言葉を無くす中、コーニアは自分の目の前にもある最悪のスープを見つめた。まだ半分も減っていないそのスープを手にして口に着ける。直後、鼻腔に張り付くような独特の青臭さと喉に絡みつくねっとりとした触感、そして豆の甘みに交じった言い表しづらいえぐみや渋み等のありとあらゆる吐き気を催す味覚に舌を刺激され、僅か二秒でコーニアは器から口を離した。


「こんなもの自分から飲む奴なんて、どうかしてる」


 まるで自分が負け惜しみを吐いたような気がして、悔しくて、気位や覚悟の差を見せつけられたような気がして――いつかあんな風に飲み干せるようになってやる、とコーニアは歯ぎしりした。




 ◇ ◆




「どしたんだろ、コーニア」


 外出許可を貰って案内されるがままのアマルがぽつりと呟く。


「あの男がどうかなさいましたか?」

「いや、普段はあーいう嫌味みたいなこと言わないヤツだったんだけど……たまーに勉強で分かんない所教えてくれたりもしたし。最近ちょっと様子おかしい気がするなぁ」

「わたくしには交流がないので分かりかねますが、貴方が言うならそうなのでしょう」


 アマルからは彼より嫉妬のような感情を垣間見た気がしたが、今はそれについて論じる気はない。魔法による治療には時間がかかるが、流石に手マメが潰れた程度なら三十分も掛からない筈だ。


「ねー、本当に治癒士に治して貰うのぉ?」

「何です、嫌なのですか?」

「嫌じゃないケド……この前読んだ本にさ、痛みを我慢して戦った時の方がスゴい結果が出るってあったから試してみよっかなって!」

「三日間継続できますの?」

「あ。そっかー三日かー。今日の事しか考えてなかったなぁ」


 相も変わらず惚れ惚れする程に刹那的だ。

 しかも、多分何か解釈を間違えている。

 ロザリンドは決して根性論全否定の人間ではないが、少なくとも今という状況では根性論を唱える気はない。


「あと三日……ヴァルナ様に認めてもらうには、最低限三日後の試験で試験官に一本取るぐらいの実績が必要です。傷が治った分だけ精一杯練習しますわよ?」

「うん。あ、ふと思ったんだけどさーロザリンドさん」

「何ですの?」

「いや、センパイの課題ってさ。コレが出来たら認める! って言ってなくない?」

「条件、条件……確かに言われてみれば、その辺りは何も確認してなかったですわね」


 そもそも最初はヴァルナが二人の面倒をちょっとだけ見てくれるというだけの話だったのだ。それが、二人の関係がこじれたせいでややこしくなったのだから、当初は課題でもなんでもなかった。報酬が用意されたのもロザリンドがゴネたから言い始めた事だが、言われてみれば報酬を貰える条件は現在のところヴァルナの気分次第なのではないだろうか。


「もしやセンパイ、面倒になったら汚い大人特有のいちゃもんで無かったことにする気では!」

「ヴァルナ様はそんな事しませんわ! 王国最高の騎士として、絶対に!」

(するんだよねぇ……センパイ、最初は如何にしてロザリンドさんに豚狩り騎士団行きを諦めさせるかを考えてたし)


 ヴァルナの事を信じていない訳ではないが、そこまで彼が誠実まめであるとは言い切れないアマルであった。

 なお、その後に無事マメの治療は無事完了したのだが、後になってから豆スープのダメージがお腹に来たロザリンドにも治療が必要になり……結局、その日は無駄になってしまうのだった。


「結局スープのせいで余計な時間かかっちゃったねー」

「い、急がば回るべきでした……!!」

「まーでも、スープ飲み干したロザリンドさんちょっと格好良かったよ?」

「今が格好悪いのが問題なのです……うぅ……!」

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