第二章
1 見慣れない朝
夢のなかで誰かに呼ばれたような気がした。
何と呼ばれたかは思い出せないけれど、まったく違うものだったように思う。間違っていると口にして、自分の名前を名乗ったところまでで意識はぷつりと途切れてしまった。
誰に呼ばれたのかも、曖昧で思い出せない。
***
目が覚めると、視界に映ったのは、見慣れた自分の部屋の天井ではなかった。
いつも一番に視界に入る電灯。それがまず違っていた。天井の高さすら、いつもよりずっと高い気がする。頭をめぐらせて周囲に目をやり、その理由がわかる。そこにあったのは畳敷きの床。日頃寝ているベッドじゃなかったのだ。そしてふわりと鼻先を掠めるのは、い草の香りと、それに混じった部屋に飾られたものらしい花の甘い香り。何もかもが常と違う。
まだはっきりしないままの頭で起き上がり、客人用に設えられた柔らかな掛け布団にぼんやりと目を落として、やっと私は思い出した。
ああ、そうだ。今、七車の本家に来ていたんだった、と。
枕元に手をやる。そこには、写真が置いてあった。祖母と祖父が写っているものだ。
「おはよう。お祖父ちゃん、お祖母ちゃん」
直接言えない挨拶を小さく零して、深呼吸とともに感傷的になりそうな気持ちを何とか追い出した。
傍らに置いておいた鞄を引き寄せて、写真をしまいながらふと思い出す。
おかしな夢を見た気がする。誰かに呼ばれたような。
けれど、はっきりとは思い出せず、結局いつもと違う環境にいるせいで疲れていたのかな、と思うことにした。きっとこんな変な夢を見たのは、昨日提示された現実離れした当主の条件の事や、その夜に見た信じられない光景も影響しているに違いない。
(あれも全部夢なんじゃ……)
そんな風に考えた時だ。廊下を誰かが歩んでくるのに気づく。といっても、足音は静かで、かすかに衣ずれの音がする程度だ。耳をすまさないとわからない音。しかし、障子戸に小柄な影が映ったことで訪問者だということがはっきりとわかった。
「陽様、お目覚めですか?」
小柄な影からの問いかけに、まだ布団から身を起こしたままの格好でいた事を思い出す。用意してもらった生地のいい綺麗な寝間着は何だか使う気になれず、身に着けているのは持ってきた普段使っているパジャマだ。絶対に見せられないようなものではないつもりだけれど、寝起きで髪はきっとあちこちにはねているだろうし顔も洗っていないのだから、とても来客を迎えるような姿じゃない。
「ご、ごめんなさい、今起きたところで……っ」
「構いません。失礼いたします」
「えっ……!?」
止める間もなく、障子戸が開かれる。戸の向こう側にいたのは、やっぱり予想した通りの彼女だった。肩口辺りまでの黒髪に、人形のように整った顔立ち、そして巫女のような服装。当主の部屋で紹介された、
彼女は唖然としているこちらの様子など気にせず、部屋のなかに入ってくる。その手には、何やら畳んだ服のようなものを持っていた。
「おはようございます、陽様」
にこりともせず、傍らに座った巫女姿の少女は言う。
「改めて、野枝さんとともに陽様の身の回りのお世話をさせていただきます。七車家の
そう言って頭を下げると、一切癖のない黒髪が動きに合わせてさらさらと流れる。
「ぼくせん……?」
「占いのことです」
問うと、打てば響くようにすぐに答えが返って来た。占いをする係の人がいるなんて、やっぱり古くからあるお金持ちの家はよくわからない。感心しながらもそう思って、少し居住まいを正す。
どう見ても自分より年下で華奢な美少女に、丁寧な物腰で接されると、なぜか変に焦ってしまう。相手が自分よりもよほどしっかりとして見えるからこそ、なおさらだ。せめてもと掛布団の上に正座してみる。けれど、そうして向かい合う姿は、はたから見たらきっとおかしな光景だろう。
「……これからお世話になります、八千代陽です」
そこまで言って、少し迷う。あの場で、当主の傍にいた少女。彼女に訊きたい事はたくさんあった。七車家のこと、鬼のこと、それを探すにはどうすればいいのか。
けれど、いざ話す機会を得ると何から訊いたものか悩んでしまう。散々迷った末に、結局私は何も口にしないことにした。鬼だかなんだかという当主の話が、私に向けたわかりにくい冗談だったり、夢だったりするんじゃないかという期待がまだあったし、改めて確認することが少し怖かったのかもしれない。それに、それがとても重要なことなら、きっと今急いで訊ねなくてもいずれ必要に迫られて訊くことになるだろう。何より、この目の前の自分より年下に見える少女にあれやこれやと訊ねていいのかわからなかったのだ。
ふと、色々考えていて疑問が浮かぶ。といっても、鬼のことではなくて、目の前の僅かに首を傾げている少女のことだ。蛍とお呼びくださいと言われたけれど、さすがに会ったばかりの相手を呼び捨てでなんて呼べない。かと言って、苧環さんなんて呼ぶのも、何だか硬い気がする。暫く悩んだ末、自分の中で最適だと思う答えを選んで笑みを作った。
「えっと……よろしくお願いします、蛍ちゃん」
「……っ」
途端に、ずっとほとんど変わらなかった人形のような顔に驚きの表情が広がった。草食動物を思わせる黒い瞳が印象的な目は、大きく見開かれている。かと思うと、はっとしたようにすぐに顔を俯ける。
「ご、ごめん。嫌だった?」
畳を見つめて黙りこんだ様子に問いかけると、相手は大きくぶんぶんと首を横に振った。そこだけは、少し歳相応の反応に見える。
「……蛍ちゃん、と」
「え?」
ぽつりと呟いた言葉に首を傾げると、蛍ちゃんが顔を上げた。その白い頬が、かすかに薄紅に染まっている。
「蛍ちゃんと……近い歳の方に呼ばれたことがあまりないので……その、つい、驚いてしまって……あの、申し訳ありません」
口調すら、先程までの落ち着いた事務的な調子が嘘のようだ。予想外のことに、つい地がでてしまったのかもしれない。何だか、親しみがわいてくる。
「あと、私に敬語は必要ありませんので……」
そう言いつつ恥じ入る様子は、とても可愛らしかった。思わず惚けていた私は、我に返る。
「あ、うん、ありがとう。……あのね、それで、ついでと言ったらなんだけど、陽様っていうのはちょっと落ち着かないから、私の事も陽って呼んでくれないかな?」
この流れなら言いだせる気がして、思い切って提案してみた。どうも、昨日からずっと引っ掛かっていたのだ。蛍ちゃんだけじゃなく自分よりも恐らく年上な野枝さんまで様をつけて呼ぶので、慣れない呼称にむず痒くて仕方なかった。けれど、私の提案に彼女はとんでもないと首を横に振った。
「そんな、当主様の客人を呼び捨てにだなんて」
生真面目にそう言う少女に、苦笑を零すと思案しつつ指を折る。
「陽、陽ちゃん……いっそあだ名とか。何でもいいからさ。とにかく、様って付けられると、仲良くなりたくても、何だか遠く感じちゃって」
「私と仲良く、ですか……?」
そう言った蛍ちゃんの顔は、今度こそ、心底驚いたというような顔だった。零れそうなほど大きく見張られた目が、きっかり三拍分瞬く。彼女にとって私の言葉は、明らかに想定の範囲外だったらしい。そんな反応をされると、自分で言っておいて何だか恥ずかしくなってくる。
「あの、ごめんね。蛍ちゃんみたいに歳が近い子がそばにいてくれるとなんだか安心するし、短い間でも、こうやって話したりする機会があるならぜひ仲良くなりたいなって……私はそう思ったんだけど。でも、もし迷惑だったら――」
「迷惑なんかじゃ……ありません」
話を遮る勢いで答えた蛍ちゃんは、その後ごく小さな声で「ありがとうございます」と言った。苦しさを堪えるように眉根は切なげに寄せられ、けれど、唇だけは何とか笑顔の形を作ろうとしている。泣きそうな顔だった。名前の呼び方一つで、こんなに彼女の表情の種類をいくつも見る事になるとは思っていなかった。何はともあれ拒絶されずにほっとしたはいいものの、問題はそこからだ。
気軽に提案したつもりだった呼称の変更は、蛍ちゃんにはなかなか難しい事だったらしい。彼女はしばらく、なぜか膝の上の拳を力いっぱい握り締めてぷるぷると震えていた。体の調子でも悪くなったのではないかと心配していたところで、やっと、呻くような、絞り出した声が蛍ちゃんの小さな唇から洩れた。
「は……」
「ん?」
「陽……さん。……申し訳、ありませんっ……これが、私には精いっぱいです…」
「だ、大丈夫大丈夫! 陽さんでいいよ。様より断然近くなった気がするよ!」
思いつめた顔に、慌てて手を振った。皺を深く刻んだ眉間に、ダメなんて言おうものなら頭を打ち付ける勢いで土下座でもしかねない雰囲気を感じ取る。思ったよりも、真面目過ぎて暴走するタイプの子なのかもしれない。こちらの返答で、強張っていた顔がほっとしたように少しだけ和らいだ。
「それでは、陽……さん、朝食をご用意しておりますので、支度が済んだら居間におこしください」
そう言って、これまで傍らに置いていたままだった、抱えてきたものを私の前にそっと置く。
「これは……制服?」
けど、これは私が通っている高校のものではない。
「はい。は、陽さん……がこちらにいる間、夏休みまで学校に通えずお勉強が遅れてしまっては大変だから、と当主様が取り計らってくださったのです」
そこまで聞いても、私は混乱してどういう事なのか察する事ができなかった。
「えーと……つまり……?」
すると、目の前の美少女は幾分か打ち解けてきたからだろう楚々とした笑みを口元に浮かべて言ったのだ。
「陽さんには、七車にいる間、柊様や五葉様と同じ
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