4 忠告

「はぁ……やっとお昼休みだー……」


 蛍ちゃんお手製だというお弁当を教室で食べて図書館へ来た私は、隅の席に着くなりぐったりとテーブルに突っ伏した。

 図書館は、場所が場所だけにそこにいる読書中や勉強中の生徒たちはとても静かだった。その静寂が、教室を逃げ出してきた後では心地いい。


 あの家柄で、あのヴィジュアルだから七車の二人が人気があるだろう事は予想がついた。蛍ちゃんだって美少女だから、人気が高いだろうということも。けれど、ここまで目立つ人たちだったなんて。

 車から降りた途端の、あのざわめきは忘れられない。朝の挨拶を交わす生徒たちが溢れる校門前。しかし、三人が車を降りて足を踏み出したと同時に、賢者の前で海が割れるかのようにさっと道ができたのだ。そして、そこから校舎へと辿り着くまで、蛍に案内され四人一緒に歩んだばっかりに好奇の目を向けられ続けたのだった。


(あんな少女マンガみたいなこと……現実であるんだ……)


 あったとしても、自分とは縁遠い話だと思っていた。いや、今までは間違いなく縁遠かったのだ。

 そして、厄介なことに朝の騒ぎは教室に行った後にも影響した。

 休憩時間になった途端にやけにキラキラした女生徒たちに囲まれて、質問責めにあったのだ。


――八千代さんは、七車家とはどのようなご関係で? 柊様とはご親戚なのかしら。

――八千代さんのお家は何の会社を経営なさっているの? それとも、何か別の事業を?

――こんな中途半端な時期に編入されるなんて、何か理由がおありなのかしら?

――一緒の車で登校したということは、柊様たちと同じ家に暮らしてらっしゃるの?


 次から次へと矢継ぎ早に問われて、十分に質問の内容を理解することさえ難しかった。何とか、遠い親戚で、お屋敷の一部に少しの間だけ居候しているという説明だけはできたけれど、それで追及がやんだわけではない。柊さん個人についての質問や、五葉君に蛍ちゃん、はては上の兄弟についてまで、質問は絶えなかった。お世話になり始めたばっかりでわかるわけもなく、質問自体から逃げるように昼食を摂り終わったと同時に図書館まで避難してきたのだ。

 思った通り、良家の子女の皆さんは、無理にここまで追って来て質問を繰り出すことはなかった。


(でも、これが後二週間くらい続くかもしれないんだよね……)


 考えただけで、すでに憂鬱だ。珍しい動物のような扱いをされている今の状況では、まともに友達をつくることだって難しいだろう。

 一つため息をついて、気を取り直そうと起き上がる。実は、ここに来た理由はクラスメイトから逃げることのほかにもう一つあった。席を立って、林立する書架に歩み寄る。

 親切にも休み時間に案内をしてくれたクラスメイトによれば、高校の図書館といえど、ここの蔵書数は相当なもののようだ。資料の幅も広く、ネット以外で調べ物をするならまず図書館、という生徒も多いという。


「鬼……鬼か……。どこを見たらいいんだろう。昔話?」


 思わず小さく口に出しながら、背表紙を眺めて書架の間を移動する。ここに来たもう一つの理由。探すといってもまだまだ知らないことの多い『鬼』という存在について、何か本から手がかりが得られないかと思ったのだ。

 色々と見て回って、何冊かそれらしい本を抜き取ってくる。テーブルに置くと、再び席について一冊一冊目を通していく。昔話は短い話が集まっていることもあって、すぐにいくつかの話を読み終えることができた。

 小さな頃にも読んでいたような気がするけれど、くわしい内容は全然覚えていないものだ。


 鬼は悪いもの。なぜかそんなイメージがあったけれど、改めて読んでみると昔話の鬼は怖い存在ばかりではないようだった。

 もちろん、悪さをする鬼もいる。桃太郎の鬼は周辺の村を荒らしていたし、一寸法師の鬼は人を食べようとした。酒呑童子も郎党を率いて悪事を働いていたし、節分に関連付ける物語も、鬼が相応の悪さをして退治される話だった。

 けれど、鬼に限って様々な話を集めてみると、以外にもそれだけではないことがわかる。人へ優れた技術を与える存在だったり、身を挺して人の役にたとうとする心優しい存在として描かれたものもあるのだ。

 繁栄をもたらす鬼。そんなものがいるのか半信半疑だったけれど、こう色んな鬼がいるのならそれもあり得るのかもしれない。そもそも、当主の言う鬼が、こんな物語に書かれた鬼と一緒とは限らないのだけれど。


「鬼の手がかり、みたいなのが載ってたらいいのになー……」

「熱心に調べ物かな?」


 不意に声がかかって肩がはねた。いつの間にか、男の人がそばに立っていたのだ。


「え、と……」

「ああ、ごめん。俺は司書の冴島さえじまだよ。冴島千年ちとせ。といっても、ここの司書になったのは今年からなんだけど」


 言って、相手は柔らかく微笑む。すっきりとした一重瞼の目は、感情が浮かんでなければ鋭くも見える。けれど、今は下げられた眦のために優しそうな印象を受けた。薄い唇や、高すぎず低すぎない鼻、顔立ちにどこか強い印象が残るような個性はなく、七車家の兄弟たちや蛍ちゃんのように気後れするぐらい整っているということもない。美形ばかりという異様な空間にいてマヒしかけていたなかで、失礼だとはわかっているけれど、久しぶりに安心できる容貌の相手だった。それだけで、何だか親近感がわいてくる。


「あの、私は――」

「知ってるよ。編入生の八千代さんだよね。夏休み前のこの時期に編入するなんて珍しいから覚えてたんだ」


 言った冴島先生の視線が、私の手元に移動する。はっとしたけれど、もう遅い。テーブルの上に積まれているのは、鬼に関わる昔話や物語の本。女子高生が熱心に読むにはちょっと毛色が違いすぎる。


「昔話についての課題でも出たのかな? 調べているものがわかれば、俺も資料集めの手助けができると思うけど」


 親切な言葉にほっとする。授業に関する調べ物か何かだと解釈してくれたらしい。確かに、七車家についてを言うことはできないから、好きで調べている趣味か、課題ということにしておいた方がいいかもしれない。


「そ、そんなところです。昔話でよくでる鬼って、いい鬼も悪い鬼もいて、いったい何なのかなって思って……」

「そうなんだ。面白いところに目を付けたね。ちょっと待っていて」


 嬉しげにそう言いおいて、冴島先生は書架へ迷いなく向かって行った。暫くして、数冊の本を手に戻って来る。


「鬼を調べるなら、文学や芸能のほかに、民俗関係の資料を見てみるのも面白いと思うよ」


 言いながら並べられた本たちの表紙は、どこかおどろおどろしかったり、学問の本という感じで難しそうに見えた。思わず、そこに並ぶ文字たちを口に出す。


「『怪異』……『研究』……」

「大丈夫。入門書になるよう読みやすいものを選んできたつもりだから」


 その言葉に、一冊を手に取ってページをめくってみる。数行読むと、確かに昔話や妖怪などのことがわかりやすく紹介されていて、思わず引き込まれてどんどん先へとページを繰りたくなる。著者の語り口も、難しいことをすんなり理解できるように噛み砕いた易しいものだ。


「本当だ……。これなら私でも読めそう。ありがとうございます」

「いえいえ。本と人の縁を結ぶのが、司書のお仕事だからね」


 温和な笑みに、嘘をついてしまったことが今さら胸を針で突いたような痛みになる。


「けど、鬼を調べてる、か……何だか嬉しいな」

 零した言葉に首を傾げると、先生は椅子を引いて隣へ腰を下ろす。

「俺はね、昔の人々にとって鬼はとても大事な存在だったんじゃないかと思ってるんだ」


 彼の声音は優しい。思わず聞き入ってしまう心地よさがあった。


「例えば、鬼というとどんなものを思い浮かべる?」

「えっと……角があって、赤とか青とかで……トラ柄のパンツをはいてる、とか……」

「はは、確かにそんなイメージだろうね。けど、鬼って本当はとても多様なものなんだよ」


 言いながら、先生はテーブルの上に置いた本を何冊か広げた。猛々しい様子で、憤怒の形相を浮かべている鬼、恨みがましい目つきで男を見つめる女の鬼、昔話などで馴染みのある姿の鬼もいるし、見た事もない姿もある。


「そもそも、鬼って言葉自体は中国から伝わったといわれているんだ。『おに』という読みがあてられるようになったのは日本でだけどね」

「そうだったんですか」


 鬼は日本にしかないものだと思っていた私は、驚きに目を丸くした。


「様々な物事には繋がりがあるって思うと面白いよね。だけど、中国の鬼は日本での鬼とは少し違うんだ」

「どう違うんですか?」

「向こうでは、鬼とは帰ってきた人の魂の一部といわれているらしいんだ」

「人の魂の……?」

「そう。人の魂は二つに分けることができて、死んだ後、その一部は天へ帰り、一部は消えることなく地上に残り続けて、それを鬼というそうだよ」

「消えることなく……残り続けて……」

「そうして、あるべき場所に帰ってくる」


 先生の言葉を頭で反芻しながら、自然と、両親の事が浮かんだ。死んだ後の魂についてなんて、考えたこともなかった。


「日本では祖先の霊に加えて、太刀打ちできない自然の驚異を鬼に例えたり、まだ足を踏み入れたことのない山や黄泉の世界に恐怖の存在として鬼を描くようになっていったんだ」


 見たこともない場所。今みたいに車や電車で簡単に遠くへ行けない時代だったら、確かに未知の場所は恐怖も含めて想像力をかきたてたのかもしれない。


「人にとって、よくわからない恐ろしいものが鬼……ってことですか?」

 おずおずと問いかければ、先生はかすかに微笑んだ。


「俺がそう勝手に思っているだけだけど、ね。何にしても、人と鬼には古来から深い繋がりがある。異なる生まれ・文化・信仰を持つ者を鬼に例えたり、人から離れて山へ隠れ住むようになったならず者たちを鬼と呼んで恐れたりしていたらしいよ。文学作品や能などの演目にも、愛憎の末に人の枠を外れて鬼になってしまった女の人を描いた作品などが多くあるね」

「人の想像が、鬼という存在を色んな形で作り出していったんですね……」

 そう返すと、相手は双眸を眇めた。

「そうだね。……けれど、俺は本当に鬼はいたんじゃないかと思ってるんだ」

「え……?」


 どくり。心臓が強く脈打つ。


「誰も寄りつかない山に住んだから鬼とかそういうのじゃなくて……人と違う力を持って、人の境界をいとも簡単に超えてしまう存在は、実在したんじゃないかって。俺はそう思っているんだ」


 人と違う力を持って。

 その言葉で脳裏をよぎったのは、昨夜見た光景。

 月明かりに照らされ、常人離れした動きで塀を飛び越える姿。


「ごめんね、調べ物を途中だったのに長々と話しちゃって」


 言葉にはっと我に返る。謝られて、慌てて首を横に振った。


「そんなことありません! すごく勉強になりました。ありがとうございます」

「こんなことでよければ、いくらでも――」

「八千代」

「え?」


 声に驚いて振り返ると、そこには柊さんが立っていた。彼のことを思い浮かべたばかりだったために、ついぎくりとしてしまう。

 相手は、訝しむ目で私と冴島先生を見ていたものの、つかつかと歩み寄るとテーブルの上の本たちに目を落とし、微かに顔を顰めた。次の瞬間、腕を掴まれる。


「あ、え、あの」

「来い」


 低く告げる声は硬い。そのまま、拒むこともできずに引きずられるように図書館を出る。冴島先生は、にこにこ笑って手を振っていた。


   ***


「余計なことを、知ろうとするな」


 図書館を出て少し歩いたところで、柊さんは手を離し足を止めて振り返った。

 周囲に人の姿はない。

 きっぱりと告げた目は、底冷えするほどに冷たい。


「誰が何を教えたのか知らないが、お前が知る必要のないことだ」


 その言葉で、やっぱり七車には人に知られてはいけない何かがあって、彼はそれを知っているのだということがわかった。

 思わず唇を開きそうになる。関係ないことじゃない。現に、当主から自分は鬼を探せと言われているんだから。そう言い返そうとして、けれど対象にされている本人に明かしていいことなのかわからずに結局口を噤んだ。


「あの男は、使えそうな人間は誰であっても利用する。例えそれが家族でも。全て知って後戻りできなくなる前に、さっさと本家から出て行け」


 淡々としていて、感情の見えない口調。あの男とは、きっと当主のことなのだろう。彼について何も知らない時であったなら、突き放すような台詞に聴こえたのかもしれない。けれど、朝の車内でのことがあった後だと、これは彼なりに気遣ってくれているのではないかと思えた。

 それなら、偽らない本心で答えないといけない。例え、言えない事柄はあっても。


「……どう言われたって、私には私の事情があります。だから、決められた期間本家を離れるつもりはありません」


 相手の瞳を真っ直ぐに見て、告げる。これは私が祖母にしてあげられる唯一のことなんだから。

 しばらく睨み合っていたものの、彼はふと視線を逸らした。


「……そこまで言うなら、勝手にしろ」


 そう言って、こちらに背を向ける。そして、けれど、とそのまま続けた。


「七車の家に深入りするなという言葉は変えない。……おまえは、帰る場所があるんだから」


 後の言葉を告げた声色が、かすかに沈んで聞こえたような気がした。


「柊さん……?」

「さんはいらない。丁寧に話す必要もない」


 そう言って、彼は背を向けたまま一度も振り返らず行ってしまう。


「……柊、君」


 姿が見えなくなるまで見送った後口にしてみたその名は、なかなか慣れそうになかった。


   ***


「五葉様と柊様のお帰りは遅くなるそうです」


 帰りの車の中で、蛍ちゃんは朝と違いいない二人についてそう説明した。どうやら五葉君は部活に入っていて、柊君は特に理由はわからないものの遅れるらしい。

 頼んだことで、今広い車内の隣には蛍ちゃんが座っている。


「ねぇ、蛍ちゃん」


 私は思い切って訊ねてみることにした。この一日でより強くなった疑問。ずっと問えなかった、その問いを。


「七車家にとっての鬼って、いったい何なの……?」

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