第89話 それは眩しい光です

 全速力で階段を駆け上がり家の外に出た俺がまず最初に見たのは、腰を抜かしているコルカさんとその前で警戒するプロだった。


「は、は……ハチのオバケぇぇ~~~~ッ!!」

「グルルルルルルル……ッ!」


 周囲を素早く見渡すと、向かい側の建物の屋根の上に、まだ蜂の魔物は鎮座している。こちらが高所に手出しできないと考えての事だろう。仮に屋根裏から近づいても空に逃げればいいだけなのだから、歯がゆいことにそれは正解だ。

 人通りの極端に少ない場所であったためか他に人はいないが、もしこれで大通りだったらパニックが起きていただろうことは想像に難くない。前にオークが予期せぬ動きで防衛する町に奇襲を仕掛けてきたとき、オークによる怪我人はゼロなのにパニックや将棋倒しの怪我人は十数名にも及んだことが思い出される。

 なお、奇襲を仕掛けたオークは全員首を狩っておいたのだが、それを見た住民は今度は生首に恐れ慄いて大人しくなった。俺が近づくとビクビクしてたが、何で俺が脅した体になったんだろうか。


 悠々とロイヤルゼリーを啜っている蜂は、ひとまず動く気はないらしい。ならば今のうちに出来ることをしなければならない。すぐにコルカさんを助け起こし、そのまま素早く体に傷がないか確認する。


「コルカさん、大丈夫? あの蜂にどこか斬られたり刺されたりしてない? 特にお尻の針が掠ったりとか!」

「ええ!? わわわぁ!? ちょ、オルクスさ……そんなに体中触れれたら……ひゃう!?」

「……ひとまず外傷は見当たらないみたいだね。よし、後ろに下がって! 俺たちの指示があるまで下手に動いちゃダメだよ! 何があっても絶対に守るから!!」

「は、はひ……」


 極度の恐怖からか、呂律の回らない声で返事したコルカさんはどこかポヤっとした顔で素直に後ろに下がる。しかし恐怖の割には血色はいつも以上にいいような気がする。非日常にはない刺激的なスリルとか感じて楽しむタイプだったんだろうか。ちょっとアブない人である。


(オルクスさんにあんなに心配されて、『何があっても絶対に守るから』って……あぁ、また守ってもらっちゃってる上にそんな事言われたら、もーヘンな勘違いしちゃいそう……もう! 攻め落とすのはこっちなのに、自分から来るなんて卑怯じゃない!?)

「……コルカさん、今非常時だから気は緩めないでよね?」

「へぇッ!? あ、セドナちゃん? ご、ごめんボーっとしてて!」


 いつもより若干棘のある気がするセドナの指摘によってアブない人の手綱が握られた。他人に対して玉虫色の対応しかできなかったいい子ちゃんのセドナも騎士団で少しは他人に厳しくすることを覚えたようだ。実に良い傾向である。ついでに俺とアストラエに対する過剰な甘えも卒業して大人の階段を登って欲しい。


 しかし、まずい事になった。

 どうやらあの巨大蜂はロイヤルゼリーにご執心で動いてはいないようだが、全て食べ終えた後にはやはり町を襲うのだろう。問題はあの蜂が蜂蜜大好きのグルメなのか、それとも食べる対象が人間でも構わない悪食なのかという点だ。

 ここは蜂蜜が有名な町。ならば蜂蜜を優先的に狙ってくれれば相手の動きも絞られる。しかし、オークのように雑食で食べられれば何でもよいというタイプの場合は最悪だ。


「最悪、あれが降りてきた所に剣を叩きこみ続けて根気よく粘るしかないか……?」

「あの魔物、オルクスくんの刺突を顎で受け止めたんだよね。だったら大陸にいる魔物の中でも中位ランクには確実に届いてる。しかもあの巨体……多分だけど、デッドホーネットの女王蜂!」

「お前の士官学校常時一位だった学力を信じて、あれをデッドホーネットの女王蜂だと仮定しよう。俺もその魔物の事を思い出してきた」


 デッドホーネットといえば大陸に住む蜂の魔物の代表格であり、一度巣を作ればその行動範囲は半径十キロにも及ぶ。確かその最も恐ろしい所は、特殊なフェロモンによって魔物ではない普通の蜂まで従えることだ。つまり、万が一この蜂が野山に放たれようものなら、周辺にいるすべての蜂が女王蜂の支配下に置かれてしまう。

 ただ、それを行うには特殊な条件が必要であり、今すぐにあの蜂が他の蜂を従える訳ではないだろう。つまり、あの外来危険種をこの場から絶対に逃がす訳にはいかない。偽の俺どころじゃなくなったな、と内心で頭を抱えていると、油断なく刺股を構えたセドナが体を寄せてきた。


「オルクスくん、デッドホーネットの女王蜂は凄い量の蜂蜜を吸うの。女王の産んだ働き蜂はともかく、あれが女王蜂なら蜂蜜に強く惹かれる筈だよ。特に、女王蜂だけに与えられるロイヤルゼリーには殊更ね」

「まぁ、多くの樽の中から選び出して念入りに啜ってるものな。つまりロイヤルゼリーでおびき寄せて仕留めようって話か?」


 おびき寄せる事自体は何とかなるかもしれないが、大きな問題もある。


「さっきの一撃が受け止められたことで、あの女王蜂も攻撃に対しては警戒してる筈だ。しかも刃は受け止められた。この剣の切れ味じゃ確実には仕留めきれない」

「うう、王国製の剣は切れ味よりは重さ重視だもんねぇ……どこかに切れ味抜群のいい剣を持ってる人がいないかな?」

「剣の鍛造は王国に許可された鍛冶屋でしか出来ないから無理だろ……まさか今から王都に戻って買い物する訳にもいかないし」


 王立外来危険種対策騎士団の面々は金欠気味なので武器の性能は平凡だし、聖盾騎士団は隠密行動中の為に剣は持っていない。町を治めるフロイーネ卿が観賞用の高級武具でも持っている可能性も考えたが、花を愛でる感性を持った人間が無骨な武具のコレクションをしているかは微妙な所である。


「こうなったら一か八か、『十二の型・八咫烏』で……いや、でもアレは破壊力がありすぎるから使い場所が難しいんだよなぁ」

「昔に究極奥義を使ったら訓練案山子を木っ端微塵にして破片が周りを滅茶苦茶にした件、まだ気にしてるの?」

「するだろ普通!案山子が三十メートル離れた本棟の壁に突き刺さって教官たちに鬼のように怒られたんだからな!?」


 そう、八咫烏は余りの破壊力故に周囲に被害が及ぶ可能性のある危険な技なのだ。それゆえオーク相手には、死体回収が困難になることを理由に許可ない使用を禁じられている。いつぞやの御前試合でクシュー団長がスプラッシュしなかったのは、ひとえにあのおっさんも八咫烏を使ったからある程度威力が相殺されたからに他ならない。


 これを、剣を受け止める程の強度を持った約三メートルの物体にぶち当てた場合、その全身が粉々に砕け散って散弾のように町にぶちまけられるだろう。状況が状況とはいえ、そんな事をして町人が巻き添えを喰らったり建物に被害が出れば、書かされる始末書は十枚では済まない。

 いっそここで仕留めれば最小限の始末書で済むかとも考えたが、その思考はすぐさま断念する。


「おい、さっきガラスが割れた音がしたけど……うおッ、狼!?」

「表通りの酒屋で働いてるコルカちゃんだ。こんなところで何を――って、騎士がいるし!」

「お、おい上! なんだあの馬鹿にでかい蜂は!? も、も、モンスターかぁぁぁ!?」

「落ち着いて、この場を離れてください! 騎士団が交戦中で危険ですっ!」

「へぇ、あれが本物の魔物か……」

「何の騒ぎだ~……? おお、なんか美少女と騎士が!!」

「どうしようオルクスくん、次々に集まってきて一向に帰ってくれないよ!」

「騒ぎを聞きつけて人が集まってきたか……!」


 セドナの声色に焦りが混じる。確かに状況が悪くなっている。

 いくら人通りが少ないとはいえ、人間そのものは当然住んでいる。騒ぎになれば騎士二人と狼一匹で蜂を監視しながら人を避難させるのは困難だ。人間の好奇心の強さはこういうときに仇となる。


「どっちにしろあの蜂が降りてこないんじゃこっちからはお手上げだし、上手くいかねぇ!」


 人間もそうだが、野生生物も思い通りに動いてくれず、何をやらかすか分からない。

 倒せる場所に誘導すると口で言うのは簡単だが、人のいない町の外まで誘導すればそのまま森に逃げる可能性もある。最適な場所も時間も用意させてくれないこの蜂は、今この場所という点に於いてはオークより圧倒的に厄介だった。


 こんな時に限って仲間たちは軒並み偽の俺に出づっぱり。あの蜂をおびき寄せる手には少々心当たりがあるが、こうなってくると流石に新しい剣を買っておけばよかったという悔恨が湧いてきてしまう。


「切れ味のいい剣さえあれば全部解決するかもしれないのになぁ……こんな事なら前にアストラエと会った時にあいつのカトラスを借りパクしてりゃ良かった!」

「あのー……ちょっといいでしょーか?」

「わたしもパパの刀剣コレクションの中から適当に剣を貰っておけばよかったなぁ。きっと頼み込めばものすごく悲しそうな顔しながら貸してくれるのに」

「あのー! もしかして私みたいなそばかす娘の話は聞くに値しないという意志表示でしょうかー!? お願いだからちょっと聞いてよ!」


 人間、一つの物事に集中すると他が疎かになるもの。ここに至って俺はやっと背後のコルカさんに身に覚えのない差別の濡れ衣を着せられている事に気付く。そんなにそばかすを気にしていたのだろうか? むしろ活発な印象があっていいと思うのだが、その辺如何だろうか。


「……あ、ありがと。でもそんな風にストレートに言ってくるのってズルイんじゃないかなぁ……じゃなくてっ! 話、聞いてくれるよね!?」

「故あって蜂からは目が離せないんで、手短に頼みますよ!」

「わたし、切れ味のいい剣に心当たりあるカモ」


 俺は、思わず蜂から目を離して後ろを見た。

 セドナも思わずそちらを向いてしまう中、そばかすがチャーミングな町娘は不敵な笑みを浮かべて自慢げに語る。


「わたしの話、真面目に聞いてくれる気になった?」


 意地汚く樽の中を念入りに舐めまわしているデッドホーネットを背に、俺は一も二もなく頷いた。


(……今更なんだが、あのデッドホーネット食い意地張りすぎじゃないか?)

(確か、デッドホーネットの女王蜂は一日に数十リットルの蜂蜜を飲まないと満足しないって本に……多分お薬か何かで強制的に冬眠と覚醒を繰り返させられて食欲がおかしくなってるのかも)

(あ、俺その薬知ってる。ノノカさんが生け捕りにしたオークにその薬打ってたわ。一匹たりとも生きて帰らない死への旅路だったけどな)


 仮死状態にして解剖室まで直行し、四肢の腱を斬っておいて覚醒したら今度は睡眠薬をぶち込んで解剖などというド外道な話を聞かされたのは懐かしい思い出だ。同期連中がノノカさんの周囲を離れたのはあれが決定打だと思う。

 オークに生存権などない。

 それが王国の出した答えだ。




 ◇ ◆


 


 偽ヴァルナは、未だにツキの来ない過酷な運命の中にあった。


 笛によって蜂を覚醒させたまでは良かった。

 しかし、薬の投与を始めて以降加速度的に増え続ける女王蜂の食事量がアダになり、肝心のパニックがそこまで広がらない。町では相変わらずあの諜報機関のような連中と騎士が小競り合いを繰り返していて逃走ルートが一向に開かない。

 こうなれば、ある程度は捨て身の行動を取るべきか。偽ヴァルナは予めリストアップしていたロイヤルゼリー取扱店のうちの一つに目星をつけ、騎士たちの隙を縫って入り込んだ。


「いらっしゃいま……うわぁ!? きき、騎士ヴァルナ!?」

「どけぇッ!! 貰っていくぞ、この樽!! これも義のため人の為だ、文句あるまい!?」

「か、勝手な事してもらっちゃ困る! その樽一つで一体いくらの値段が付くと思って……ガハッ!?」


 もはや手段は選んでいられない偽ヴァルナの蹴りが店員の鳩尾にめり込み、店員はうずくまってゲホゲホと苦悶の表情で咳き込む他ない。それを尻目に偽ヴァルナは百キロはあろうかという樽を掴み上げ、そのまま店の出入り口に放り投げた。

 ドアを突き破って転がった樽を踏み割ると、中からドロリとした液体が溢れ出る。あの女王蜂が何よりも好むロイヤルゼリーだ。臭いも味も人間が食用にするには向かないものだが、あの女王蜂なら必ず気付いて此処にやってくる筈だ。


「へ、へへ……ちとばかし博打だが、コイツで運気を逆転出来るぜ」


 何事かと往来の人々が集まってくる中で、偽ヴァルナは一人ほくそ笑む。

 これで女王蜂はこの往来の中に飛来し、町は今度こそパニックになる。民間人が数多居るなかで魔物が出れば騎士団はそれを退治に動かなければならないが、パニックになった人々が意図せずしてその邪魔をしてくれる。

 その隙を突いて、今度こそ偽ヴァルナは逃走する。チケットがないので少々面倒ではあるが、今まで幾度となく密入国を成功させてきた偽ヴァルナには勿論非常時の国外脱出計画が用意してある。これがプロの経験を応用した知略の成果。経験則からしてそろそろ女王蜂が樽一つを空にして次の食事に出るタイミングだ。

 人混みに無理やり割り込み、適当なタイミングで剣も捨ててしまおう。

 ――それが楽天的な予測であることに、その時は気付かず。


「さて、騎士共も人混みに紛れてしまえば俺の事に容易には気付けまい。とっととズラか………ん?」


 ビィィィィィッ!! と耳を劈くような音が空に響き渡り、周囲がその異音にざわめき始める。


 ひどく聞き覚えのある音――いや、まさか。


 (予想外に速過ぎねえか!?)


 あと数分は余裕があった筈なのに、何故これほど速く奴が来るのだ。焦った偽ヴァルナはすぐさま人混みに紛れようとするが、人の壁が厚い上に異音に気を取られた彼らは足が完全に止まっており、入り込む隙がない。それでも無理やり体を人混みにねじ込もうとした刹那――巨大な影が自身の上を通り過ぎ、羽音が背後でぴたりと停止する。


 ギチギチと軋むような不吉な音、巨大な生物の気配。

 恐る恐る背後を振り返れば、そこには極めて見覚えのある――そして肝心な時に限っていう事を聞いてくれないその化け物の姿があった。


「………」

「キ、キキキ……ギィッ!!」


 大陸でも危険度中位。

 地形によっては下僕の蜂がいなくともミノタウロスを単独撃破可能。

 その尾にある毒針は二度刺されればたとえ解毒剤を使っても致死に至るとされる。

 警戒色と呼ばれる黄と黒のコントラストに、太陽光を発射する無機質な二対の複眼。

 更に二つの目に加えて額についた小さな三つの単眼が、ロイヤルゼリーを無視してまでこちらをねめつけている。


「へ……ヘイ、ハニィ。どうしたんだそんなに俺を見つめて? 大好きなロイヤルゼリーならほれ、ハニィの足元に――あ」


 その時、偽ヴァルナは足という単語から一つの事に気付いてしまった。

 樽の中身をぶちまける時、彼は樽を踏み割った。

 その反動で、彼の靴にはべったりとロイヤルゼリーが付着していたのだ。


 女王蜂はロイヤルゼリーを欲しがるが、それ以上に自分の食料を他人に横取りされる事を決して許さない。そして今、恐らくあの恐ろしい魔性の蜂の目には偽ヴァルナの事がこう映っている。


 ――足に蜜など漬けおって、さては妾が目を付けた蜜を掠め取る心算か?


(まずい……まずいまずいまずいまずいまずい……っ!!)


 今まで偽ヴァルナはこの蜂に敵意を向けられないため、いつも予め舐めさせる蜜に冬眠状態になる仮死薬を混ぜてきた。しかしそれはロイヤルゼリーを含む多くの蜜を十分に吸わせた後の最後の樽に混ぜていたのだ。賢い女王蜂は人間が明らかに何かを混ぜた食べ物など決して口にはしないから、目覚めさせるときは蜂の近くからも離れていた。

 だから女王蜂は偽ヴァルナが餌をくれていた本人だとは全く知らないし、今から彼が蜂に薬を飲ませることも不可能だ。つまり、偽ヴァルナは対抗手段もなく明確にこの女王蜂の機嫌を損ねるテリトリーに入ってしまったのだ。


 最早仕事どころではない。

 命の為になりふり構わず逃げなければ。

 蜂に簡単に手出しされないよう抜刀して慣れない剣を突き付けながら、必死に脳を回転させて逃げる算段を立てようと考える。しかし、その悉くが実現不可能という結果を次々に弾き出していく。


「き、騎士様! あんた騎士なんだろ、その腰の剣!? 町に現れた化け物を退治しとくれよぉ!」

「お、思い出した! お前最近町で暴れてる騎士ヴァルナだろ!!」

「騎士ヴァルナ!? あの噂の剣皇ヴァルナか! 俺たちはなんてツイてるんだ、そんなスゲェ人が現場に居合わせるなんて!!」

「剣を抜いている! ここで戦って俺たちを守ってくれるんだ!!」


 気が付けば周囲は人の輪を作って綺麗にヴァルナの周囲から離れていた。まるでコロッセオの中心に彼を取り残すかのように。これでは他の人間を囮にすることも出来ないし、動いた瞬間に女王蜂に殺されかねない。本物の騎士も流石に到着していたが、今度は偽ヴァルナの用意した人の壁に阻まれて足踏みしていた。


(ウソだろ、俺の作戦まで俺を裏切るってのか……? 起死回生の策が自分の首を絞めるなんて冗談じゃねぇ! 何やってる、間抜け共! 早く俺を助けに来いよ! 囮になれよ! あの蟲をどうにかしろよッ!!)

「騎士ヴァルナと言えばオークの首を沢山狩ってきた王国の英雄だ! 絶対なんとかしてくれる!」

「見てよ、あの綺麗な剣! 普通の騎士が持っている剣より立派みたい!」

「がんばれ! 平民の英雄! バケモノなんかに負けるなー!」

「ヴァルナ! ヴァルナ! ヴァルナ!」


 逃げることを許さない平民たちの大合唱が響き渡る。

 頭から血の気がさぁっと引き、視界が白む。

 自分で自分を孤立させ、挙句の果てには散々美味い汁を吸わせてくれた借り物の名前までもが全身を雁字搦めにして耳元で逃げるなと囁く。彼らは本当に目の前にいるのが最強の英雄だと信じているのに、その結果として生じたのは逃げ場を塞いで処刑場を作っただけだ。


 その辺の人間なら素手で倒せても、彼には剣を巧みに操って魔物と戦う技量などない。

 残されたのは、後悔と絶望。全て夢で、目が覚めれば高級宿のベッドの上であってくれとあり得ない望みを神に捧げるしかないほどの、袋小路のどん詰まり。周囲の賛辞と声援すら、全てが自らを嘲笑っているとさえ感じる。


 俺は、死ぬのか――今にも崩れ落ちそうなほどの虚脱感の中で、偽ヴァルナは思った。


 嫌だ。まだ死にたくない。

 ここでこの蟲に無残なまでに引き裂かれ、毒に悶えて衆人環視の中で惨めに死んでいく自分が悲しくて堪らない。ああ、いっそこの身が本当に王国最強騎士ヴァルナであったならば。今頃魔物は一刀のもとに切り伏せられ、剣を鞘に納めた瞬間に周囲は英雄の所業に色めき立って、物語はハッピーエンドで終了するというのに。


(誰にも必要にされなかった屑には、神様も英雄も運さえも味方してくれねぇのか?)


 ヴァルナを騙った愚か者は、自分の一生を振り返る。

 何人もの人間の破滅を見るうちに、心のどこかで「自分もいつかは」と感じてきた。驕れる者はいつか破滅する。栄枯盛衰、諸行無常。常に全てが上手くいくことなどない。それが自分の番だったと――そんなに簡単に受け入れて命をくれてやるなんて、嫌に決まっているじゃないか。


「たす、けて……誰でもいい、助けてくれぇ……」


 今まで一度だって受け入れられなかった懇願が、男の口から洩れた。


「こんな惨めな屑でも、助けてくれるなら俺はそいつの奴隷にだってなってやる。何年牢屋に入ったって構わないし、もう裏稼業から足を洗って全財産を孤児院だか何だかにぶち込んだって構わない。神様はいますと道端で説法もする。だから、だから……一度でいいから、俺に救いをくれよぉッ!!」


 周囲からすれば理解不能なその懇願は空に虚しく融けて消え――。


「ったく、身勝手な奴……おい、今の言葉はしっかり聞いたから後で覚悟しとけよ」


 すたん、と。


 その若い騎士は人混みを恐るべき跳躍力で飛び越え、男の前に現れた。

 男の声と姿に、偽のヴァルナはひどく見覚えがあり、震える喉で声を絞り出す。それはあの時、ヴァルナの名を騙って初めて女を抱こうとした時に現れた青臭い英雄気取りの――。


「お前、何でここに……?」

「決まっている。騎士は何もお姫様の危機だけ救ってればいい訳じゃない。相手が犯罪者だろうが外国人だろうが、魔物に食い殺されるのを黙って眺めてるんじゃ騎士の名が廃る……剣貸せ、それでお前を助けてやる」


 その声が、背中が、理想を貫く若さがどうしようもなく眩しかった。

 男は一つだけ幸運に恵まれた。それは皮肉にも、自分を縛ったヴァルナの偽名が、たった一つだけ救いを自分に投げて寄越してくれたことであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る