3 鬼

「お部屋で必要な物があれば、何なりとお申し付けください」


 家の中に入ると、早々に割り当てられた部屋へ荷物を運ぶよう他の着物姿の女性たちに指示をしながら、野枝さんはそう告げた。

 ここで掃除をしたり食事を作ったりと働いているのは、皆七車本家のすぐ近くに居を構えている分家の人たちらしい。


「お部屋を用意してもらっただけでもありがたいのに……これ以上なんて」

「陽様は、当主様の招いた大事なお客様です。不便な事があれば、遠慮なく、おっしゃってください」


 野枝さんの言葉はきっぱりとしている。だから、それ以上何も言えずに私はただ返事をするしかできなかった。そして、ただの高校生でしかない私にここまでしてくれる当主は、どんな人なのだろうと改めて考えずにはいられなかった。


 歩みながら見る部屋はどこも立派で、ガラス戸の曇り一つ、埃の一欠けらさえなく、手入れも行き届いている。庭師や、分家の人とはいえお世話をしてくれる人のいる家。そんな家で当たり前に生活している人たち。やっぱり、別世界だ。

 当主の部屋へは、すぐに辿り着けるわけではなかった。七車家のお屋敷は、外から見た通りでやっぱり広かったのだ。

 角を曲がり、中庭に面する廊下へ出ると、そこに一人の男性が立っていた。ガラス戸の向こう、中庭を見ているようだ。


深見ふかみ様……」

 なぜか、呟くように言った野枝さんの声が硬い。男性が気づいたらしく、こちらを見た。

 切れ長の目に、一瞬睨まれたかのように思えた。けれど、私たちの姿を視界に留めた深見さんと呼ばれた相手はもう睨んではいなかった。


「……なんだ、野枝か。ちがやを見なかったかい? 部屋にいなくてね」

「茅様の事は……申し訳ありません、私は存じあげません……」


 野枝さんが僅かに緊張している事がわかる。この人も、きっと七車家の子息なのだろう。歳の頃から言えば、長男の可能性が高い。けれど、先程の二人の時とは、彼女の反応が明らかに違った。


「そうか……あの子も、仕方がないね。……おや?」


 そこで初めて、深見さんは私に目を移す。


「野枝、こちらは?」


 物腰の柔らかな言葉とは裏腹に、柊さんとは違う種類の冷たさを感じる態度。表面上口元には笑みが浮かべられている。しかし、何の興味もないけれど行き掛かり上訊ねてみたという様子が瞳でありありとわかる。


「当主様の招きで、本日より三か月間こちらで暮らす事になりました、八千代陽様でございます」


 野枝さんが答えると、それまで一切関心を示していなかった深見さんの目に違う光が宿ったように見えた。


「へぇ……そちらがあの、ね」


 そして、先程までの無関心ぶりを打ち消すように、じっと見つめられた。


「あ、あの……?」

「……ああ、これは失礼しました。俺は七車深見といいます。これから、よろしくお願いしますね」


 それでは、と深見さんは最初とは違う穏やかな態度で挨拶して去っていく。姿が見えなくなると、野枝さんはほっと息をついた。緊張も解けたようだ。

 あんなに緊張するなんて、穏やかそうに見えたけれど、実は怖い人なのかもしれない。

 彼の消えた廊下を見ながら、何となく、私はそんな風に思った。


   ***


 深見さんと別れ、廊下を進んで角を曲がり、暫く歩いたその先、屋敷の奥にその部屋はあった。


「少々お待ちくださいませ」


 そう言い置いて、先に野枝さんが障子戸のそばへ膝をつく。そのまま中へ声をかけようとした時だった。


「……っもういい。失礼します……!」


 大きな声とともに、勢いよく障子戸が開かれる。

 現れたのは、色素の薄い柔らかそうな癖のある髪と、猫のような切れ上がった目尻の少年。

 向こうも戸の向こうに人がいた事に驚いたようで、大きく見開かれた目を数度瞬かせる。けれど、すぐにぎゅっと眉間を寄せた。


「退け!」

「っ……申し訳ありません」


 野枝さんが端へ寄ると、そのすぐ横を足音も荒く少年は去って行った。私には、一瞥をくれる事もなかった。

 説明されなくても、もうわかる。


「野枝さん、今の人はもしかして……」

「……五男の、五葉いつは様です」


 疲れの滲む、声量を抑えた野枝さんの返答。予想した通りだった。

 こう立て続けに兄弟に遭遇するのは、偶然なのだろうか。


「野枝」


 と、室内から声がかかる。


「はい」


 慌てて、野枝さんが改めて姿勢を正した。五葉さんによって開きっぱなしになってしまった障子戸の向こう、部屋の中の主人に手をついて頭を下げる。


「八千代陽様をお連れしました」

「……入れ」


 少しの間の後に、短い返事。野枝さんに促され、私は緊張していくのを感じながら部屋の中へと足を踏み入れた。


 部屋の中には、二人の人物がいた。一人は、まるで市松人形のように艶やかな黒髪を切り揃えた、美しい少女。白の小袖に、朱の切袴という、まるで巫女のような服装をして、当主と思われる男性から少し離れた場所に控えている。

 そして、部屋の前方に座する人。目の前に立つと、その威圧感はいっそう強く感じとれた。

 すっと伸びた背筋と強い眼差しに、ごくりと息を呑む。その鋭い眼光は、庭で会った七車家の四男である柊さんを思い起こさせた。


(これが七車家の現当主……)


 白髪の混じる髪を後ろにすっきりと撫でつけ、着流し姿のその人は、確かに七車の一族の当主と言われて納得できる風格を漂わせていた。私が中に入ると、野枝さんは部屋に入らず障子戸を閉めて下がってしまった。


「八千代の引き取った娘、か……随分、大きくなったな」


 低くよく通る声が耳に響く。目の前に座るように示されて、おずおずと少し距離を開けて正座した。

 会ったことなどないはずなのに、彼は私を知っているような口ぶりだ。

 黒服の男の話では、当主が私と会って話をしてみたいと言っている、という事だった。ここに来るまで、なぜそんな事になったのかわからなかった。会った事もないし、自慢ではないけれど、会いたいと言いたくなるほど特別私が何かに優れているという事もない。接点もないのに、どうして、と。けれど、そうではなかったのかもしれない。


「……すみません、私……お会いした覚えがなくて……」


 誤魔化す事もできなくて、正直に言うと、当主は少しだけ表情を和らげた。硬い雰囲気が、それだけで幾分か変わる。自分に対してそんな表情を向けてくれた事が、意外だった。


「それも当然の話だろう。もう、ずっと昔の事だ……」


 そう言って、まるで当時の事を振り返るように双眸を眇める。やっぱり、以前に会った事があるのだ。混乱しながらも、私はずっと疑問に思っていた事を口にした。


「あの、……突然こんな事を訊いてすみません。けど……本当に、私はここで三か月、ただ暮らすだけで祖母の治療費を援助してもらえるんでしょうか……?」


 治療費の援助。謝罪するために追いかけた時、七車家の使いの男性が言った言葉だった。

 七車本家の当主なら、治療費の援助など容易いという事。そして、当主からも私が出す条件は出来うる限り全て呑むように言われているという事。

 だからこそ、私は祖父に黙ってここに来たのだ。祖母の、完治のために。

 すると、当主はついと口角を上げた。それは、出会ったばかりの七車家の次男を思わせる仕草だった。


「ああ。約束しよう。ただ……暮らすだけ、というのは正しくない」

「え……?」


 困惑する私に、当主はゆっくりと、再び唇を開く。


「君には、この七車で探してもらいたいものがある」

「探してもらいたいもの……?」


 状況の飲み込めない私に、彼は続けた。



「探してもらいたいのは、"鬼"……。七車を繁栄へ導く鬼を、君に見つけてもらいたい」


   ***


「……はあ」


 今日何度目かのため息をつく。

 当主の部屋を後にして、今の私は案内された自分の部屋にいた。夕食を食べる気力もなく、ぼんやりとしているうちに辺りはすでに暗くなり、廊下に人の姿はない。

 思い返すのは、とても信じることのできない、先ほど言われた言葉。

 対面した七車家の当主は、私に“鬼”を見つけてほしいと言った。


 何でも、七車家は昔から鬼神を祀っていて、数代に一人、その鬼に憑かれた男の子が生まれるのだそうだ。その子を見つけることができれば、七車家はそれから次の鬼が生まれるまで繁栄が約束されるのだとか。誰かまではわからないものの、すでに七車には鬼憑きの男子が生まれているらしい。にわかには信じられない話ではあるけれど、当主の顔は、とても冗談を言っているようには見えなかった。

 そして、とんでもない話はこれだけでは終わらない。さらに信じられないことに、七車を繁栄に導くその鬼を見つけられるのは、私だけなのだという。


 何から何までまるで物語のなかのようなあまりにも現実離れした話で、呆気にとられていることしかできなかった。そうしているうちに、当主が約束のため外出する時間になってしまい、去ってしまった。だから、今も色々と聞きたいことが頭の中には渦巻いたままだ。

 これから、いったいどうなるのだろう。


(気分を変えるために、顔でも洗ってこよう……)


 立ち上がった私は、そっと障子戸を開けた。すでに屋敷の中は静まり返っていて、皆眠りについている時刻だ。

 野枝さんから大まかに説明された屋敷の間取りを頭の中に浮かべながら、廊下に出た、その時だった。

 何かが、視界を横ぎった。

 鳥よりも大きい。獣かと思えたそれは、高い塀の上を体勢を崩すことなく走っていた。

 と、雲で隠れていた月が、僅かに顔を覗かせる。

 月明かりに照らされた、その姿。


「え……」


 私は目を疑った。常人離れした動きで塀を飛び越えたのは、昼間に会った七車柊――七車家の四男だったのだ。

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