第84話 SS:ほのかに香ります
コルカという町娘の一日は、午前6時に始まる。
その日の彼女は、少々疲労を残した体を持ち上げて安っぽいベッドから起き上がった。
「んん……ふわぁ。んー……もう朝かぁ」
親元を離れて若くして職場を転々としていた彼女は、現在の酒場の店長に拾われる形で店長の家に同居している。店長は妻と離婚し、子供もいない一人暮らしだ。そのせいかコルカの事をどこか娘のように扱っている。両親と折り合いがいい訳ではないコルカにとっても店長は恩人であり、以来数年間ずっと店長の家に居候させてもらっている。
さて、そんなコルカが朝六時に目を覚ます理由。それは朝食を作る、というより料理の練習の為に作らせてもらうことにある。その理由は、単純にいい女になる為……ざっくり言えば花嫁修業のようなものだ。
店長のおかげで衣食住を手に入れて精神的な余裕が出来たコルカは、ある時一人の男性に告白されて付き合うことにした。彼女も女性、恋や結婚といった事柄には人並みに憧れがある。
しかし、この恋人とは短期間で破局してしまう。
その理由が、生活力の無さだ。
現在のコルカの部屋は掃除も行き届いていて散らかってはいないが、店長に居候させてもらった当初は私物も下着もアクセサリも四方八方に散らばっており、モノを片付けるという能力が皆無で店長を困らせていた。料理も砂糖と塩の違いが分からない程いいかげんで、仕事は出来ても身の回りの事が出来ないダメ女だったのだ。
彼にそのことを指摘されてフられたコルカは、フラれた事実よりも自分の情けなさに号泣し、その日のうちに店長に頼んで花嫁修業を開始したのである。しかし、この日は普段と少し事情が違っていた。
「……今日は、十日か。五の倍数の日は店長がご飯を作る日だし、どうしよう」
料理好きの店長の指導によって料理がめきめき上達したコルカだが、逆に店長が朝食を作る機会が減少したことで提案されたのがこの当番ルール。要するに朝食が作りたくてしょうがない店長に「この日は僕に作らせてくれ!」と要求されたこの日には、コルカが早起きする理由は余りない。酒場も開店は昼頃からだし、こういう日に限って店長は掃除も洗濯も完璧に終わらせているのだ。凝り性なのである。
しかし、せっかく起きたのだしとベッドから降りてううん、と大きく伸びをしたコルカは部屋の大鏡の前に立って着替え、髪を梳かし始めた。身だしなみを整えながらコルカがぼんやり考えるのは、最近あった一つの嫌な出会いと、昨日にあった一つの素敵な出会いと、その日の夜に再びあった一つの複雑な出会い。とりわけ今思い出すのは三つ目の出会いだった。
「顔にはそれなりに自信があったんだけどなぁ……あんなに綺麗な肌を見ちゃうと、やっぱりこのそばかすが恨めしい……!」
自分の頬の上部にうっすら浮かぶ雀卵斑(じゃくらんはん)を親の仇のように恨めし気に睨んだコルカは、やがて諦めたようにため息を吐きながら鏡に映った自分の体を見る。自慢ではないが、平均を超える程度には女性的なラインをしている自負がある。実際、男性にはそれなりに言い寄られることがある。しかし、それも今のコルカにはご不満だった。
「プロポーションは勝ってると思うんだけど……やっぱり気品? みたいなのがなぁ……」
彼女が先ほどから自分と比較する対象は、現在宿に泊まっている一人の少女だ。
端正な顔立ちに、人形のような美しさと女性らしい柔らかさを両立させた華奢な体。何よりもその全身から放たれる「わたし、育ちがいいんですのよ?」と言わんばかりの気品。それでいて人を見下した嫌味な部分はなく、時折いたずらっ子のような笑顔を垣間見せるチャーミングな性格。
少女の名はセドナ。セドナ・スクーディア、だっただろうか。
スクーディアと言えば知っている。王国内の長者番付で常にトップスリーに名を連ねる程の途方もない資産家の一族で、基本的に成り上がりの商家を下に見ている貴族たちさえこの家の前には態度を改めると言われている。国土のわりに富豪の多いこの国でトップクラスというのは、世界でもトップクラスという事である。
「相手は超一流の上流階級で育った超一流パーフェクトお嬢様……かぁ。そりゃオルクスさんも好きになるよね」
どこか認めたくなさそうに、コルカはため息を吐き出す。彼女がやけにセドナと自分を比較しているのは、まさにそのオルクス――実は別人だが――と深い関わりがあった。
率直に言って、コルカはオルクスに恋愛感情を抱いている。
あの日――偽物の騎士ヴァルナにとうとう捕まり、強引に手を引かれた時、コルカは逃げることが出来なかった。それは力の差もあるし、コルカがもし逃げたとしても彼女の住む場所――すなわち店長の家の場所は知られている。自分が下手な事をすれば店長までもが被害を受けると思った瞬間、コルカは抵抗しつつも内心で自分に逃げ道がない事を知っていた。
この卑怯で醜くて暴力的な騎士に、自分は奴隷のようにされてしまう。
それが恐ろしくて、でも店長にも迷惑をかけたくなくて、せめてのも抵抗で男が諦めるのを願ったが、その甲斐もなく強引に引き連れられたあの瞬間。
『女性を無理やり引き摺って脅迫染みたことを喋る輩を目の前に、文句がない訳がないだろう。女性にはもっと優しくするものだ』
男たるもの、婦女子に優しくすべし――そんな古びた綺麗事を馬鹿正直に通す男が現れた。自分より少し年下に見えるささやかな勇者。最初はそれを無謀、或いは蛮勇と肝を冷やしたが、その予想は彼が剣を見せたことで覆された。
騎士という存在に絶望していた自分が、騎士に助けられた。
これが本物の騎士の志、覚悟、そして心強さ。
コルカに手を差し伸べた若き騎士に、もうコルカは危うさなど感じなかった。むしろ、その後に年上であるこちらに敬意を払うような態度を見せる彼の騎士らしさや、時々垣間見える年下っぽい可愛さに夢中になってしまった。
でも、一つだけオルクスの言葉で深く傷ついたものがある。
セドナ。その女性の名を出すオルクスだけは、コルカの胸に鋭い棘が刺さるような痛みを感じさせ、見たくも聞きたくもなくなった。それは、オルクスの意中の女性の名前だった。顔には出さないように努めて明るく振舞ったが、オルクスが店を去った後にコルカは俯いた。
その時だ。まだその痛みの意味を理解できないコルカに、店長がこう言った。
『好きになったのかい、コルカちゃん?』
『えっ――?』
『騎士オルクス様に惚れちゃったんだろう? 見れば分かるよ』
惚れる――そう言われて、そうなのかな、とやっと自覚する。
今までも人を好きになったことは数度あったが、これまでとは全く違う胸の高鳴りだったので恋だとは思っていなかった。でも、セドナという女性の話を聞いた時に感じたこの痛みは、もしかして、自分の居場所が彼の隣にないことへの――。
『って、告白する前にフラれてるじゃん……オルクスさん、セドナさんって人が好きなんでしょ? はーぁ、短い恋だったんだなぁ』
考えてみればあちらは騎士で、こちらは平民。
しかも聞いたところでは件のセドナも騎士のようだ。
騎士といえば基本的には特権階級、そうでなくても平民のトップに君臨する超エリートだ。所謂「身分違い」、或いは「勝ち目なし」ということなので、そう思えば諦めはつく。
そう、思っていた。
でも、火は自分では消したつもりでも風が吹けば再び燃え上がる。
『えーっ! 諦めちゃうのぉ!? 勿体ないよそれー!』
常連のお客さんだった女性の一人が、コルカの風前の灯に風を吹き込み、逆に燃え上がらせた。
『だってだってー、ピンチに駆けつけてくれた騎士様と恋に落ちてゴールインとかすっごいロマンチックじゃん! それに騎士様ってー、そのセドナって子が好きではあるけど付き合ってるんじゃないんでしょ!? ならコルカちゃんにも全然チャンスありじゃん!』
『えぇぇ……? で、でもぉ。オルクスさんが惚れるような素敵な女性相手じゃ勝ち目が……』
『あーもうっ! 恋に勝ちとか負けとかないし、挑むんなら誰だってタダでしょ!? いい、コルカちゃん! 恋っていうのはフラれたらもちろん後悔するけど、声をかけきれないまま男が別の女とくっついたらその何倍も後悔することになるの! ……あの霧の日の夜の如くっ!!』
そこはかとなく私情が混ざってるような気もしたが、それはさておき。この女性客の気迫に煽られた別のお客さんたちもこれ幸いと一気に盛り上がってしまった。やれ「意中の人を捕まえるなら引いちゃ駄目だ」、やれ「コルカちゃんの愛嬌なら逆玉狙える」……皆が皆、人の恋を無責任に囃し立てる。
正直、この時少しだけ心が揺れていたのは確かだ。
イイ女になるためにやってきた努力を見せる時……つまり、自分はこういう時の為に慣れないことに挑戦してきたのではなかったのか。コルカの心は躊躇と前進の狭間で揺れ動いた。
最後に天秤の傾く先を決めたのは、敬愛する店長の一言だった。
『僕はいつだって君を応援してるよ。勿論、恋の話もね?』
『……分かりましたっ!! よぉーし、玉砕覚悟でツッコんで参りますっ!!』
こうして、自分でも単純だと思う理由でコルカはオルクス(偽物だが)への恋に突っ走ることを決めた。まだ偽ヴァルナを捕まえる為に暫くはこの町にいる筈だし、いっそ次に出会った瞬間に告白してしまおうか。そんな気概さえあった。あったのだが――。
「その、同級生のセドナだ。一緒に、あー……例のヤツを捕まえる為に共同戦線を張ることになった」
「こんにちは! オルクスくんの同級生のセドナですっ! よろしくね?」
(ああ、運命の女神よ。ホンット性格ひねくれてるっていうか根性ねじ曲がっているっていうか……!!)
おおよそ考えうる限り最悪のタイミングでの恋敵の襲来に、流石のコルカも一瞬視界が白く染まった。唐突な難易度の急上昇は夏の積乱雲の如く圧倒的な高さに積み上がり、コルカはその逞しい気概を盛大に縮められてしまったのであった。
「いっそもっと高飛車で嫌な女だったらこっちも気が楽だったのに……枕投げではしゃいでる所とか普通に可愛いし、顔面に枕ぶつけても怒りもせずに『やられちゃったー!』ってはしゃぐし、散らかったリネン室を私より丁寧に片づけてるし。ここまで文句の付け所が少ないと逆に腹立たしいわよ!」
現在、その戦力差はコルカ視点では圧倒的の一言に尽きる。
もしもコルカとセドナが同時に同じ酒場で働き出したら、そりゃセドナが客を集めるだろうと容易に想像が出来る程だ。まだ猫を被っている可能性にちょっぴり賭けているコルカだが、どちらにせよ戦局は圧倒的に不利だ。
「うぅん、でも実際問題どうやってオルクスさんにアピールしよ……まだ二十歳いってなさそうだったよね? それくらいの年頃の男の子の流行とかは知らないし……ま、いっか! 行き当たりバッタリで!」
基本的に勢い任せ。コルカはかなり大雑把な女だった。
しかし、最初のアピールチャンスは案外と早くやってくる事を、この時の彼女はまだ知る由もなかったのである。
◇ ◆
さて、基本的に勢い任せなコルカだが、逆を言えば勢いを殺されると弱いとも言える。
「あ、おはようございます! えっと、コルカさんですよね?」
「えと……おはよう、ございます。その、スクーディア様……」
もしこれが口うるさい特権階級相手なら接客態度がなってないからつまみ出せとか言われてもしょうがない程にどもってしまった。なぜ、よりにもよって朝の一番に見る顔が恋敵だのだろうか。昨日とは違って髪を後ろで結っているセドナの曇りなき笑顔に、コルカは内心で運命の女神を睨みつけた。女神は「私のせいではないですよ!?」と無実を主張した気がする。
「あの、姓の方で呼ばれるのってあんまり好きじゃないのでセドナって呼んでくれると嬉しいです!」
「し、失礼しました。……セドナ様」
「そして様じゃなくてもいいですよ? ヴァ……オルクス君はさん付けなのに私だけ様っていうのもちょっとオルクス君に悪い気がするし」
指先を口に当てて考えるような仕草をしながら、彼女はやんわりと敬称のランクを下げていく。これが特権階級の中でも心に余裕のある人間の証なのか、はたまた本人がそういう気質なだけなのだろうか。それにしてもこんな時間に部屋の外を歩いているのは何故だろうか。
「あの、朝食は準備中ですが、何が御用が?」
「いやー、この時間になると自然と起きちゃうんですよ。騎士は体が資本なので、朝は軽い運動とか素振りとかする人が多いんですよ? とはいえ町中のお部屋で出来るのは簡単なトレーニングだけですケド。多分オルクス君も今頃逆立ち片手指立て伏せとかしてるんじゃないかな?」
「そんな事してるんですかオルクスさん!? というか出来るんですか!?」
「ああ見えてオルクスくんの背中、ムッキムキだからね!」
何故か自分の事を自慢するようにウィンクして親指を立てるセドナ。
聞いているだけで指が折れそうなトレーニングが出来るオルクスの凄さにも驚いたが、背中がムッキムキだったと証言するセドナも気になる。見たり触ったりしたことがあるような口ぶりだったのだが、もしやオルクスが思っている以上に――というかコルカが思っている以上に、セドナとオルクスの距離は近いのではないのだろうか。
(まずい……これはもっと直接的な女子力の差を見せつけないと勝てない! 育ちのいいお嬢様に勝てる私のスキル……料理家事洗濯とか!? でも、そんなのどうやって示せば――)
「おーい、コルカちゃん!」
「……え? あれ、店長?」
コルカの焦りを和らげるのんびりとした声が背後からかかり、思考は中断された。振り返るとそこには見覚えのある店長の顔があった。ただし、顔から下には少しだけ違いがある。今日のこの時間となると店長は朝食作りに勤しんでいるためエプロンをかけている筈なのだが、それがない。更に、店長の右手を良く見ると、赤黒い染みの浮かんだ包帯が指に巻き付けられていた。
「ど、どうしたんですかその指!?」
「いや、うっかり包丁を研いでる途中で切っちゃってね……悪いんだけど、今日の朝食はコルカちゃんにお任せしていいかな?」
「店長が、包丁で指を? そんな凡ミス店長がする筈が……」
店長が自分の包丁で自分の指を切った所など、コルカは一度も見たことがない。そもそも料理に拘る店長は包丁の扱いに関してもプロ級のこだわりを持つ。そんな人が刃物の扱いを取り間違える事など本当にあるのか――そう考えて、はっと気付く。
まさか、店長は嘘をついてるのではないだろうか。
指を怪我したというもっともらしい理由をつけてコルカに仕事を押し付ける。いや、押し付けるのではなく、これはチャンスなのだ。コルカがオルクスに料理が出来る家庭的な女性である事をアピールする絶好の機会を、店長は用意してくれているのだ。
店長の目を見る。そこにはお願いするときの申し訳なさそうな気持ちではなく、娘を見守る父親のような優しさが感じられた。ありがとうございます――内心でそう呟き、コルカは力強く頷いた。
「……いえ、わかりました! 今日の朝食は私が用意しますね!」
「じゃあ私も手伝っちゃうよ!」
「……え?」
聞き間違いだろうか。今、お客さんの立場にある筈のお嬢様が「自分も厨房に立つ」と勢いよく名乗りを上げた気がする。気のせいか。いやいやしかし、こんな大声で幻聴というのも。や、早まるな確認するまで真実は分からない――等と勝手に焦りつつ恐る恐る視線を滑らせると、そこに見事に聳え立つ挙手を携えたセドナの姿があった。
彼女はこちらの視線に気付き、少し不安げにこちらを見上げてくる。自分が客として勝手な事を言っている自覚はあるようだが、それでも彼女には遊びではない理由があって名乗り出たようだった。
「えっと、ダメかな? 店長さんにもコルカさんにも昨日のワガママに付き合って貰っちゃったからお礼したかったんだけど……」
「――もちろん、大歓迎ですよ?」
「え? ちょ、店長!?」
唐突に権力に屈した店長かと一瞬疑ったが、すぐさま店長はコルカの耳元で小さく囁く。
(落ち着いて、コルカちゃん。これはある意味実力差を示すチャンスだよ。それに、二人きりで喋れるならこっちからオルクス様の情報を引き出せるチャンスだ。これに乗らない手はない!)
(さ、流石店長……そんな深い意図があったなんて! 私、頑張ってセドナさんに勝ちつつ情報を手に入れて見せます!)
こうして、オルクス(偽)の預かり知らぬところで二人の乙女が最初の戦いに乗り出した。
なお、その片割れにして勝負を仕掛けられている自覚が一切ないセドナはというと。
(なんだろう、店長さんの指から微かにトマトケチャップとソースを混ぜたような匂いが……)
店長の巻いた包帯に微かに滲む赤黒い色から、妙に食欲をそそられる匂いがする事に首を傾げていた。
◇ ◆
これより先は戦場である。
相手の腹を読み、猫を被り、寝首を掻いてもそれが正当だと称賛される。倫理と善悪がねじ曲がり、人を狂気に陥れる混沌と暴虐の坩堝。そこに一切の過ちも休息も許されない。五感の全てを余すことなく使いこなし、未知という未来を創造する。
――古人曰く、台所は戦場である。
(………というぐらいには覚悟を決めては来たものの)
「~~♪ ~~♪」
ちらっと横を見たコルカの視線の先では、一人用のキッチンを器用に使いこなしてパンケーキを焼くセドナの姿があった。何でもセドナにとってパンケーキは好物であると同時に思い出の品らしく、この町の蜂蜜が美味しいと聞いてぜひパンケーキにかけたくなったのだそうだ。
パンケーキ。正直、作るのが非常に簡単なので料理と呼べるものかと内心で思った。そんな一品女の子っぽい品が作れるだけでキッチンに立たれるのは料理を学んだ者として納得いかない気分になる、とコルカは少し彼女の料理の腕に懐疑的な感情を持っていた。
しかし、パンケーキの調理に取り掛かるセドナの指先がまるでピアノを奏でるように軽やかで淀みない手際なのを見て、コルカは内心でショックを受けた。あれは明らかに相当作り慣れた者の手際である。まさか教養の高い人間は料理の腕まで違うと言うのか。
「あの……料理、お得意で?」
「得意って訳じゃないけど、好きかな……ほいっと!」
器用に手首にスナップを効かせ、セドナの焼いていたパンケーキが綺麗に宙返りした。そんなお洒落な方法使わなくたってパンケーキは焼けるもん、と謎の対抗意識が胸中に浮かぶが、そんな事を考えている自分が虚しくて言うのはやめる。
ちなみにコルカは現在ハニーマスタードサラダに入れる鶏肉の下処理中だ。此方の方がある意味ではメインなのに、セドナを見ていると何となく自分の方が地味な作業をしているように思えてくる。
(あれーおかしいなー。私ってこんなにネガティブな人だっけ?)
「……? どうかしましたか、コルカさん?」
「え? ああいや、特権階級のお方ってお料理も学ばれるのかな~……なんて」
「お家によると思うけど、わたしのは趣味みたいなものですよ? 作るとパパや皆が嬉しそうに食べてくれるから、それが嬉しくて次はもっと嬉しくなるようにって頑張ったの!」
(ううっ、なんて健全な上達……! ま、眩しい! 男にモテたくて料理始めた自分とのギャップが眩しすぎて直視できない……っ!!)
まるで太陽の光を一身に浴びる向日葵のように満開の微笑みに早くも目が焼かれそうだ。お嬢様は行動の理由まで超一流だというのだろうか。しかも家族と左程仲が良くないコルカとしては家庭環境からして正反対である。特権階級社会は教育が厳しいと聞いていたのに、セドナの話からは暖かさしか感じられない。
「……ただ、あんまり料理しすぎるとお屋敷のコックさんのお給金が減っちゃいそうだったから、こんな風に手際よく作れるのはお菓子系ばっかりなんです」
「そ、そうなんですね……」
「オルクスくんも料理は出来るけど、何でもかんでも香草焼きにしちゃうんですよね。すごく美味しいけど本人曰く他の調理法は知らないって……」
内心で「屋敷の使用人にまで気遣いできるとか……」と変な方向に打ちのめされていたコルカだったが、オルクスの話を聞いてやっと本分を思い出す。そうだ、自分はここで料理をする以外にもオルクスの情報を聞き出すという立派な狙いがあるのだった。
「そ、そういえばオルクスさんの好きな物とか食べられない物を聞いてなかったですね! セドナさんご存知だったりしますか?」
「嫌いなものは……聞いたことないなぁ。甘くてねっとりしたものはそんなに好きじゃないって言ってた気がするけど、蜂蜜は大丈夫だと思います。好きな物は鶏肉だから、きっとコルカさんのサラダは喜ぶと思いますよ? オルクスくんの住んでた土地では鶏肉はお祝い品で、好物だって言ってましたもん」
「そうなんですか……オルクスさんのこと、色々とご存知なんですか?」
「え? あ、うん。そこそこ知ってるくらい、かな?」
そんなに詳しく知りません、という態度にも見える濁った返事に、コルカはまたネガティブな事を考えそうになる。大して知らない人から情報を聞き出そうとするほど相手の事を知らない自分って一体……とも思ったが、これから知ればいいかとコルカは開き直った。
(しかし、オルクスさんがあんなに真剣に想っているのにセドナさんって本物の方の騎士ヴァルナと懇意なんだよね? 男を見る目が足りないのかなー……あんなに素敵な人なのに)
――実のところ、セドナが口ごもった理由は「オルクスとヴァルナの『設定』の線引きをどの辺にすればいいだろうか」というものだったりする。あんまり設定を本物のオルクスに寄せすぎると協力しているのに人間関係がアンバランスになるので程よくヴァルナの要素も入れている、彼女の何とも言えない匙加減である。
そんな事実は露とも知らないコルカは、「ま、それはそれで私が有利だからいいか!」と考え直した。
基本的にその場の気持ちで進む。
コルカは決断力という名の大雑把を使いこなす女だった。
「ね、ね、セドナさん。オルクスさんって普段はどんな人なの?」
(え!? そこを深く聞かれるとボロが出そうで怖いなぁ……ええと、オルクスくんは貴族出身だけど今のヴァルナくんは平民騎士って感じだからそれに寄せて……あーもう! 何で偽名なんか使っちゃったのヴァルナくん!?)
内心の動揺を態度に出さないよう努めながら、セドナはあまりプライベートに踏み込まない範囲でヴァルナの事をオルクスとして語る。
それにしても、とセドナは思う。ヴァルナが最強騎士だから知りたがる人ならば今までにも多くいたが、そうとは知らずにこんな風に聞きに来るというのは、それだけ剣を抜きにしたヴァルナという一人の男も魅力的なのだという事だろうか。
(ふふふ、そこに気付くとはコルカさんって見る目のある人だよね! あーあ、偽名じゃなかったらもっとたくさん教えてあげられるのになー♪)
……恐らくコルカ本人が聞いたら「自分の方がオルクスさんの事を良く知ってるっていう自慢かぁー!?」とわなわな震える内容であることを、セドナは知らない。事実、そういった思いもない訳ではないだろうが。
ともかく、これに気を良くしたセドナと元々人懐っこいコルカのトークは料理をしながら盛り上がり、オルクス(偽)が起きてくる頃には「ねーセドナちゃん!」「ねーコルカさん!」と本格的に仲が良くなっているのであった。
(なんか短期間で滅茶苦茶距離縮まってる……女子ってこういう所あるよなー)
(コルカちゃーん!? 恋敵と普通に仲良くなってるけど本当に大丈夫かーい!?)
余談だが、朝食のパンケーキもチキンのハニーマスタードサラダも、スープなどその他の料理も大変美味な出来上がりであったという。
尤も、たとえ出来上がったのが暗黒物質でも作った人の顔を見れば大抵の男は美味しいと言いそうな気もするが。特にセドナが暗黒物質の使い手だった場合、世の中にはもっと不幸が溢れていたかもしれない。
料理対決、結果――引き分け。
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