第35話 間違いと間違いは衝突します
明日は騎士団が現場に着いてから四日目になる。
未だに膠着して前に進まない状況を変える為に、明日は更に過酷な偵察任務が待っているだろう。そう考えながらガーモンは食事を済ませて眠るはずだった。
部下のヴァルナは上手く町に馴染めているだろうか。
ナギと一体どんな話をしているのだろうか。
任務が終わった後に弟と接する時間が取れるだろうか。
今回のオーク討伐は絶対に成功するとガーモンは信じていた。
これまで自分が入団してから討伐に失敗したことはなかったし、今回はクリフィア民兵団の団長であるナギもオークを探す為にヴァルナと協力していると聞いている。素直でないところはあるが、自らそれを申し出たのなら必ず手がかりを見つけてくれるに違いないと期待していた。
そう信じていたし、信じていたかった。
でも、絶対の信頼には理由こそあれ拘束力はない。
その事実を、もっと早く理解するべきだったと思った。
クリフィアの外れ。子供のころに星を見に二人で忍び込んだ立ち入り禁止の崖の上で、ガーモンは弟と相対していた。二人の少年はいつの間にか一人の成人と青年になり、子供のころに見せ合った笑顔の仕方さえ忘れてしまった。
赤らんだ荒野の夕焼けが、まるで演劇の壇上にいる役者に光を当てるように兄弟を照らす。
先に口を開いたのは、固い表情をしたガーモンだった。
「何故ですか」
「何故『ですか』と来たか。本当に兄貴はクソになっちまったなぁ……俺は今まで散々アンタの事を気に入らないって言ってきた筈だぜ? むしろ何でアンタが今更そんなに怒ってんのかが分かんねぇぐらいだ」
「怒ってなどいませんよ。何が目的かと聞いているんです」
嘘だ、怒っている。怒らずにいられる訳がない。
敏い弟には兄の表情を出さない面の皮の裏にある表情を理解して、それでも不敵に笑っていた。それは他人を挑発し、蔑む人間特有の醜さがあった。普段はあらゆる我儘を受けいれるガーモンだが、今回ばかりはそうはいかない。
何故なら弟の後ろには、自分の後輩が縄に縛られた状態で横たわっているのだから。
「目的なんかねぇ。アンタの嫌がることがしたかったんだよ」
「ならもう気は済んだでしょう。早くヴァルナくんを開放しなさい」
「嫌だね。今もアンタは嫌がってるし、俺もまだ暴れ足りない……こいつをボコボコにしたぐらいじゃ俺には足りないんだよ」
夕焼けの影に隠れてその姿ははっきりしないが、微かに見え隠れする顔面には青痣や血らしき色が見え隠れし、ぐったりと倒れたまま動かない。息はあるが、彼がどのような状況にあるのかが容易に想像できる。
騎士ヴァルナ――町で単独任務に就いていた自分の部下で、騎士団の期待の新星で、同時に手間はかからないが何故か心配になる、そんな男だった。決してこのような理不尽な目に遭っていい男ではないのだ。
これ程に怒ったのはいつ以来だろうか。すっかり精神的に成熟したガーモンの精神は少々の事では動じないと思っていた。まだ自分にこれほど強い激情が残っていたことに驚きさえ感じる。手のひらで、ナギからガーモンへ送られた脅迫文章がくしゃりと握り潰された。
「オークに関する重要な情報を掴んだヴァルナくんに……君のことを信用していたヴァルナくんに暴行を加えて拘束。情報を書き込んだ書類を強奪。挙句、ここに兄を名指しで呼び出し、来なければヴァルナくんと書類の両方を処分する。本気でこんな稚拙な脅迫文を書いたのですか?」
「本気も何も、現にそういう状況になってんだろ。まぁ、狡い兄貴なら俺を捕まえる為に援軍でも引き連れてくるかと思ったけど、結局あんたは一人で来たな。弟の軽いジョークだとでも思ったのか?」
ジョークであってほしいとは思った。
事実、この場に来るまで半信半疑だった。
『お願いです!! ヴァルナくんを助けてあげてっ!!』
食事休憩のために騎道車に戻ってきたガーモンに脅迫文を届けてくれたのはノノカだ。昼にこれをガーモンに渡すよう知らない男に言われ、中身を確認して仰天。不安に胸が押し潰されそうになりながらずっとガーモンが戻るのを待っていた。
もちろん話を鵜呑みにした訳ではない。
ヴァルナほどの騎士がそう簡単に負ける筈はないし、本当に悪戯である可能性もある。ガーモンにとって最も可能性が高かったのは町の自警団がナギの名を騙って調査の妨害をしようとしているというものだった。
しかしノノカの話に出てくる手紙を渡した男が弟の外見的特徴とよく似ていたことと、ヴァルナが昼の定期報告に戻っていないという二つの話から軽視する訳にもいかないという結論に達した。
白状すれば、弟が本気でこんな真似はしないだろうから悪戯に過ぎないだろうとは思っていた。万が一危ない事をしても、自分が説得すれば分かってくれるだろうと。それでも、今までに見せた敵意とは違う『悪意』を手紙から感じたガーモンは100%弟を信じきれなかった。
「やめないか、こんな馬鹿な真似。自分でも分かっているんだろう? こんな事をしても意味はないし、れっきとした犯罪行為だ。今ならまだ間に合う……」
「予想通り過ぎてあくびが出そうなセリフほざくなってーの」
ナギが倒れたヴァルナを爪先で蹴って転がし……落ちれば死は免れないであろう断崖の方へと押し始めた。
「や、やめなさいッ!!」
どっと嫌な汗が噴出し、思わず叫ぶ。
それ以上はもう許されないし、決して遊び半分だったでは済まない。
倒れ伏したままのヴァルナから小さなうめき声が上がるが、ナギは悪びれた様子もなくわざとらしく小首をかしげて見せた。
「え? どうしよっかなぁ、俺は別にこのまま崖の下に落としてもいいんだけど。そうだなぁ……背中の槍を後ろに放り捨てろよ。部下の命より安いと思うならな」
「……分かった」
持ち歩いていた槍を取り外して素直に背後に放り投げる。
武器の持ち歩きが規則で定められている騎士にとっては、この上なく屈辱的な行動だ。それでも弟の良心を信じ、そして部下の為に捨てること自体に抵抗はなかった。
「捨てたぞ。そろそろヴァルナくんを開放しろ。彼は関係ないし、私も逃げはしない」
「やだね。信用ならねぇ」
ナギは少しは満足したらしいが、ヴァルナの生殺与奪権はまだこちらにあると言わんばかりににかけた足をどかそうとしない。これで満足してくれるのでは、というガーモンの期待は目の前で踏みにじられ、力づくで奪い返そうにも付け入る隙がない。
この思い出の場所は見晴らしはいいが、同時に転落の危険があるほど高く急な崖だ。あと少しナギが気まぐれを続ければ、ヴァルナは本当に転落死する。
意味の分からない現実に涙を流したい気分になる。
ここにきて、ガーモンはこれが計画的な犯行であることを認めざるを得なくなった。
(見晴らしがよく道が一本しかない断崖を選んで最も危険な場所に人質を置く。相手が約束を破った際には即座に人質を始末でき、横槍を入れにくい理想の立地だ……!)
やっと事の重大さを理解したか、と言わんばかりにナギは大仰に首を振ってため息をつく。人を見下したような、実にわざとらしい悪意の籠る態度だった。心の内に黒い熱が燃え上がるのを感じる。
「ニブいよなぁ兄貴はさぁ。なんであれだけ喧嘩売ってたのに、こんな事になるまで無視できるかね? それともあれかな、この新米騎士は家族より大事な仕事仲間だからそういう態度なのかな?」
「馬鹿な事を……お前のことを忘れたことも軽んじた覚えもない。お前が一人前になるまで育てると爺ちゃんと婆ちゃんにも約束した。感謝しろだなんて厚かましい事は言わないが、お前の我儘だって全部ではないにしろ受け止めてきたのに、その結果がこれか? おかしいじゃないか……」
「ハッ、おかしかねえよ。自分が騎士になるためにその弟を故郷に置き去りにしてろくすっぽ話を聞かなかった罰ってヤツじゃねえの?」
「だからその埋め合わせをしようといつも――」
「そんなクソみてぇな言い訳は聞き飽きたッ!!」
親の仇のようにガーモンを睨み付けたナギは、有無を言わせぬ口調で怒鳴る。
ナギの激昂した姿に、思わず口を噤む。弟が苛立っている所は見たことがあるが、剥き出しの怒りを向けられることは初めてだった。心のどこかで、そんなことは起きないと甘えていたのかもしれない。
「俺はな、もうアンタの自己満足だらけの態度に我慢ならねえんだよ!! 本当ならこんな奴、今すぐにでも崖の下に突き落としてアンタの余裕面が完膚無きにまで崩れる所を見たいぐらいだッ!!」
「何故そこまで……俺達は家族、血を分けた兄弟なんだぞ!? どうしてそこまで俺を憎む!! 俺を苦しめたいんなら黙って殴られろとでも言ってしまえばいいじゃないか!! 俺が嫌いなら顔も見たくないと言えば、俺は……!」
「そんなんじゃねぇッ!!碌に故郷に顔を出さずに仕事仕事って動き回ってるクソッタレのアンタが家族だぁ!? 年に十日も家にいねぇアンタと俺のどこが仲良し家族なんだッ!!」
「……っ!!」
否定は出来なかった。
いいや、分かっていたことだ。
家族としての己の在り方が歪なことぐらいとっくに気付いていた。
(やはり、ナギは俺のことを拒絶していたのか……自らを置いて騎士になった俺を)
王立外来危険種対策騎士団は極端に忙しく、そして休暇が少ない。
おまけに本拠地は王都であるため、まとまった休暇を貰ってもナギのいるクリフィアまで移動するのに時間がかかり、酷い時は日帰り程度の時間しか会えないこともある。ガーモンとて、許されるならもっと長く一緒に過ごしたい。
だが、一人の騎士としてどうしてもその物言いは受け入れることが出来ない。
「俺にだって無理なことはある! オークを狩らなければこの国の誰かが死ぬ! お前は家族の為なら他人は死んでもいいと言うのか!?」
「話をすり替えてんじゃ……ねぇよッ!!」
瞬間、想像を絶するスピードで駆けだしたナギの拳がガーモンの顔面に突き刺さった。久しく感じなかった殴打の痛みによろめき、口の中に鉄臭い液体が広がる。その事実に、ガーモンは呆然と立ち尽くした。
「へ……へへっ! 丁度いいや、昔から兄貴は自分が譲りたくないときは殴って黙らせてきたよなぁ! あれさぁ、ずっとズリィと思ってたんだよ!! 殴られる側の気持ち、味わってけよッ!!」
黙って抵抗しないガーモンを見たナギは更に凶行を続ける。
ガーモンの胸を殴り、腹をフックで殴打し、足を力の限り蹴り飛ばした。
ガーモンは無様に倒れ伏し、地面に顔を擦りつけた。
人質がいたから反撃できなかったのではない。
ただ純粋に、本当に本気で弟に殴られたことが頭を真っ白にさせた。
(何故だ、どうしてこんなにも尽くした弟に憎まれなければならない……もう俺がいなくても大丈夫だと思っていたのは勘違いだったのか?それとも誰か悪い奴が弟を唆したのか?――俺を、憎んでいたのか?)
最早、ガーモンには何もわからなかった。
思考が停止したガーモンの無防備な腹に蹴りが入れられる。
痛みと衝撃に激しく咳込み、無意識に腹を庇うように身を固める。
「がはっ!! がふ、ごほっ……!!」
「ッ……ホンットいい様だよなぁ兄貴! 家族を見捨てて騎士に突っ走った結果がこれなんて笑えるぜ! ああ、そうそう……兄貴に一つ聞くことがあったのを忘れてた」
頭の上からやけに鮮明に聞こえる、耳を塞ぎたくなる悪夢の現実。
犯罪者となったナギがもったいぶった声色で、腹を踏みつけながら囁く。
「あんたヴァルナを助けに来たって言ってたけど、本当はオークの報告書が欲しかっただけなんだろ? 素直にそうだって言えば、書類だけは渡してやるけど?」
他の何よりも大事な家族に裏切られたガーモンの心の中で、一縷の望みとは違う何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
「俺が――」
「あん?」
「俺が部下より仕事を大事にするほど腐った騎士に、お前には見えるのか……? お前に俺達騎士団にとっての仲間の命がどれだけかけがえのない宝なのか分かるのか!?」
体に力が込み上げ、沸騰するような熱が頭を支配する。
そこだけは、たとえ相手が弟でも譲歩できないという確信。
ガーモンはその瞬間、体面も状況もすべてを忘れて拳を振り上げる。
「うおぉぉぉぉッ!!」
「ガッ!?」
祖父母が死んでからただの一度も殴らずにいた弟の顔面を、ガーモンは叩き潰すつもりで本気で殴り飛ばした。現役でオークと戦い続ける男の筋力が生み出した威力はナギを数メートル吹き飛ばし、その鼻からぼたぼたと痛ましい鼻血を噴出させた。
突然の反撃に目を見開くナギに向かってよろめきながら歩み寄るガーモンの瞳には、もう普段の優しさなど欠片も存在しない。あるのは純粋な怒りだけだった。
拒絶するのならまだいい。辛いが我慢は出来る。家族失格だと蔑まれるならそれも甘んじて受けるだけの自覚はある。だが、ナギは部下に手を出し、その部下を思いやるガーモンの気持ちを踏みにじった。
それだけは――王立外来危険種対策騎士団の一人として、決して許すことができなかった。
「明日死ぬかもしれない部下に命令して少しでも怪我なく勝たせようと毎晩祈るこの俺が、そんな言葉で部下を見捨てる訳が……ないだろうがぁぁぁーーーッ!!」
爛々とした憤怒の相貌が、彼を鬼の形相に変える。家族以外に大切にした騎士としての誇りを決定的に侮辱する言葉に、とうとうガーモンの本気の怒りが爆発した。
だが、ナギはそれを見るや否やすぐさま立ち上がり、兄に怯まず拳を握り締める。
「なに勝手にキレてんだよ。キレるのはよぉ……俺の方なんだよぉぉぉーーーーッ!!」
「五月蠅いッ!! 訂正しろ……俺が部下を見捨てたという言葉を訂正しろぉッ!!」
最早この場所に二人を止める人間はいない。
夕日を見届け人に、何年も擦れ違い続けた二人の全てを白日の下に晒す兄弟の本気の殴り合いのゴングが鳴った瞬間だった。
(……上手く乗せたのかそれとも素なのか知らんが、ここで全部吐き出しちまえよ、ナギ)
そんな二人の戦いを薄目で見ている人物のことに、ガーモンが気付くことはなかった。
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