第36話 正しさと正しさも衝突します

 殴る。ただその一言だけが頭の中を駆け巡り、迸る怒りが疲労も痛みも忘れさせて肉体を争いに駆り立てる。昨日まであんなに信じていた大切な兄弟を殴る事に、ガーモンは欠片も躊躇いを覚えていない。


 いや、家族だからこそ怒り狂っているのかもしれない。

 最も信頼していた家族が、自分の夢であり命よりも大切な騎士の誇りを踏みにじったのだ。それはガーモンにとって人生の全てを否定されたような、耐えがたい裏切りだった。


(なんで、どうして、よりにもよってお前が俺を否定する。何故だ、何故だッ!!)


 怒りの余り力任せな殴打で弟の頭を殴り伏せる。

 だが、次の瞬間に顎に強い衝撃を受けたガーモンは訳も分からずたたらを踏んだ。

 その隙を突くようにナギが牙を剥き出しにして吠える。


「うらぁぁぁぁーーーーッ!!」

「グハッ!?」


 ナギの拳は右の頬に突き刺さり、そのまま地面に叩きつけられる。

 遅れて、ガーモンはやっと自分が置かれた状況に気付いた。

 先ほどの大振りの一撃に合わせてカウンターを受けていたからよろめき、そのせいで今のナギの一撃をまともに受けてしまったのだ。


(おのれ、なんて無様な!)


 槍に秀でたガーモンであったが素手の喧嘩をした経験は幼い頃以外はほとんどない。訓練でも多少は習ったが、使う機会がなかった為に完全に錆びついているようだった。子供のころはそれでも体格の勝るガーモンが勝っていたが、既にナギも大人と呼んで差し支えない程に成長した。民兵団にいるなら素手の荒事も経験するだろう。


(無意識のうちに見下してたって言うのか……ナギのことを)


 槍では勝てても、素手では向こうにアドバンテージがある。

 まだ弟に負ける部分はないと慢心していたが故の失態に、歯噛みする。

 いつの間にか自分が見ていない場所ばかりが変わってしまった弟が見下ろしてくる。


「オーク狩りだかなんだか知らねえけどさぁ!! これが俺とアンタの差なんだよ!! 上から目線で威張り腐って碌に見てこなかったアンタの弟は、とっくに兄貴に追いついてたって訳さッ!!」


 だが、この程度の反撃で収まるほどガーモンの怒りは安くなかった。


「だから……なんだぁッ!! 外道に堕ちたお前なんぞに俺が負けられるかぁッ!!」


 殴られた衝撃で頭痛も吐き気もこみ上げるが、それさえすべてを怒りが塗り潰していく。もうナギを殴ること以外に何も考えられない。自分と自分の夢を否定した我儘に過ぎる弟を、許すことができない。


「外道はアンタの事だろうが!!」

「訳の分からないことばかりッ!!」


 弟の全てを否定するつもりでガーモンはナギを殴りつけた。そんな兄を否定するようにナギもガーモンを殴りつけた。後は技術も理性の欠片もない、体力と筋力に物を言わせた殴り合いだ。

 互いに頭に血が上りすぎて碌にガードもせずに顔、腹、腕、手の届くありとあらゆる場所を殴りつけ続ける。口から血が垂れ、顔が腫れて視界が狭まっても尚殴り続ける。殴り、殴られ、倒れ、倒し、大の大人が馬鹿みたいに暴れ狂う。


 やがて疲労と痛みでぼろぼろになるうちに、固く閉ざしていた本音が拳と共に零れ落ち始めた。これだけ殴っても倒れない弟と倒せない自分が苛立たしく、惨めで、一度溢れ出した想いはもう止まらない。


「土産をあげたら気に入らないといい!! 初給料をあげたら要らないと捨てて!! 俺が、どんな思いで、あれを……ぐはッ!?」

「いつも金と物を寄越し、我儘を聞いてやったんだから文句を言わず大人しくしてろってか!? ふざけんじゃねえッ!! 親父とおふくろと同じようなこと言いやがって、あの二人を一番嫌いだったアンタがそうなってんのもムカツクんだよぉッ!!」


 頭突きからのリバーブロー。吐き出す唾に血が混ざる。

 それでも、叫びも拳も止まることなく応酬する。


「俺はそんなもん欲しくもなんともねぇ!! ただ、弟じゃなくて対等になりたかったのに、アンタが話を聞かないからぁッ!!」

「聞いていないのは……お前だぁッ!! 俺の何もかもを否定してッ!!」

「いいや否定したのはアンタだねッ!! 護って言ったくせに士官学校へは迷いなく旅立っちやがったッ!!」


 弟の言葉が突き刺さる。それは、確かに負い目のある事実だった。

 しかし、自分の事を棚に上げて人を批判する弟の姿に結局は更なる怒りがこみ上げる。


「いつもお前は我儘しか言わないでッ!! 俺はお前の召使いじゃないッ!! 俺にだって夢を叶える権利があるッ!! その夢の一部を削ってまでお前の兄でいようとしたのに……お前はァッ!!」

「なんでそれを言うのが今になってんだって話だよッ!!」


 もう、互いに何を主張しているのかさえ曖昧になってくる。

 二人の拳が互いの顔面に直撃し、鈍い音を立てた。

 その衝撃で、二人は同時に無様に尻餅をついた。


 沈みゆく夕日が、もうお前たちには付き合い切れないと呆れている気がした。


「………どうしてお前なんだ」

「……あ?」

「どうしてお前なんだッ! どうして俺の目の前で罪を犯した! どうしてお前が俺の在り方を否定する!! 家族なら夢の一つくらい応援してくれるって信じたのは……俺だけ、だったのかよぉ……っ」


 震える喉と、目頭から零れ落ちる熱い涙が止められない。

 情けない所を見せまいと堪えれば堪える程、それは止まらなくなった。


 体を支配する怒りもまともに働かなくなったガーモンの胸中にあったのは、惨めさだった。弟の為に、自分の夢の為に、出来る精一杯のことをずっと続けてきたのにこの仕打ちだ。これまでに人として、ナギの兄として積み上げてきたもの全てが砂のように崩れ去った今、ガーモンはどうしようもなく自分が惨めになった。


「――それは、俺のセリフだろ」

「え……」

「俺が言いたかった台詞だろッ!!」


 もう争う気力もない兄に対して、弟はまだ爆発させるだけの怒りがあったらしい。次の瞬間、ナギがガーモンの胸倉を全力で掴み上げた。既に体力を使い果たしている筈なのに、手にだけは信じられない程の力が籠っている。


「俺達が家族だってんなら、なんで俺に向かい合ってくれねぇ! 何で俺を真剣に怒らずのらりくらりと躱す!! 家族だったら言えよ、全部ッ!!」


 困惑したガーモンが見たのは、ナギの涙だった。


「爺さんと婆さんが死んでも帰ってこねぇクソ両親の仕送りの金を、兄貴はこの崖から投げ捨てたよなぁ……あんな家族はいらねぇって叫んでよぉ……」

「それは……覚えてる。それまで一応受け取っていた金と違って、あれは二度と拾いにもいかなかった」

「金だけ渡してれば顔を合わせなくても家族面が出来ると思っているあの二人のことが嫌いで嫌いで仕方なかった兄貴はそれからずっと俺を支えてくれた……なのによぉ、騎士団に入ってから兄貴は変わっちまった!!」

「変わった……俺が、か? そんな訳は……俺は今も昔もお前の事を……」


 愛していたし、大事に思っていた。そう告げようとしたのを遮り、ナギは叫んだ。


「確かに兄貴はあのクソ両親と少しは違ったさ! 年に何度かぐらいは顔を見せた! ……だが、それだけだったじゃないかッ!! 俺が風邪ひいたときに、あんた一緒にいてくれたかよ。誕生日の日に一緒にいてくれたかよ。町の仲間が事故や病気でくたばったときに一緒に棺を担いだことが一度でもあったのかよ、ええッ!? ……何一つしてねぇだろッ!!」


 それは、何年も騎士を続けてきて初めて聞く弟の本音だった。

 自分がそうであったように、弟の数年溜まった鬱憤も堰を切って溢れ出す。


「一緒にいて欲しい時も寂しいときも常に国のどっかで豚を狩って、どうでもいい日だけ戻ってきたと思ったら土産物と金だけ置いてとっとと帰っちまう!! 俺のやることなす事全部どうでも良さげにニコニコ笑うだけで、終わったらハイさよならだ!!」

「違う……そんな、俺だって出来るだけ暇を見つけて、お前の話だって聞いて、気を遣って……」

「気を遣ってりゃあ俺はどう思っててもいいのか!! それはよぉ……クソッタレの両親が送ってくる紙切れ一枚に毎回書いてある自己満足の『愛している』の薄っぺらさと一体どう違うって言うんだッ!!」

「……っ、ぁ……!!」


 その言葉が深く胸を貫き、今度こそガーモンは言葉を失った。


 つまり、ナギがずっと言いたくて言いたくてしょうがなかった事というのは、それなのだ。手紙から伝わってくる、こちらの事を何も知らないくせに知った風な口を利くあの両親への苛立ちを、ナギはガーモンからも感じ取ったのだ。


 勝手に分かった気になって、言葉も交わさず一方的に信頼する。

 直接会う機会も碌にないし、自分が大人だと思って引き下がるから喧嘩にもならない。


「すまん……」

「今更ッ!! 今更、謝るなよ……!! ズリィんだよあんたは!! 俺だって無理な事言ってるって分かってんのにあんたが先に謝ったら!! ……っ、俺は……ぅぐ、どんな顔すれば……っ!!」


 涙で霞んだ目で見えないが、ガーモンにはナギが今どんな顔をしているのかが容易に想像できる。きっと子供のころに泣かせてしまった時のように情けなくて酷い――そしてこの世界の誰よりも愛おしく思う泣き顔をしているに違いない。


「……ずるい兄貴でごめんな。でも……これ、爺さんとの約束だったから、な……」

「爺さんとの……」

「ああ。いつだったか、あの人が言ってたよ。兄が先に謝れってな」


 もう何年前の事になるだろう。我ながらよく覚えていたものだと苦笑いする。


 ――若いうちの喧嘩は、翌日に謝って済ませられる。


 ――しかし年老いてからの喧嘩というのは、一生の物別れに繋がる。


 子供のころのガーモンにとって、祖父が語ったその言葉は理解しかねるものだった。

 どうしてか、と尋ねると、祖父は優しく笑いながらガーモンの頭を撫でた。


『子供のころは心が柔らかいから、一晩寝たら大抵の怒りは収まってしまうもんさ。でも年を重ねるとそうはいかない。なまじ怒ってた自分を覚えている分、変な意地っ張りがどんどん長引いてしまう』

『ごめんって謝っても許せないの?』

『謝ったら許せるさ。でもね……自分は悪くないんだー、って一度思っちゃうと、もう自分からは絶対に謝れない。相手もそう思ってたとしたらずっと喧嘩しっぱなしだ。だから……ナギと喧嘩した後は、絶対にガーモンから謝ってあげなさい』

『えー! おれが悪くないときもおれが謝るのー!?』


 弟と一緒に暮らしていれば小さな不安や不満、喧嘩の種は山ほどある。

 ついこの間だって一つしかない玩具を取り合って大喧嘩してしまった。

 だけど、普段たくさん我慢しているつもりのガーモンは、たまには自分に譲ってくれてもいいじゃないかと強く思って、それが喧嘩の原因になった。あれは弟が悪い事だとガーモンはずっと思っていた。


『そんなの嫌だぞ! 兄貴に生まれて損ばかりしてるじゃないか! そうやってじいさんはいつもナギばっかり甘やかして!!』

『はっはっはっ!いや、すまんすまん!お前のこともちゃあんと愛しているさ。でもな……喧嘩してるときってのは、自分も苦しいが相手も同じぐらい苦しんでるものだ。だからナギがそうして苦しんでるときは、兄弟として助けてあげなさい』

『……はーい』


 その時のガーモンには納得できなかった言葉だった。


 今になって思えばあれは今回のような状況を指し示していたのかもしれない。

 まだ少しえずく弟の手をどかし、ぼろぼろになった体で抱きしめる。

 今になって思えば、騎士になった負い目もあっていつの間にかナギから身を引いていたのかもしれない。向き合った時に真っ向から拒絶されるのが怖くて、先に声を出すべきだったガーモンが竦んでしまった。だから今度こそ、苦しみと向き合う時だ。


「ごめん、兄ちゃんはこれから暫く一緒にいてやれなくなる。もしかしたらこれからずっとそうかもしれない……」

「うん……」

「だから……だから俺は、馬鹿兄貴でいいよ。分からず屋の馬鹿兄貴だって、帰ってくるたび怒鳴りつけて、それで喧嘩しよう」

「………今回は、引き分けだけど……ヒッグ!つっ、次は勝つ、かんなぁ……っ!」

「……槍の稽古とは違って、簡単には……負けてやらんぞ……!」


 地平線には、呆れる程馬鹿な兄弟に付き合いきれなかった夕日が沈み始めていた。

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