第88話 一長一短です

 コルカという女はあくまで花嫁修業中の労働者であり、騎士のような高い能力を持っている訳ではない。だから騎士に「危険だから待て」と言われると、コルカは素直に待つしかない。実際問題、成人男性の戦闘能力を十とするならばコルカのそれは精々が二か三くらいのものだ。

 包丁とフライパンで武装すれば二十には届く自負があるが、大切な料理道具を粗末に扱うなと店長の雷が落ちること請け合いである。


 という訳で、オルクス(偽)とセドナが家の中に入った後、彼女は家の前で見張りという名の放置を喰らっていた。とはいえ、犯人が現れる可能性を考慮してプロも玄関隣にお座りしているので独りぼっちではないのだが、狼が隣にいるって逆に安心できなくない? と、コルカとしては思う訳である。


「はーぁ、今頃オルクスさんはセドナちゃんと二人っきりかぁ……ま、これは任務なんだし、セドナちゃん的にはオルクスさんは本命じゃないらしいし、ここで更にハードルが高くなるとは思えないけどさぁ。やっぱ気になるのは、オルクスさんからセドナちゃんにアプローチ仕掛けた時だよねー」

「わう」

「あ、キミもそう思う? ぐぬぬ、こーなればオルクスさんが奥手であることを信じよう……」

「わうわう」


 プロの一鳴きに勝手な解釈を加えて溜息を一つ吐きだすコルカだが、実際の所プロの耳には小屋の中で何が起きているかが手――もとい前足に取るように分かる。ちなみに現在のセドナはヴァルナにギュウギュウ詰め寄っており、どちらかというとコルカの予想は全く逆である。

 なので最初の一鳴きは「逆だけどね」、二度目は「オルクスじゃなくてヴァルナなんだけどね」という意思表示だったりする。同行者にキャリバンがいないのをいいことにネタ晴らしし放題とは実に性格が悪い。


 暫くして、小屋の中から妙に楽しそうな二人の声が聞こえる。プロの耳では二人が勘違いに気付いて現実逃避を始めたことまで理解できるが、壁を隔てているせいではっきりとは聞こえないコルカの頭には現実と全く異なる情景しか浮かばない。


「なんか楽しそうな雰囲気になってる……今更だけど二人は同年代の騎士だから私なんかよりよっぽど互いの事を知ってるんだよね? 背中ムキムキなのも知ってたし。どうしよう、最初はそんなつもりじゃなくても思い出話に華を咲かせるうちになし崩し的にお付き合い、みたいなことになったら!」

「わふっ」

「え!? 逆に一夜の過ちみたいにチャンスがあるんじゃないかって!?」

「わう……」


 絶対にそんな事は言っていないが、コルカは何が何でも希望が欲しかったのか自ら希望の捏造に手を染め始めた。プロが途轍もない馬鹿を見る目で呆れていることにも気付かないほどコルカは焦っているようだ。恋する乙女の思考回路が暴走し過ぎである。家の中から隠し階段の出現する大きな音がしたことさえ、今の彼女にとっては些末な事らしい。一応見張りなのに。


「はぁ……この世でオルクスさんの魅力に気付いてる人が私だけならいいんだけどなぁ」

「わふ……」


 会って一日しか経ってないのに何を言い出すんだか、と呆れたプロだったが、不意に顔を上げる。微かにだが、自分が追跡した臭いより鉄臭さが少ない、人間の臭いが近づいている感覚がある。更に遅れて、ピュイィィィィ……と、遠くから笛のような甲高い音が鳴り響いた。これにはコルカも気づいたのか、暴走気味の乙女回路をいったん切断して音の方を見る。


「なに、この音? なんか、心がざわざわするっていうか、ちょっと嫌な音」

「ぐるるるるるる……」

「え? プ、プロさん? 何故にそこまで怒ってらっしゃるので……あ、警戒してるの?」


 プロは、感じ取っていた。あの笛の音に呼応するように、咽返るような臭いを放つ、大きな何かが近くで目が覚めた事を。突然現れたようなその気配は――ヴァルナ達の入った家の中から発せられていた。


 プロは威嚇しながら、その気配の大きさに戦慄する。

 それはプロが大陸で野生動物だった頃以来感じる程の、群れのトップに君臨する存在が纏う圧倒的な強者の威圧感だった。




 ◇ ◆




 それは、一瞬の出来事だった。

 一度上に戻ろうと動いていた俺とセドナの髪が、微かに揺れる。

 それも歩いたからではなく、後ろから風に押されるようにだ。

 この扉や窓を閉め切った家の地下室で、それは余りにも痛烈な違和感を齎した。瞬間――俺とセドナは背後から迫る気配を感じて咄嗟に横っ飛びでその場を離れる。


 直後、ビィィィィィィィィッ!!と耳を劈くような音を立てて何かが俺とセドナのいた場所を通り抜けた。それは壁にぶつかる前に急上昇したかと思えば左、右とジグザグに動き、やがてその背後に並んでいた蜂蜜の樽へと疾風を起こして舞い戻る。


 この王国内に、室内でこのような滅茶苦茶な挙動を取れる在来生物などいない。

 つまり――。


「オークか! 分かったぞどうせオークなんだな! 蜂蜜を摂取することで突然変異を起こした黄色い毛並みのオークとかが出たんだろう!! 俺には分かる、俺の人生を邪魔する奴はいつだってオークなんだよッ!!」

「落ち着いてヴァルナくん!? さっきのアレどう見ても跳躍じゃなくて空飛んでたから! オークに飛行能力はないから!!」


 いやいやセドナ、君は世の中の事が分かっていない。

 大体こういう時は散々引っ張っておいてオークというのがお約束なのだ。そう確信しながら俺は背後を振り返った。


 そこに居たのは――二メートル近い体に、横四メートルを超える半透明な翼を持った巨体。鋭角的な六本の足、本能的な忌避感を感じる濃いオレンジと黒のコントラスト。あらゆる生物を引き裂かんとする凶悪な牙に、尾にはまるで槍が括りつけられているのかと疑いたくなるほどに鋭い紫色の毒々しい針。

 それは巨大で悍ましくも何処か堂々たる威厳を持った、明らかな異形だった。


「羽の生えたオークだな! おのれ、新種か!」

「正気に戻ってヴァルナくん!? 冷静に観察すればオーク要素が魔物であること以外に一つもないから!! あと王国内にゴロゴロいるオークを密輸入するメリットとかないから!!」

「……ゴメン。どう見ても蜂の魔物だよなアレ」


 ぐうの音も出ない反論に俺も冷静になることにした。

 ギチギチと不気味な音を立てるそれは、時折羽を震わせてビィィィ、と不快な音を放ってこちらを警戒していた。その下にはセドナが密輸の品だと言っていた鉄の箱があり、その蓋が開け放たれている。

 俺は剣を抜き放ち、セドナも護身用に隠し持っていた聖盾騎士団特製の折りたたみ刺股さすまたを取り出す。先程の尋常ではない速度、もし一度避け損なえば命はないかもしれない。


「あれ、魔物を入れる檻だったのか。確かに羽を折りたためばギリギリ入るわな」

「まさか鍵がかかってなかったなんて、想像だにしなかった……でも、何でヴァルナくんの氣で気付けなかったの?」

「多分だけどさ。今は冬だし、仮死状態だから気付けなかったんだと思う。覚醒した理由はもしかしてさっきの音か?」

「分かんない。でも、コイツはここで仕留めないと! こんなバケモノが町に出たら、最悪死人が出ちゃうよ!!」


 セドナの意見には俺も同感だった。先ほどの動きを見る限り、相手は尋常ではない飛行能力を有している。つまりオークとは比べ物にならない自由度で人間を一方的に襲う事が出来るのだ。空に逃げられてしまうと俺たち王立外来危険種対策騎士団には対応できない。かといって聖天騎士団の所持するワイバーンではあの俊敏な動きに反応できない。


 むしろ倒すなら今がチャンスだ。

 地下室は広いがあの大型昆虫が自由に移動するには手狭な筈。

 先にあの虫に手出しさせ、カウンターの一撃で仕留める。


 俺とセドナは只管に、その瞬間を待った。

 しかし、蜂の魔物は俺の予想しなかった判断を取る。

 突如、足を使って前に移動した蜂は、並んでいた樽の中からロイヤルゼリーのそれだけを引っ張り倒し、顎で樽を破壊したのだ。中からどろりと垂れる粘性の液体を、蜂は啜り始めた。


「……そうか、今分かったよヴァルナくん。密輸犯が蜂蜜を必要としていたのは、この魔物のご機嫌を取るのに大量の蜂蜜が必要だったからなんだ」

「随分燃費の悪いこって……しかし、俺たちを前に悠長に食事とは暢気だな。目までは放していないが、こちらから仕掛けよう」

「ラジャー。わたしは剣がないからヴァルナくんに先行任せたよ」


 戦いの気配――俺は静かに身を落とし、雪山での戦いとは逆に可能な限り小さなモーションと音の小ささで、石の地面を蹴り潰して弾丸のように前に出た。耳元を通り抜ける空気の流れを感じながら、可能な限り樽に身が隠れ、かつ最短のコースになるように駆け抜けた俺は、静かに剣を抜き放った。


(六の型・紅雀――!)


 移動しながら敵を倒すという視点から見れば、騎士団奥義の中で最速の技。ひゅぼっ、と空気を貫いた神速の刺突は吸い込まれるように蜂の魔物の首筋に飛来した。


 瞬間、衝撃。


「な、コノヤロ……ッ!?」

「う、嘘……ヴァルナくんの刺突が!?」


 金属が擦れる甲高い異音。斬った手応えではなく、剣を岸壁にでも突き刺したような重すぎる感覚に、表情が歪む。

 蜂の魔物は、恐ろしいまでの反応速度でこちらを振り返り、その鋭い顎で俺の加速を乗せた剣を受け止めていた。みしみしと軋むような音を立てて停止する俺の剣。それでも蜂の顎に刃が数センチ埋まっているが、剣の厚みのせいでそれ以上前に進まない。


 せめてこれがレイピアのように細い刃だったら一撃で貫けていただろう。しかし、失敗は失敗であり仮定に意味はない。千載一遇のチャンスを不意にした俺は自分の不甲斐なさに歯ぎしりするが、戦いにおいては後悔する暇などありはしない。

 蜂の魔物はすぐさま別の行動に移っていた。


「ヴァルナくん下がって! 何かする気だよ!!」

「ぐっ……!」


 セドナの言葉にはっとする。

 蜂が一度折りたたんだ羽を素早く展開している。

 俺は剣から手を離して咄嗟に背後に飛んだ。


 直後、ビィィィィィィィイイィッ!! と、先ほどの羽音より遥かに強い超音波のような音が地下室に響き渡り、ビリビリと大気が震える。鼓膜がはちきれんばかりの振動音に、俺とセドナは咄嗟に耳を塞いだ。密閉空間の方が有利だと考えていたが、密閉空間だからこそこの轟音は防げない。


「ぐうううう、そんな手まであったのかよ!?」

「ヴァルナくん、アイツ動くっ!」


 蜂の魔物が、動く。今この瞬間に襲われればこちらもただでは済まない――そう考えた俺は最悪素手で戦う算段を立てていた。しかし、その覚悟は幸か不幸か無駄になる。

 ハチの魔物はギシギシと軋むような音を鳴らして顎から剣を外すと、割れたロイヤルゼリーの樽を抱えて一直線に隠し階段に飛び立ったのだ。高度に加えて羽音を防ぐために耳を塞いでいた俺たちは一瞬反応が遅れ――直後、バリィィィン!! と窓を突き破るような音が1階から響き渡った。


「――やられた! あいつ、戦うリスクより逃げる方を選びやがった! 引き際弁えやがって……!」


 音が止んだと同時に剣を拾いに走りながら、俺はセドナと共に渋面を浮かべた。正体不明の蜂の魔物が、この王国有数の町で自由の身になってしまったという最悪の状況をどうやって覆すか、必死に考えながら。

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