2 茅
「確かに、心配ないって言ってたけど……」
着替えを終えて長々と溜息をつき、私は自分の体に目を落とした。淡いブルーの半袖シャツと左胸に校章をあしらったベスト、襟元には赤いリボンが揺れ、下はチェックのスカートと黒のソックスという制服は、前にテレビで見た事があるものだ。これを身に着けていた生徒は、そのことに誇りを持っているように堂々と胸を張っていたように思う。
襟が曲がっていないか、スカートに皺がないかを確認した私は、また一つ小さく溜息をこぼした。
今、部屋にいるのは私だけだった。この制服を渡して驚く事実を告げた少女はもういない。敷かれたままだった布団を止める間もなく綺麗に畳んで押し入れにしまい、居間の場所を伝えると彼女は早々に退室してしまった。本当は着替えまで手伝うと申し出られたけれど、丁重にお断りしたからだ。
朱典学園。先程蛍ちゃんの口にした名前であり、テレビで見たことのある名前を頭に思い浮かべる。テレビで見ただけの曖昧な記憶を必死に手繰り寄せてみるけれど、確か小中高一貫教育で、通うのは良家の子女ばかりという学校だったことしか思い出せない。それはそうだ。今まで、関わる事なんて一生ないだろうと思っていた別世界の学校なのだから。
この七車家に来る前、私は七車の使いの人に聞いた。七車本家にいる間、学校はどうすればいいのかと。
しばらくすれば夏休みだし、健康な体のおかげで今まで欠席は一度もしたことがなかったから、その間だけ休学するべきなのか、それとも七車家から通う事ができるのかと問いかけると、本家からの使いの人は事もなげに言ったのだ。「心配にはおよびません。万事こちらで手配しておきますので」と。それが、こういうことだったなんて。
「戻ったら、凄い騒ぎになりそうだな……」
クラスの友達には、きっと興味津々で編入していた間のことを聞かれるだろう。あの七車の家に居候していたなんて聞いたら、それこそ根掘り葉掘り訊ねられるのかもしれない。むしろ、あまりにかけ離れた世界のために信じてもらえるかも怪しい。考えただけで、少し頭が痛くなってくる。
「そもそも、転入の事、お祖父ちゃんは知ってるのかな……」
あの嫌悪感を隠そうともしていなかった祖父が、本家の人間の話をまともに聞いて、なおかつ快く了承するとは思えない。もしかしたら、三ヶ月だけ、という期限付きだからこそなんとか了解してくれたのかもしれないが。けれど、それなら祖父から何の連絡もないのがわからない。そしてそもそも、昨日来たばかりなのに事が運ぶのが早すぎる。
ぐるぐると悩んでいると、お腹が鳴った。
「……もう、後の事は帰ってから考えよう。うん。とりあえず、まずは朝ごはん食べよ」
こういう時、食欲へとすぐに頭を切り替えられる自分って、単純だなとつくづく思ってしまうのだった。
***
「……あれ?」
教えられた部屋に向かうため廊下を歩いていると、前に人の姿が見えた。思わず体に力が入る。そこはまさに、昨日深見さんと会った場所だったからだ。
けれど、そこにいたのは七車家の長兄ではなかった。
中庭に面した硝子戸は開かれ、廊下に腰を下ろして外を眺めていたのは、髪の長い人物だ。俯き加減の横顔は、肩口を過ぎるくらいの癖一つない真っ直ぐな髪に隠れ気味ではあるが中性的で整って見えた。白いシャツにベージュの細身なパンツというシンプル過ぎる恰好ではあるものの、洋服越しでもわかるその体つきからおそらく男性だろうというのはわかる。けれど、この家の中で彼の姿を見たのは初めてだ。
そこで、ふと思い出す。昨日ここで深見さんが野枝さんに訊ねた名前を。
「確か……茅さん、だったかな?」
何を見ているのだろうと彼の視線の先を辿ってみる。四方を囲まれた中庭は、屋敷の敷地内だというのにそこだけ別の世界のような空間を作り出していた。中央には真っ直ぐに伸びる紅葉の木、根元には苔むした地面が広がっていて、その外には白い玉砂利が敷かれている。紅葉の木のそばを通るように配置された飛び石、秋にはきっと、赤く色づいた葉が苔の上や玉砂利の上に落ちて彩鮮やかになるだろうことが予想された。木の傍らには石灯籠もあり、その周りを邪魔しない程度に緑や花が植えられている。
ふと気づいた。石灯籠の足元、草に埋もれて一目見ただけではすぐに気づく事ができないだろうそこに、小さな親子のカエルの置物があった。庭師が置いたものだろうか。焼き物らしきそれは、少し遅れてやってきた梅雨を楽しんでいるちょっとした遊び心に見えて、思わず心が和んだ。
庭を見ていた彼も同じ気持ちだったのだろう。その横顔には、柔和な笑みが浮かべられている。中性的な雰囲気も相まって、息を呑むほど綺麗だ。
話しかけてみようかと足を踏み出すと、変に力が入ってしまったのか床板が軋んだ。
途端に、その人はこちらを素早く振り返る。
正面から見たことで、なぜかはっきりと私は確信した。きっと、彼が茅さんなのだろうと。
その人は、これまで会ってきた四人の兄弟とはまた系統が違っていた。肌や髪の色素の薄いところは末っ子の五葉くんに似ている。けれど、彼は五葉くんよりも全体的に線が細いように思えた。カッコいいやイケメンという言葉より、美人と形容したほうがぴったりだ。顔から先程までの笑みは跡形もなく消えていて、代わりに浮かんでいる怯えたような表情は、壊れやすい硝子細工のような儚げな印象を受ける。兄弟たちとは全く違う雰囲気だったけれど、彼がここで見かける分家の人たちと同じ立場とはとても思えない。
彼は傍らのなにかを手探りに手にしてすぐさま立ち上がる。そして振り返りもせずに早足に廊下の向こうへ消えてしまった。
「……行っちゃった」
声をかける間もなかった。カエル親子について話せなかったことを残念に思いながら、急いでいたせいか彼が開けたままにしてしまっていた硝子戸を閉めようと近づく。と、先程まで男性がいた場所に、何かが転がっているのが見えた。
「これは……」
指先で摘んで拾い上げてみる。細く握りやすい銀色のそれは。
「ペン……?」
そこで、彼が立ち去った時のことが脳裏に甦る。そういえば、なにかをかき集めて抱えて去っていったようだった。その時に、掻いた手から漏れて忘れてしまったのかもしれない。そこまで慌てさせたのだと思うと、少し申し訳なくなってくる。決して、故意ではなかったのだけど。
「驚かせたちゃったかな……」
硝子戸を閉めながら呟く。あちらからしたら、いつも通りに穏やかに過ごしていたはずなのに、家の中で全く知らない制服姿の女子高生と唐突に出くわしてしまったのだ。驚かないわけがない。
(けど、出会ったのがクマやサメならまだしも、女子高生相手にさすがにあそこまで怯える事はないと思うけどなー……)
そう、ひっそりと傷ついていると、
「あれ? 陽ちゃん?」
前方から、聞いたことのある声がかかった。顔を上げれば、昨日出会ったばかりの顔。
「やっぱり陽ちゃんだ。うわー、制服姿もいいね、似合ってる。すっごく可愛いよ。それに、朱典学園の制服なんて懐かしいなー」
「夜香さん……」
七車家の次男、夜香さんが嬉しげな笑顔を顔いっぱいに浮かべて歩み寄ってくる。いるだけで、周囲の雰囲気が一気に華やぐ。
「おはようございます。夜香さんこそ、どうしたんですか? 朝ごはんの部屋なら、こっちじゃないはず……」
問いかけると、とびきりの笑顔のまま、彼はこともなげに告げた。
「俺は、陽ちゃんを起こしに行こうと思ってたんだよ」
思いがけない答えに、つい固まる。
「……え?」
「あわよくば寝顔が見れるかなーと思ったんだけど、残念」
悪びれた様子のない夜香さんに、蛍ちゃんが起こしに来てくれて本当によかったと心から感謝する。そして、朝起こしてくれることについては丁寧にお断りさせていただいた。目覚めた途端に寝顔を鑑賞する彼と目があうなんて、そんないたたまれない状況にはきっと耐えられないし、勘弁してほしい。一応頷いたものの、本当に聞いてくれるのかわからない夜香さんの態度に、このことは後で蛍ちゃんに相談だな、と心の中で決めた。
「それで、陽ちゃんはこんなとこで立ち止まってどうしたの?」
問いかけられ、先程までの事を思い出し自然と中庭に目をやる。
庭の石灯籠の影にあるものと、それを眺めていた人の優しい笑みが脳裏に浮かんだ。
すると、この場所と庭を見た私の反応で何があったのかを察したらしい。夜香さんは少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「もしかして、茅に会って、逃げられたかな?」
無意識に、ペンを握った手に力がこもる。
「やっぱり、あの人が茅さんなんですね……」
「ここは、あいつが庭師と一緒に世話をして守っている、大切な場所だからね」
その言葉に、驚く。世話をしていたのが、庭師の人だけじゃないなんて。ということは、あの置物は茅さんが置いた可能性もあるということだ。
「私、驚かせてしまって」
後悔しながら言うと、夜香さんは苦笑を浮かべて片手を振った。
「あいつは、ああいう奴だから……気に病む必要はないよ。むしろ、一方的に避けられたんだから、陽ちゃんは怒っていいくらいじゃない?」
「避けられて……」
改めて口にすると、何だかずんと胸の奥が重くなる。夜香さんは庭に目を移して、小さく溜息を零した。
「……茅はね、人が苦手なんだよ」
「人が……ですか?」
思い出すのは、あの怯えたような表情。
「そう。嫌いってわけじゃないんだろうけど、関わることを極力避けてる。大学でも友人を作ってないみたいだし、人と接するのを、恐れているって言ったらいいのかな」
「……どうして」
あんなに綺麗な人で、しかも七車の人間なのに。そう口にしかけて、けれど、私の言葉は途中で途切れてしまった。
こちらを見た夜香さんの笑顔が、少しだけ、悲しそうに見えたからだ。
「気になるのなら、あいつを気にかけてあげて。君なら、茅も逃げなくなるかもしれない」
そう、優しい表情で言ってから、すぐに先程の悲しそうな顔などなかったように悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ああ、もちろん茅だけじゃなくて俺も君なら大歓迎だよ。茅と同じくらい、俺のことも知りたいと思ってくれたら嬉しいな」
(本当にこの人は……)
相変わらずの軟派さに閉口する。すると、そんな反応が新鮮なのか夜香さんは楽しげに笑った。
そんな様子にふと気づく。きっと、彼も弟を気にかけているんだろう、と。そうでなければ――。
「……夜香さんって、優しいお兄さんなんですね」
そう言うと、夜香さんは楽しげな顔から一変して苦笑を浮かべた。
「そんなことないよ。俺たちは母親も全員違うしあまり一緒に過ごすこともなかったから……むしろ、俺たちは普通の兄弟よりも、仲が悪いんじゃないかな」
「え……?」
あっさりと告げられた言葉に、息を呑んだ。母親が、全員違う。似たところの少ない兄弟だとは感じていたけれど、まさかそうだとは思っていなかった。けれど、言われてしまうと納得してしまう。
「……あの……すみません」
なぜか、そう謝ってしまっていた。
「謝る必要はないよ。隠しているわけでもないんだし」
こともなげに言って、笑う。その笑顔からは、影のようなものは一切感じとることができなかった。野枝さんが母親の話で複雑な表情をしたのも、このためだったのかと今さらわかった。七車や分家のなかでは、当たり前に知られていることなのかもしれない。
「そういうこともあって、元からベタベタするような仲じゃなかったんだけどさ。今は、当主の件があるから、なおさら全員仲良くなることは難しいと思う」
「どういう、ことですか……?」
問うと、夜香さんは少しだけ肩を竦めて、
「君は知らないだろうけど、七車の当主はまだ後継ぎを誰にするか決めていないんだ」
と、言った。眉を寄せ、さも迷惑だと言いたげな口調だ。
「跡継ぎって、でも、長男の深見さんは……」
「七車は特殊なんだよ。本家筋の男が短命だからっていうのもあるけど……長男だからといって、必ずしも当主を継げるわけじゃない」
深見さんの名前を私が口にすると、なぜか夜香さんの顔が歪んだ。吐き捨てるように言う。
「分家や七車に取り入りたい奴らの思惑もあるし、俺たちは、当主の座を競わされているんだ。だから、全員仲良くなんていられない。まあ、柊はあんな感じだから元々周りのことなんて気にしないし、俺だって当主には興味なし、茅は散々振り回されてきたようだけど……その重圧も、今はもうない。実際はっきりと狙ってるのは、あの男と五葉くらい」
「そうなんですか……?」
「うん。当主なんて面倒そうじゃない? 継ぐつもりはないし、俺以外の誰が当主になったって構わないと思ってるんだ。一人を除いて、ね」
含むような言い方といい、あの男といった時の夜香さんの苦々しい表情といい、確かに兄弟間の仲は一部あまりよいものではないのかもしれない。けれど。
「確かに、兄弟全員仲が良いというわけではないのかもしれません。だけど……さっき茅さんの話をしてくれた夜香さんは、兄弟を気遣うお兄さんに見えました」
「だから、そんなこと……」
「でなければ、弟の学校での様子や友人を作っていないことまで、気にしたりしませんよ」
そう指摘すると、彼は瞠目して口を噤んだ。
「すみません、偉そうなことを言ってしまって」
慌てて頭を下げると、暫く呆けたようにしていた彼は、ぽつりと呟いた。
「……不思議な子だね、君って」
そして先ほどまでのにこやかな笑顔に表情を変える。
「俺から一つだけ、陽ちゃんに忠告しておきたい事があるんだ」
そう言って、夜香さんが手招きをする。首を傾げつつ、さらに歩み寄ってみた。背の高い夜香さんは、私に合わせて少し屈み気味になる。長い指の指先が、そっと髪に触れて撫で梳いた。近くなった距離とその行為に、少しだけ顔が熱くなる。けれど、彼は気にした風はなく僅かに声量を落とした。
「君がどんな目的でここに来たのかはわからないけれど、深見……あの男には、気を付けて」
そう囁くように言って手を離せば、近づいた事で初めて気づいたように、私の手元に目を落とす。
「それは……ペン? もしかして、茅の忘れ物かな?」
忠告の意味を考えて動けずにいた私は、はっとして頷く。
「あ……はい。驚かせてしまったときに、慌てていて忘れてしまったようで……」
「そっか、よかったら俺が茅の部屋まで届けてあげようか?」
夜香さんはそう提案してくれた。彼と茅さんは普通に話す事ができるから、直接返す事もできるらしい。ありがたい提案に、少しだけ考える。確かに頼んだほうが確実に渡せるし、茅さんを怯えさせることもないのかもしれない。けれど。
「いえ、大丈夫です。さっきの事も謝りたいし……あの、これを返したらすぐに朝食へ行くので、茅さんのお部屋の場所だけ、聞いてもいいですか?」
すると、「真面目だなあ」と小さく笑った夜香さんは、快く茅さんの部屋を教えてくれた。
その後夜香さんと別れて茅さんの部屋に行ったけれど、留守なのかやっぱり避けられているのか返事はなかった。そこで、私は一度自分の部屋に戻ってメモを書き、それと一緒にペンを茅さんの部屋の戸の傍らに置いておくことにした。
メモには、驚かせてしまったお詫びと、ここで暫くお世話になること、ペンを拾ったから返しに来たこと、庭の世話をしているのを夜香さんに聞いたこと、そして庭のカエルの置物にとても和んだのでお礼を書いた。書き終えて、メモというよりも、ほとんど手紙のようだなと思ったけれど、気にしない事にする。
踏んでしまわない位置にメモとペンを置き急いで朝食へと向かった私は、背後で障子戸が遠慮がちに開き、そこから伸びた手がメモとペンに触れたことに、気づくことはなかった。
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