ロリビッ〇vs童〇男子(健全)

砂竹洋

第1話



「お兄さん! 私とS〇Xしてください!」


 仕事上がりの帰り道、通りすがりの女の子にいきなりそんな事を言われた。俺は何もしていない。本当に通りすがっただけで、こんな事を言われたのだ。ここで「はい、しましょう」となる人間がいる筈が無い。ましてやここが人通りの多い街中なのだから尚更だ。


「……いや、それ俺に言ってるの?」


「はい! 一目惚れしました!」


「いやいや、そんな事言われても無理だって」


 あくまでゴリ押しで通そうとする女の子に対し、俺は努めて冷静に断ろうとした。

 「努めて」という表現は比喩じゃない、本っっ当に頑張って冷静になろうとした。

 それと言うのも、俺が女性経験が全くない童貞で、しかも目の前の少女がかなり俺の好みどストライクだったからだ。

 長い黒髪に白ワンピースで、身長は俺の胸元くらい。キラキラ輝く瞳に釣られて、思わず衝動的に抱きしめたくなる。


 ――はい、ごめんなさい。正直に申し上げると俺はロリコンなんです。

 そして、目の前の女の子はどう見積もっても小~中学生くらいなんです。

 この時点で、完全にアウト。手を出そうものならお巡りさんが飛んできて即ブタ箱行き間違いなしの状況である。


「大丈夫です! 愛があれば大抵の障害は乗り越えられるって、偉い人も言ってました!」


「いやいやいや、その偉い人がダメって言ってるからねそれは。俺はもう25歳。君は一体何歳?」


「女の子に年齢を聞くなんて失礼だと思います。お兄さんが知る必要はないです」


「いや絶対あるよね!? っていうか、もしかして分かってて言ってる!?」


 確信犯の可能性が出てきた。

 ああ、これは新手の詐欺か何かだろうなと確信した俺は、とにかくこの子の相手はしないで即刻この場を離れるべきだと判断した。


「じゃあ、俺はもう行くから――」


 踵を返し、小さく手を振って退散しようとした、その瞬間。

 ――少女が、俺の背中に抱き着いてきた。


「行かないでください……お願いします……」


 少し怯えたような声色になる少女に対して、俺は頭の中がパンクしそうなくらい思考がぐちゃぐちゃになっていた。

 ――まってまってメッチャいい匂いするし何となく柔らかいし俺の心臓の音半端無いしどうしようでもこれを目撃された時点でお縄確定なんだけどでも離れたくないし自分から離れると乱暴になっちゃうかも知れないしどうしようどうしよう。

 この間1秒。高速で思考した俺が最終的にとった行動は、身の安全を守るための危機回避行動だった。


「ご、ごめん!」


 そう言って少女を無理やり引きはがし(「あ」という残念そうな声が聞こえて罪悪感で死にそうになった)、一目散に走りだした。

 なんだか周りがザワザワしていたけど関係ない。関わったら俺の人生が台無しになる。そう判断して、女の子には決して追いつけないであろう全力疾走で家まで逃げ帰った。

 アパートのドアを勢いよく閉め、急いで鍵をかける。追いかけてきたりはしていないと思うが、念のためだ。


「なんだったんだ、さっきの……」


 走った事による血圧の上昇と、可愛い女の子に抱き着かれたことによる緊張で、俺の心臓は大きく脈動していた。

 落ち着け、落ち着け。そう念じながら着替えを済まし、適当に夕飯を採って今日は直ぐに寝る事にした。寝るには少し早い時間だったが、現実逃避の手段として俺は睡眠を選んだのだった。



 ――そして、翌日。


「おはようございます! 私と愛を育みましょう!」


「いや、なんでいるの!?」


 自宅のアパートの玄関を開けて外に出た瞬間、昨日の少女が笑顔で立っていた。ハッキリ言ってその笑顔は反則だ。かわいすぎる。


「だってお兄さん、全然足遅いんですもん。追いかけて場所を覚えときました」


 その言葉に俺は二つ衝撃を受けた。小中学生に足が遅いと言われた事と、自宅を特定された事。どちらかと言えば前者の方がショックだった。

 俺はとにかくこの子とは関わっちゃいけないと思っていたので、努めて冷静に(また頑張った)この場を回避しようと試みる。


「そ、そうかい。じゃあ俺は会社に行くのでこれで――」

「一緒に行きましょう!」


 即答で返される。全然回避出来てなかった。いや、まだ方法はある。この子だって小学生か中学生の筈だ。ならばこの子も学校へ行かなきゃいけないはず。


「……君は学校行かなくていいの?」


「今日はサボります!」


「元気に言わないで!?」


 この手も通じなかった。しかも学校に通う年齢である事を堂々と肯定してきた。昨日の時点では年齢は秘密という話だった筈なのに。

 一体何を言えば帰ってくれるのだろう。俺が必死に考えていると、少女の方から話しかけてくる。


「お兄さん、昨日は人前であんな事言ったから駄目だったんですよね? なら一緒に会社に行くだけなら問題ないんじゃないですか?」


 あれ、そういえばそうだな。別に小学生と一緒に通勤したからと言って何か問題があるのだろうか。

 一瞬、納得しそうになってしまう。だがなんとかすぐに冷静になる事に成功した。


「――いやいや! ダメだよ! 誰かに見られたら言い訳のしようがない! 電車の中なんて一体何人の目があると思ってるんだ!」


 良く考えたら全然ダメだ。なんで諭されそうになったんだ自分。

 しかし、少女の誘惑はそれだけには収まらなかった。


「それなら、駅の少し手前で離れればいいのでは? 万が一、人に見られたら姪っ子だと説明すれば大丈夫ですよ!」


「え、いや……そうなのかな……」


 段々大丈夫な気がしてきた。確かに、変な事をしないのであれば全く問題ない上に、俺はこんな美少女と一緒に歩いて駅まで向かうという普通ならあり得ない程のチャンスを得られるのでは?

 俺の思考が追いつく前に、少女は更に畳み掛けてくる。


「大丈夫です。少しお話しながら歩くだけですから。昨日みたいに変な事言わないって約束します。それともお兄さんは――私の事嫌いですか?」


 少女が涙目でこちらを見上げてきた。

 ズキュン。そんな音が聞こえた。俺の胸から。その瞬間、完全に俺はいた。かわいいんだから仕方ないじゃない。


「……分かった。じゃあ、一緒に行こうか」


「はいっ!」

 

 少女は元気に返事をして、俺と一緒に歩き出した。嬉しそうに付いてくるその姿が何とも眩しい。いやほんと可愛いんだって。


 それから、色々な事を少女は話してくれた。少女の名前は涼音すずねと言う事。母子家庭で、家に帰っても一人である事。同級生と一緒に山奥で拾った本で、色々な知識を得た事――ん?


「いわゆるエロ本? ダメだよそんなもの見たら」


「えろほん? 拾ったのは少女漫画ですよ?」


「ごめん今の忘れて」


 完全にヤブ蛇だった。どうやら言葉の意味を理解していなかった様なので助かったが、子供の前で迂闊な発言をするべきじゃあない。

 しかし、最近の少女漫画は凄いな。そりゃあ直接的な描写は無いんだろうけど、S〇Xとか子供に教えていいのかよ。


「もっと色々知ってますよ? 〇〇〇とか――」


「ストップストップ! 誰か聞いてたらどうすんの!?」


 幸い誰も居なかったけど。色々と危なっかしいなこの子は。


「ちなみにお兄さんはどんなのが好きなんですか?」


「ん、それどういう質問? 場合によっては回答を拒否した上で全力で逃げるけど」


「なんでもそっちに繋げるのやめてくださいよー。漫画の話です」


 またヤブ蛇だ。これじゃ俺の方が変態みたいだ。いや、この子が変態だと言うのもちょっと違う気もするけど。


「……漫画なら普通に少年漫画とか読んでるかな」


「つまりちょっとえっちなヤツも見てますね! パンチラとか好きですね!」


「結局そっちの話!? 本当に置いてくよ!?」


「追い付くので問題ありません!」


 そうだった。俺より足速いんだこの子。情けなくなってくるな。

 そんな風に雑談をしながら駅まで向かい、段々人が多くなってくる通路の少し手前で俺たちは別れる事になった。正直楽しかったからもっと一緒に居たかったけど、そういう訳にはいかない。


「それではお兄さん、またお仕事終わったら一緒に帰りましょう!」


「え、帰りも来るの? 駅で待ってたりされても困るんだけど……」


 思わずそんな発言が飛び出してしまう。嬉しいけど、そんな場面を見られて通報でもされたら叶わない。


「だいじょーぶです! 少し離れたそこのポストの辺りで待ってますから! 避けて通ったりしないでくださいね!」


 それなら大丈夫か。

 またしても強引に押し切られた感があるけど。あんな風に真っ直ぐ言われてしまうと断るのは難しい。童貞だし。

 大きく手を振りながら遠ざかる涼音ちゃんを見送ってから、俺は駅に入り満員の電車に揺られるいつもの光景に戻って行った。



 ――――



「お疲れ様ですお兄さん。私と致してください!」


「だんだん表現が柔らかくなってる気がするけど、しないからね?」


 心なしかいつもより早く仕事が終わり、今朝指定された場所に行くと涼音ちゃんが元気に迎えてくれた。その第一声だけは何とかして欲しいけど。


「涼音ちゃん、もしかしてずっと待ってたの?」


「いえ、一時間くらい前からですよ。さすがに一回学校に行きました」


 一時間、と平然と言うがこのくらいの子が何の目的も無く一人で立っていたら親切な人なら声を掛けたりするだろう。それでこの子が変な事を言った時点で終わりだ。

 残念な事に俺はここまで来ても自分の保身の事だけを考えていた。


「涼音ちゃん、あのね。こんな時間にこんな所に居たら、悪い人に連れ去られるかもしれないよ?」


「だいじょーぶです! 私は逃げ足も速いので!」


「いや、そういう問題じゃなくてさ……」


 保身のために言っていると気づかれない様に忠告したのだが、全く聞く耳を持ってくれなかった。実際に誰にも声を掛けられていないみたいだし、何も無かったならいいんだけど。


「まぁいっか。折角待ってくれたんだし、一緒に帰ろう」


「お兄さんから誘われました! これは今夜あたり襲ってくれるかも?」


「襲わないよ、もう……」


 俺は一種の諦めと共に溜息を吐き出し、涼音ちゃんと並んで歩き出した。

 駅から家までの、約10分間。涼音ちゃんは変わらず楽しそうに笑顔で俺と話してくれた。

 この時点で、俺の中で詐欺か何かでは無いかという疑念は綺麗さっぱり消えていた。性知識だけは無駄にすごいけど、話してみるとそれ以外は一般的な小学生のそれと大して差は無いように思えたからだ。

 誰かが背後に居るというならそんな判断も関係ないけど、何より――


「……? どうしたんですか? 私の顔なんて見て……」


 ――何より、こんなに可愛い子を疑うなんてとんでもない。完全に俺の悪い所が出ていた。



 …………



 もう家に着いてしまった。 

 10分なんて本当にあっという間だ。ドアの前でしょぼくれていた俺を見て、目を光らせながら涼音ちゃんが提案してくる。


「お兄さん、寂しいなら私を中まで連れ込んでもいいんですよ?」


「言い方! っていうかダメなんだよ。未成年誘拐になっちゃう」


「性欲の前にはそんなの関係ないです」


「愛じゃないの!? あとスカートひらひらさせるのやめてくれる!?」


 ここに来て涼音ちゃんが全力で誘惑を始めてきた。そのスカート摘まんでるポーズ可愛すぎるから本当勘弁して。頑張れ俺の理性。


「でも、本当にもう時間も遅いし。お母さん心配するから帰りなよ。っていうか、危ないから送って行こうか?」


「送り狼ってヤツですか!?」


「期待した目で見ないで!? 無理だって言ってるでしょ……」


 改めて思うけど、性知識が豊富過ぎる。本当に全部少女漫画の知識なのだろうか。もしこの子に変な事教えてる人間がいるなら説教してやりたいところだ。


「でも、せっかくですけど遠慮します。家もここから近いですし」


「いや、君くらいの子をそのまま放り出すわけには――」


「また明日来ますね! お仕事お疲れ様でしたーっ!」


「え、ちょっ――早っ!」


 俺が引き留める前に、涼音ちゃんは全速力で駆け出してしまった。俺より足が速いという少女に追いつけるわけも無く、更には追いかけると言う判断すら間に合わず、俺は右手を突き出したままのポーズで固まってしまっていた。

 何故だろう、最後は妙に不審な態度だった気がする。俺に家を知られるのがそんなに嫌なのだろうか。まぁ普通に考えればそれはそうなんだけど、あの子に限ってはそれは不自然な気がする。


「まぁ、考えても仕方ないか」


 元々なぜ俺に付きまとうのかも分からない不思議な少女なのだから、今更不思議が増えた所で考えても何も分からないだろう。

 俺は大人しく自分の部屋のドアを開けて、中に入って休む事にした。


 ――翌日、涼音ちゃんは再びドアの前に現れた。


「おはようございます! 私を手籠めにして下さい!」


「いやもうそれ隠せてないから……」


 そんなやりとりに段々と慣れてきてしまった自分がいる。

 慣れたと言ってもこんなかわいい子にこんな事言われるとドギマギしてしまうのは変わっていない。冷静に突っ込みながら心の中では素数を数えている。


「あれ? お兄さん、寝癖ついてますよ?」


「え、直したつもりだったんだけどな……どこ?」


「ここです、ここ……んーっ」


 涼音ちゃんが精一杯背伸びをして俺の寝癖を直そうとしてくれている。

 このポーズ可愛すぎじゃない? 大丈夫俺の理性?

 このまま観察していたい衝動に駆られたけど、折角直そうとしてくれているのだから俺の方から頭を少し下げてやる事にした。


「うん、治りました! ダメですよ、これから抱こうという女の前では身だしなみはしっかりしないと!」


「いや……抱かないって」


 少し悪戯っぽい笑顔が非常に可愛かったので、いつもよりツッコミにキレが無くなってしまった。

 その後はそのまま駅の近くまで一緒に歩いて、昨日と同じように帰りの約束をして解散した。

 電車に乗りながら、この先の事を考える。

 本当にこんな事でいいのだろうか。知り合いに見られたり、警察が通りかかったりしたら俺は捕まってしまう。こんな事は今日限りでやめるべきなんじゃないか。

 そんな事を悶々と考えているうちにすぐに会社に着き、仕事を始めると悩みの事はすっかり忘れてしまっていた。

 やはり自分でも驚くくらいに仕事に集中できて、今日も定時を少し過ぎた程度で上がる事に成功した。


 帰りの電車の中でも涼音ちゃんの事を考える。

 早く会いたいなー、とか。もしかしたら今日は居ないかもなー、とか。

 仕事をしている間に、いつの間にか警察に捕まる心配よりも涼音ちゃんに会いたい気持ちの方が強くなっていた。

 電車を降り、改札を出て涼音ちゃんとの待ち合わせ場所に向かう。少し早歩きになっているのも気のせいだと思う。

 赤いポストの裏から小さい頭がはみ出しているのを確認してから、俺は高ぶった気持ちを落ち着かせてゆっくり歩いて近づいて行った。


「あ、お兄さんお疲れ様です! 今日はご飯でもお風呂でも無く涼音にしましょう!」


「選択肢は無いんだね。しないけどね」


 俺の心の中は正直に言うとウッキウキだった。今にも小躍りしたいくらいだったし、何なら「涼音ちゃんにするー!!」と飛びつきたいくらいだったが、そこは何とか冷静に対応する事に成功した。


「お兄さん、心なしか声が上擦ってます。これはもうひと押し、かな?」


「いやいやいや、そんな事無い。今日も普通に何もせずに一緒に帰ろう」


 普通に、何もせずに、を無駄に強調して言った。どうやら少し感情が抑え切れてなかったらしい。自制しなければ。


 そのまま努めて冷静に大人の態度で涼音ちゃんと会話しながら帰路についた。

 やはり時間もあっという間に経ち、すぐに家の前についてしまう。その後も昨日と同じ流れで解散となった。

 今日こそ涼音ちゃんを送ってあげたかったけど、再び全力で拒否されて逃げられてしまった。そこだけ淡白なのが少し寂しいけど、彼女にも触れられたくない事があるのだろうと自分を納得させた。



 ――――



 翌日も、再び涼音ちゃんは俺の前に現れた。

 朝には俺の家の前で待っていて、駅の少し前で解散。帰りはまた同じ所で合流して、家の前で解散。

 そんな日々が、二日、三日と続き――ついに一週間が過ぎていった。

 この一週間、涼音ちゃんは俺を何度も誘惑してきたが、その度俺は何とか理性で自分を抑え込んだ。


 そんな苦しくも楽しい毎日が続いたある日。


 俺は仕事が佳境に入り、普段よりも長く残業をしなければならなくなった。

 単純に仕事量が増えて、頑張ればどうにかなるという域を超えてしまったからだ。

 時間は夜11時を超え、俺は終電でギリギリ帰ってくる事になった。


 さすがにこんな時間まで待ってはいないだろう。今日は一人寂しい帰り道になるな、なんて考えながら改札を出て歩き出すと――


「お、お疲れさまですお兄さん」


「涼音ちゃん!? ずっと待ってたの!?」


 ――そこには、何故か息を切らした涼音ちゃんが目印のポストに寄りかかって立っていた。


「ごめんなさい、ずっとじゃないんです。途中で変な男の人に声を掛けられて、全力で逃げ回っていたので……」


 涼音ちゃんが申し訳なさそうにしながら、力なく笑う。

 ――なんだよ、それ。

 じゃあ涼音ちゃんは、俺を待っていたせいで危ない目に遭ったっていうのか。そんなに息を切らしてしまう程に逃げ回って。

 逃げ切れたから良いものの、こんな事が続けば涼音ちゃんが本当に危ない。

 それだけはダメだ。涼音ちゃんが危険な目に遭うなんて、そんな事が有ってはならない。


 俺はそこで、ある決意を固めて凉音ちゃんを見る。


「いい感じに汗かいてきたので、服が透けちゃってるかも知れないですねー、なんて……」


「何考えてるんだ!」


 涼音ちゃんの話を聞く前に、俺は話を遮るように大声で怒鳴りつけた。辺りに声が響いていたが、そんな事を気にしている場合じゃない。


「え、えと……お兄、さん?」


 涼音ちゃんは急に怒鳴られた事に驚いて、狼狽えていた。今すぐ謝ってしまいたい気持ちに駆られるが、俺はそれを抑え付けて怒鳴り続ける。


「こんな時間まで一人で歩き回るもんじゃない! ちゃんと忠告したじゃないか!」


「あの……それは、その……」


 涼音ちゃんは小動物の様に縮こまっている。罪悪感が込み上げてくるが、そんな事は関係ない。自分のせいで一人の女の子が危ない目に遭う所だったんだ。俺のちっぽけな良心が痛む程度の事、涼音ちゃんの安全には代えられない。


「もうここには来るな! いいな!」


 強引に、声を荒げて彼女を否定する。

 涼音ちゃんは俺の態度の豹変に驚いている様だったが、次第にそれは怯えに変わっていき、最後には目から一筋の涙が零れた。


「……わかり、ました。……っごめんなさい!」


 涼音ちゃんは零れた涙を隠すように、振り返って走り出した。俺より足が早い少女に追いつける筈も無く、また追いつく気も無かったので、俺はしばらくそのまま俯いて立ち尽くしていた。

 これでいいんだ。これで、涼音ちゃんが危ない目に遭わないのなら。



 ――――



 翌日、ドアを開けても涼音ちゃんの姿はそこには無かった。

 当たり前だ。自分で拒絶しておいて、来る筈が無いじゃないか。


 空虚な通勤路を一人で歩き、電車に乗って会社に向かう。

 仕事には全く集中できなかった。ここ数日の集中力の高さは周りの人間も見ていたので、同僚には心配されたし、上司には叱責を受けた。


 それでも、俺はどこか上の空だった。

 原因なんて分かりきっている。だからと言って、どうしようもない。

 対策のしようもなのだから、俺はもう一生このままなのかもしれない。

 

 ――まぁ、別にいいか。元から生きる目標なんて無かったのだから、適当にだらだら過ごした所で何も問題はないだろう。


 昨日に引き続き残業で遅くなったので、終電で帰って改札から出る。そこにもちろん涼音ちゃんの姿は無い。


「何期待してるんだか。自分で切り離しておいて」


 溜息が出る。無駄な事に期待を抱いている自分と、これからも続く空虚な人生に。

 涼音ちゃんとの時間は、本当に楽しかった。時々挟んでくる誘惑はともかくとして、あの子と居る間だけは嫌の事も全部忘れられたから。


 次の日も、また次の日も――空虚で詰まらない日々を歩んでいく。

 仕事をこなして、家に帰って飯を食って寝る毎日。

 楽しい事なんて何もない。もう、どうでもいい。


 ――そんな日が、二週間程続いたある日の朝。


 俺は適当に朝の支度を済ませ、外に出る。少し歩いた所で、死角になっていた曲がり角から、突然人影が飛び出してきた。

 その人影は俺の前で立ち止まり、笑顔を携えて元気に言った。


「おはようございます! お兄さん、私とえっちな事して下さい!」


 人影の正体は涼音ちゃんだった。

 二週間も姿を見せなかったのに、なんでこんな急に現れるんだ。もう来るなって言ったじゃないか。また危ない目に遭ったらどうするんだ。

 そんないくつもの言葉が頭に浮かび、何と声を掛けるか少し迷ってしまう。だが、こういう時はストレートに言うのが一番だろう。

 俺は努めて冷静に、いつもの様に返す事にした。


「……またストレートな表現に戻ってるよ」


「あはは、ごめんなさい。久し振りで勝手が良く分からなくなっちゃって」


 てへ、と舌を出しながら謝罪する。俺はその無邪気な顔に完全に毒気を抜かれてしまった。建前とかそういうのは、もうどうでもいい。

 俺はなるべくキツい言い方にならないように気を付けながら、思った事を言う事にした。


「涼音ちゃん、どうしてまた来たの? あんな事言われたのに」


「……お兄さんが、私を心配してくれてた事に気付いたので。あの時は驚いてしまったんですけど、後で思い返して『そうだったんだ』って。それで、心配かけてるようじゃ駄目だなーって思ったんです」


 涼音ちゃんが、少し気まずそうにしながら話してくれた。俺が意図的に突き放した事まで分かっていたらしい。賢い子だ。


「だから、コレ! 見てください!」


 じゃーん、と言いながら俺に長方形の物体を見せてくる。それはどう見ても何の変哲もないスマートフォンだった。


「えっと、スマホがどうかした?」


「あ! お兄さんヒドーイ! お母さんの手伝いを頑張って、やっと買って貰えたのに!」


「そっか、それは頑張ったね」


 どうやら頑張りを褒めて欲しかった様なので頭を撫でて上げた。というか膨れっ面が可愛かったから撫でたかっただけだけど。涼音ちゃんも「えへへー」なんて言って照れている。すこぶる可愛い。


「はっ! いやそうじゃないです! そうじゃなくて!」


 撫でられている場合じゃない、といった様子で腕を上下に振り回す。なんだ、撫でられたかったわけじゃないのか。


「撫でるなら胸にしてください――とかそういう話でも無くて、お兄さんの連絡先を教えてほしいんです!」


「え? なんで?」


 唐突なお願いに、呆気に取られてしまう。今まで彼女にはストレートに誘われる事しか無かったから、今さら連絡先の交換なんて言い出すとは思わなかったのだ。

 そんな俺に対して涼音ちゃんは笑顔で続ける。


「それで、もし良ければ帰る時間になったら連絡を下さい。そうすれば、私がお迎えに行きますので! そうすれば、長い間待ってる必要も無くなりますから」


 ――そっか、そういう事か。

 俺はこの子を傷つけまいとして突き放した。悪役を演じて涼音ちゃんを守ってやるつもりだった。でも、そんなのこの子には全てお見通しで。俺を心配させないためにお母さんに頼み込んでスマホまで買って貰って。それで連絡を取り合えば、心配をかけることも無いと、俺の事を気遣って。


「……ありがとう」


 俺の口からは、自然と感謝の言葉が出ていた。それを受けて、凉音ちゃんはキョトンとした顔をしていた。


「驚きました。てっきりお兄さんは私の事、迷惑だと思っているかと」


「迷惑だなんて、そんな事ないよ。涼音ちゃんのお蔭で、俺は毎日の仕事を頑張れていたくらいなんだ。出来ればずっと一緒に――」


 そこまで言って、俺は自分がとんでもない事を口走ってしまった事に気が付いた。感謝を伝えるつもりだったが、言ってはいけない事を言ってしまった気がする。

 涼音ちゃんの方を見ると、やはり小悪魔的な笑顔でニヤニヤしながらこちらを見ていた。これは、やってしまったな。


「それなら、すぐに私とS〇Xしてください! 幸せな家庭を築きましょう!」


 いつもよりも大きめの声で、いつもよりも嬉しそうに涼音ちゃんが言った。完全に地雷を踏んだ。こういう発言だけはしない様に気を付けていたのに。


「だからそれはダメだって。勘弁してよ……」


「ぶっぶー。さっきの発言は引込められませーん。でも、お兄さんが誘惑に落ちるまでもう少しだと確信できたので、今日の所は勘弁してあげますよ」


 楽しそうに、笑顔で言う涼音ちゃん。こういう顔をしている時は本当にただの女の子だ。

 毎日の誘惑は戸惑うし、それに耐え忍ぶ毎日もなかなか辛いものがあるけど。



 ――今はこの子と一緒に居られるだけで、良しとしよう。

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