第78話 旅立ちの一歩です

 人間の鼻水が垂れる時とはどのような時だろう。

 何か強い刺激を受けて分泌されることもあれば、感極まった時に出てしまうこともある。中には温かいものを食べると鼻水が出る人もいるらしいが、残念なことに最後の一つの原因をこの世界の学者は興味のないものとして放置している。


 だが、ここで敢えて古典的な例を挙げるならば――鼻水とは寒い時にクシャミなどと同時に勝手に垂れてくるものである。


「ブェーックションチキショー!! うう……寒ぃよぉ……」

(予想通りと言えば予想通りだけど完全におっさんのクシャミだ……)

「なんか思ったかぁ、ブッセぇ!? ……ブェーックショイ!!」

「いえ、スープを持ってきたので飲みましょう? あと鼻水拭きましょうね?」


 全身を毛布でくるみながらガチガチと震えて鼻水を垂らすアキナの姿には威厳はもちろん怖さの欠片も存在しない。湖に落っこちてからというもの、アキナは完全に風邪をひいていた。加えて湖の想像を絶する寒さがトラウマになってしまったのか必要以上に寒がっている気もする。それが証拠に熱は少しずつ下がっているとフィーレス先生は言ってたし。


 アキナが湖に落ちた事を「僕のせいだー!」などと二日前までは思っていたブッセだったが、彼女の看病をしているうちに段々と距離の取り方や纏う空気が理解出来てきたのか今ではアキナが睨んでもそこまで動じなくなってきていた。


「俺は人生で一番つらい死に方は餓死だと思ってたが、こここ今回の件で気が変わった……ここ、こんなクソ寒い土地で生きていくなんてお前らどうかしてるぜ! 南に住め、南に!」

「嫌ですよ、生まれた時からずっとこの寒さと一緒ですし……それに南って暑いんでしょ? イスバーグなら夏は涼しくて過ごしやすいんですよ」

「うぇぇい、嘘だ嘘! お前らは俺の知らねぇ寒さの耐え方とか知ってんだろ! 教えろ! 教えねぇと殴るぞ!!」

「んー、そうですね……」


 殴るぞと言われても全く動じないブッセの姿を見ればきっとキャリバン辺りは「ここ数日ですっかり立派になって……」と感動し、セネガなら「これでブッセくんをアキナ班長にけしかけることが出来る……」とよからぬ笑みを浮かべるのだろう。

 尤も田舎育ちでおじいさんとしかまともに喋っていないブッセにイタズラ心など芽生える筈もないのだが、同時にデリカシーというモノも足りない訳で。


「一般的に言うのは、遭難したときは少しでも熱を逃がさないために体をくっつけ合って寒さを凌ぐっていうのですね! 試してみます!?」

「あばばばばばばばバッ馬鹿野郎ぉぉぉーーーッ!? お、おまっ、男と女でそんな、え、エロガキぃっ!!」

「ちょ、何言ってるんですか! 合理的な生存戦略ですよ! エッチな要素なんてどこにもありませんし、動物だってやってる事なんですよ!?」


 体をくっつけるというワードに思春期女子並みに過剰反応するアキナの変な方向での初心さはどうにかならないのであろうか。年齢=彼氏いない歴と言って過言ではない彼女の男女観は残念にも程があった。


「そんな事言って本当に遭難したときどうするつもりですか! ほら、一度僕でやってみましょう! 何事も経験です!!」

「わぁぁぁーーー!! 近寄るな毛布めくるな中に入ってこようとすんなぁぁぁーーーッ!!」


 ブッセに悪気はない。

 繰り返すが、ブッセに悪気はない。

 彼は本気でアキナがもしも遭難したときの事を心配して全力の善意でやっている。アキナとは違って女性と接する時間が圧倒的に足りなかったブッセの察しの悪さもかなり残念であった。


 なお、この下らなすぎる攻防の勝敗は、毛布をくるみすぎて身動きが取れずに自滅したアキナが普通に敗北。様子を見に来たヴァルナが目撃したのは、二人羽織のように毛布にくるまって「ね、温かいでしょ?」と笑うブッセと「ううううう……うううーーー!」と声にならない声を上げて恥がしがるアキナの姿だった。

 ヴァルナは、無駄にヘビーでメタルなブッセ邸の扉をそっと閉じた。


 やがて時間は経過し、翌日にはかちんかちんに冷凍された白い巨大オークの死体が湖から引き揚げられ、「浄化場の倉庫には収まらない」という事から整備士のライが一晩でやってくれた増設のコンテナに雪と共に詰められたことで騎士団の義務は一応の終わりを見る。

 村の建物は直せる分は直し、回収出来る家具類は回収し、後はもう村の大工の仕事だけ。お詫びがてら「浄化場」で精製された非常に上質な土を提供するのが精いっぱいだった。オークの毒素を抜いた死体を魔法で分解したオーク肥料である。製造方法がグロイ気もするがイスバーグの皆さんには黙っておこう。


 何はともあれこうして騎士団とイスバーグ村の別れの時が来たのである。

 出発の日、ローニー副団長とファーブル村長は硬い握手を交わす。互いに代表として様々な話し合いをし、時には酒の席も交わした二人は既に気の知れた相手だ。気が知れるとそれだけ話し合いで言葉が尽くせるし連携も出来るのを、副団長はよく知っている。


「今回の事は何とお礼をしたらよいか……このような寒村にわざわざ騎士団の方々が来てくれなければ、我々はあの巨大オークはおろか巨大熊にも対抗することは難しかったでしょう。これで我ら猟師も枕を高くして眠れます」

「いえいえ、騎士としては当然の行為ですよ。むしろ今回、相手の動きを読み切れずに村に被害を出してしまったことが申し訳ない」

「なに、生きた獣のすることです。人間には読み切れない天災だと思えば、犠牲が出なかっただけ上等上等。木を切って建て直せばいくらでもやり直しは出来ます」


 それはお世辞や遠慮ではなく、決して便利ではないこの土地で暮らしてくら彼らだから自信満々に言える事だろう。この村はどこか、王都に広まる金銭中心の世界とは違う価値観が残っている。


 ――ブッセくんの件とかも、残念ながらそれに入ってしまうのだが。


「……お世話になりました、ファーブル村長。僕の家の鍵は念のために村長に渡しておくので、使いたいときは遠慮なく使ってください」

「うむ。どれほど時間がかかるかは分からんが、田舎では滅多にない機会だ。好きなだけ外の世界を見てきなさい」

「……帰ってきたら、僕の父さんの話も聞きたいです」

「成人になったらな。さ、もう行きなさい。こうして喋っていると後ろ髪をひかれるばかりだぞ?」

「はい……」


 村長と言葉を交わし、ゆっくり別れていくブッセ。その背には何の言葉も飛んでこない。行ってらっしゃいとも言われず、いつぞやの八百屋の女性のような罵倒する声もない。顔は一応笑っているが、その面の皮の裏には明らかに「早く行ってくれ」と書いてあった。

 ブッセくんも何も言わない。ただ、その笑顔には幾何かの失望が混じっている気もした。理由も分からず差別され、この間は村の為に小さな体を戦場に晒す覚悟まで見せたのに、表立ってそれを労ったのは村長くらいだった。


 やがてブッセの足はやっと風邪とトラウマから立ち直ったアキナ班長の前で止まる。


「行きましょう。長くいると寒くなっちゃいますし」

「先に行ってろ。俺には大事な用事があるからな」


 そう言ってブッセ君の肩を叩いた班長はいい笑顔をしていた。


 ……あれ、何故だろう。俺にはあの笑顔がなにか悪だくみの類を考えている性悪フェイスにしか見えないのだが。ザトー副班長もその顔に不審げな表情をしたが、その瞬間に彼女を止められなかったのが致命的だった。

 ご機嫌そうに前に歩み出たアキナ班長は、すぅー、と大きく息を吸い込み、次の瞬間目を見開いて叫ぶ。


「あっれぇぇぇーーーー!? 身を挺して村を救ったブッセくんに皆さんまさかの一言もない!? 恩人に対して感謝も碌に出来ない!? はぁぁーーー、終わってるなーーーー!! 何がとは言わないが終わってるなーーー!! こんな村頼まれたって二度と来たくなくなるぐらい終わってるわぁぁぁーーーーーーっ!!!」


 ――寒さとは別の理由によって、空間がビシリと凍り付いた。


「や……やりやがったこの人ォォォォーーーーッ!!?」

「思ってても言わない事を平然と言っちゃうとか神経を疑いますよ!?」

「あ、悪だ……他人を不快な気分にさせる泥沼のような悪意……!!」


 そう、何を隠そうアキナ班長は性格が最悪である。今までの言動を考えれば村に対して暴言を吐くのは当たり前で、最後の別れの場なんて言い逃げ出来る絶好の煽り場ではないか。これはもう予想できたのに止められなかった騎士団の失態である。

 これにはローニー副団長も天を仰ぎ、ファーブル村長も唖然の表情。しかも、ここですたこらさっさと逃げずに煽りを続けるのがこの人の凄い所だ。


「な、元はと言えばブッセが村にあの毛皮を持ち込んだのが騒ぎの理由だろ!?」

「はぁーーー? そんなの結果論ですしぃぃーーー! 大体ブッセは自分でケツ拭く為に立ち上がった訳だから? お礼を言わない事とは話が別なんじゃねーかなー!?」

「何だよ、どうせ放っておいても騎士団がどうにかしただろ!!」

「そーだなー、どうにかしたなー! でもお前らがもっとブッセの話してればブッセの家の近くに湖あること分かって余計が被害が出ずに済んだかもなー! あーブッセがいてよかったわー!!」

「おいおいおい!? さっきから聞いてりゃアンタ本当に騎士かよ!? 俺たちの悪口ばっか言ってて恥ずかしくないのか!! 祖国に!!」

「ああん? 国なんぞどうでもいいわ! 俺の気分が俺の行動の全てだ!!」

「主を度外視してらっしゃる!? 最悪だこの人ぉーーーッ!!」


 というかこれ、ヤガラに聞かれたらまずい内容なのではと思って咄嗟にロック先輩を見ると、既にヤガラに例の酒を飲ませてKOさせた先輩がサムズアップでいい笑顔をしていた。その手際の良さをもう少し仕事にも活かしてほしいものだが、取り合えずグッジョブだ。


 ブッセは荷物を雪に落として呆然としていた。

 どう考えてもこれはアキナ班長がブッセと村の縁を切らせるために行った悪辣すぎる作戦である。既に村の一部からブーイングの嵐が起きているが、乗せられてブッセへの悪感情が引き摺り出されている時点で班長の掌の上で踊らされている。


 だが、焦る半面でどこかこの光景を冷めた視線で俯瞰している自分もいる。ブッセくんが何故村の中で差別されているのか原因は掴めていないが、それは絶対に正当な理由ではないし、そもそも差別に正当性があるとも考えたくない。

 これは、騎士から村への問いかけだ。貴方たちは人道に反しているが、それをどう考えているのかという問いだ。アキナ班長は流石にそこまでは考えが及んでいないだろうが、俺もここではっきりさせておきたい。


 俺はこの村を守ったことに対して、誇りを持てるのか?

 騎士として抱くべき疑問ではないことは分かってる。でも青二才の俺はその答えだけが知りたかった。遊雪部隊DDの面々も、他の人々も、ブッセの件以外では本当に普通で善良な人々だった。本当にそれが皆の正しい姿ならば、アキナ班長の問いかけに何かの答えを出すべきだ。


「で、どうなんだお前ら? 本当にブッセに言うことはなんにもねーのか?」

「――ある! あります!!」


 手を振り上げて叫びながら、前に進まない民衆を掻き分けて出てきた一人の男。その表情に怒りや蔑みといった感情はなく、俺は少し安堵しながら誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。


「意地悪なこと言った甲斐はあった、ってことかな」


 その男は遊雪部隊DDのリーダーで何度も行動を共にした、ピッケルトだった。

 熊との戦いでその人の好さを知り、そしてオークの巣に行く直前に『ブッセに出ていって欲しいのか?』と問うてみた男の、答えだった。


「ブッセ。俺たちはお前のこと、ちょっと誤解してたみてーだ。俺たちも騎士団の手伝いはしたけどよぉ……なんつーの? 道案内とか雪掻きとか罠掛けばっかで、実際には化け物の顔すら見てねーんだ。お前と違って本当の恐怖と戦わなかったんだよ」

「で、でもそれは――」

「言うな。騎士団の人達に余計な真似をするなって言われてたのは、そりゃああるさ。でもな、俺たちDDは怖いものなしみたいな面してて、内心では化け物との戦いを騎士団が請け負ってくれることにホッとしてたんだよ」


 ピッケルトの顔は真剣そのもので、彼の言葉に他のDDメンバーたちは苦い顔をした。自分たちのリーダーが語ったその言葉は、紛れもなくDD全員が内心で抱いた思いなのだ。それは別におかしなことではないと俺は思う。普通に暮らしている人間が自分から危険に近づきたがることはそうそうない。


「俺さ、端っこの方にいたから気付かなかったかもしれないけど、化け物が襲ってきたときに村長の家に避難してたんだ。騎士に任せて大人しくしてようって自分に必死に言い訳して、嵐が去るのを待ってた。お得意の罠もあんな化け物相手じゃ役に立たないって思いこんでた。でもお前は違った」

「僕は……怖かっただけです。僕のせいだって思ったから」

「自分のせいだと思ったら、普通逃げる。なのにお前ってやつは自分から囮になったり、湖を使ったトラップを思いついたりしてよぉ……俺は悔しかったよ。俺が同じ立場になったら絶対真似できねぇ。お前は俺たち遊雪部隊DDよりよっぽどスゴいことしたんだ」


 それは正当性の話ではなく、自分はこうありたかったという願望の話だ。感情論だから下らないと切り捨てられるような意地が、本当は人にとって何よりも重要な話なのだ。だからこそ、ピッケルトは黙ってブッセを見送るだけの臆病な自分が嫌になって、枠を一つ股越した。


「これ……ヴァルナによると流行遅れらしいんだけど、遊雪部隊DDのメンバーの証の帽子だ。お前にこれを預ける」


 押し付けられたショッキングピンクの帽子。それを持つというのは、部隊のメンバーと一緒に雪遊びを追求してもいいという許可証のようなものだ。ピッケルトと帽子を何度も見比べたブッセが、震える声を漏らす。


「でも、これって……僕、まだこれを受け取れるほど皆さんの事を知れてません!」

「俺たちだってそうだ。だからこそ持っててくれ。そしていつかソイツを返しに来た時に……その、なんだ。改めて一緒に遊べたら、お前もDDの一員ってことになる……と思う」

「そこは自信たっぷりにビシっと決めろよヘタレ」

「なぁっ!? ヴァルナ、てめー!!」


 肝心な所でヘタレるものだからつい口を出してしまった俺は、間髪入れずにピッケルトが投げてきた雪を紙一重で躱しまくる。ふはは、見える見えるぞお前の動きが。俺の流水の如き柔軟な動きは捉えられまい。


「チクショー何でこの至近距離で当たらねぇんだ!!」

「はっはっはっ。お前とは訓練の量と質が違うんだよ! 俺王国最強~、お前田舎っぺ~♪」

「めちゃくそ腹立つ!?」

「……くすっ、あはははっ!」


 余りにもふざけ過ぎた光景に、ブッセくんは笑い出す。

 つられて俺とピッケルトも笑い、騎士団と村人からも失笑が漏れる。

 やがて全員が笑い出し、いつのまにかブッセくんと村との間の嫌な空気もなくなっていた。


 もしかすればそれは一時的なもので、なくなったわけではないのかもしれない。その場の雰囲気に従って心の内に仕舞い込まれた本音は、きっと忘れた頃に――それこそ次にブッセくんがこの村に戻ってきた頃にでも再び姿を現すだろう。

 ブッセは今、問題を解決したのではなくて、解決するための土俵に入ったのだ。

 それでも、これが大きな一歩であると俺は思いたい。


 こうして騎士団に新たな顔ぶれを迎えつつ、難敵の巨大オークを討伐した俺たちは王都への帰路についた。


「俺の予想してた展開と違ぇ……でもなんやかんやでブッセが納得しちまった以上、今はしょーがねえか。あー、なんかやる気でねぇ。ザトー、コーヒー淹れろ」

「自分で淹れろグータラ班長……」

「マジか。めんどくさい上にコーヒー飲めないとか絶望的だから寝るわ」


 アテが外れたのか複雑そうな顔をしたアキナ班長がしばらく職務放棄して不貞腐れたという小さな事件も一緒に乗せて。いや、働いてください。





「ところでアキナ班長、結局何でブッセくんは除け者にされてたんですかね?」


 騎道車に戻る道の途中、俺は結局追求することのなかった疑問を班長に投げかけた。

 確信があった訳ではない。しかし、ああも堂々と村に不快感を露にする班長の態度には、当人の好み以外の何かが混ざっていても不思議ではないと思ったからだ。

 果たして、その返答は恐ろしく無感動で、底冷えするほど冷たいものだった。


「知る必要も理解する必要もねえよ。あいつらはあのまま山村に永劫閉じこもってりゃいい」


 決してブッセくんに顔も声も届かないように囁いたアキナ班長の目は、心底から愛想が尽きたように見えない何かを見つめていた。


「あんな仲直りごっこでもブッセはひとまず納得したようだから、今はあれでいい。今伝えてもあいつは信じねぇ。だが――」


 そのまま顔を背けたアキナ班長はぼそぼそと何かを言い、特大のくしゃみを放ったのちに「言いふらすなよ」とだけ釘を差し、それ以上語ることはなかった。

 風が強かったためなんと言ったのか正確性に自信はない。

 ただ、自分の耳を信じるならば、彼女は「必ず後悔する日がくる」と言った、気がした。

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