第一章
1 はじまり
「うわー……」
車のドアが開けられ、額をぶつけないように気をつけつつ外へ出ると、目の前にあったのは大きな門だった。大型車でも余裕で通れそうなその大きさと醸し出す迫力に、思わず圧倒される。
そもそも、塀からしてこちらの感覚と違っていた。車の窓から見えたどこまでも続いているかのような屋敷を囲む高くそびえたつそれは、この門を見てやっと一個人宅のものなのだと気づいたほどだ。
「あ、あの……ここ……なんですか?」
恐々と目の前の門を指さして振り返る。けど、ドアを開けてくれたその人の姿はもうそこにはなかった。
「え、ウソ……っ」
ドアの閉じられた車からしたのはエンジン音。私を乗せてきた車は、今まさに発進するところだった。
門前には状況を説明する人もなく、それどころか、連れてきた人間にすら荷物とともに放り出されてしまった。
「あの、待っ……」
私は慌てて手を伸ばしたけれど、無駄だった。
無情にも、滑るように走り出した車は、そのまま停まることなく角を曲がって見えなくなってしまった。
「……」
空しく宙に浮いたままだった手を力なく下ろすと、私は長々と溜息をついた。そして、再び門と、そこにかかる流麗な文字で書かれた表札を見上げる。
『七車』。
表札には、名家として知られるその名が書かれている。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
再び溜息をついた私は、まだ梅雨が続くじめじめとした六月終わりのあの日の事を、ぼんやりと思い出していた。
あの、とても長いように思えた一日の事を。
***
「治らないって……どうして!?」
私が声を荒げると、祖父はそれを手で制して、周囲に目をやった。その目元には、くっきりと隈ができている。声を落とすように注意されて、私もここが病院の廊下である事を思い出した。辺りには、入院患者や付添いの家族、看護師に見舞客などがいる。彼らは唐突に大きな声を出した私の様子をちらちらと窺っていた。けれど、だからといって冷静にはなれない。声量を下げて、私は祖父に詰め寄った。
「おばあちゃんの病気は大したことないって、おじいちゃん言ってたよね!? すぐによくなるって……なのに、なんで」
「症状がよく似ていて……わからなかったらしい。詳しい検査をしてみて、やっとわかったそうだ……」
肩を落とす祖父の顔には、隈以外にもはっきりと疲れが見える。
「そんな……」
目の前が真っ暗になった。優しい祖母の顔がちらついて、歪みそうになる視界を堪えられない。
祖父、祖母といっても、二人は私の本当の家族ではなかった。幼い頃に両親を亡くして親戚の家を転々としていた私を、娘を亡くした二人が引き取って育ててくれたのだ。
二人は、自分たちの子どもではない私を、時には本当の娘のように、時には孫のように育ててくれた。優しくて、時々は厳しい、私にとっては唯一の大切な家族。受けた恩は、計り知れない。
きっと一生かかっても返しきれないけれど、学校を卒業して就職したら、少しずつ恩返しをしていくつもりだった。それなのに。
「これをお前に言うのは、あれに散々反対されたんだ。けれど、もう
「これから……?」
問い返しながらも、私は体が自然と強張るのを感じた。なぜだろう、その先を聞きたくない。
「完全に治すには、特別な技術がいるそうだ。そして、その治療を受けるには、莫大な費用がかかるんだ。そんなもの、すぐに用意できるものじゃない」
その言葉は、心底悔しそうだった。握りしめた祖父の拳は小刻みに震え、力を入れすぎて白くなっている。
「……私たちには、病の進行をできるだけ遅らせて、現状を維持していく事しかできないんだよ……」
現状の維持。
それはつまり、祖母が完治する日はこないという事だ。
リノリウムの床に目を落とし、唇をきつく噛みしめた私は、何かいい方法がないかと一生懸命頭を働かせた。そして、思いついて顔を上げる。
「その費用……お母さんとお父さんが遺してくれたお金じゃダメなのかな。足りないなら、いくらでもバイトするし、今すぐは無理でも、お金を貯める事はできるでしょ?」
「陽」
「私たくさん働くから、何なら、学校を辞めて――」
「陽!」
焦って次々と口をついてでる言葉を、祖父が止めた。
「私たちは、お前にそんな事を望んではいないんだ。お前の両親が遺したのは、お前のためのお金だ。それがなくとも治療を続けていく事はできるし、すぐに生活に困るわけじゃない。だから、お前にはきちんと学校をでてほしいんだよ。それが、あれの願いでもある」
「おじいちゃん……」
そう言われてしまったら、もう何も言えなくなっていた。
確かに、高校に入学した時も、二人はとても喜んでくれた。届いたばかりの制服を着て、家の前で一緒に写真を撮ったのも、もう一年以上前の事なのについ最近のように思える。
こんなに大きくなって、と細めた目に涙を浮かべてしみじみと言っていた祖母の事を思い出すと、胸がぎゅっと締めつけられた。
「……わかった。ごめんなさい」
肩を落として項垂れると、頭の上に温かな手の感触がした。幼い子どもにするように、くしゃくしゃと撫でられる。
「お前はこれまで通りでいいんだよ。見舞いに来て、元気な笑顔を見せてくれれば、それでいい。難しい事かもしれないが……それが、一番の励ましだろう」
そう話す祖父の言葉は、静かで落ち着いていた。きっと、こうやって言えるようになるまで悩んで、苦しんできたのだろう。それこそ、目元に隈ができるほどに。
それを思ったら、やっぱり私の頭は、見舞いの他にも自分にできる事を考えずにはいられなかった。
そして、そんな時だった。
「八千代さん、お客様ですよ」
ふいに声をかけられて振り返ると、看護師の女性が立っていた。後ろには、スーツ姿の男性。私たちの姿を認めたその人は、規則的な歩調で目の前へと進んできた。その歩調は規則的で、スーツやシャツにはシワ一つない。
「八千代
「そうだが、あんたは……?」
祖父の問いに、男は無駄のない所作で一礼をすると唇を開いた。
「私は、七車家当主の使いでまいりました」
「七車家……だと……」
その途端、祖父の顔が強張ったのがはっきりとわかった。
七車。その名前は聞いたことがある。七車家といえば、歴史を辿れば平安まで遡るという古くから続く日本でも有数の名家だ。私の家や、八千代家も元を辿っていけば七車家に繋がるそうなのだが、あくまで分家筋。しかも、とても遠い。本家の人たちは、別世界の住人のような存在だった。
そんな人たちが、祖父と関わりがあるなんて、聞いたことがなかったし、信じられなかった。
「今さら何の用だ。桜の事なら、今頃来たって――」
「いえ、今日私が訪れたのは、桜様の件ではございません。陽様に関する事でございます」
「私?」
まさかここで自分の名前が出るとは思っていなかった私は、目を丸くして訊ねた。男は頷く。
そして、言った。全ての始まりである言葉を。
「陽様を七車本家へお招きするために、私はまいりました」
***
ふと思い出した私は、唯一持ってきた荷物であるボストンバッグを漁った。取り出したのは、一枚の写真。
真新しい制服を着た私と、祖父、祖母が家を背景に笑顔で写っている。まだ祖母の病気の事など、誰も知らないし予想もしていなかった頃。心からの笑顔を浮かべる事ができた頃の写真だ。
「おじいちゃん、怒ってるかな……」
答えは、わかりきっている。
私を本家に、という男の言葉を聞いた瞬間に、強張っていた祖父の顔が怒りで真っ赤に染まったのを思い出す。
本家の使いだという人が説明したのは、七車の当主が自分に会いたがっているという事。そして夏休みを含めた三か月の間、本家に招きたいと言っているという事。しかし、話は最後まで聞けなかった。
祖父が、ろくに話も聞かずに追い返してしまったからだ。
――あんたたちは、また私たちから奪うつもりなのか!
そう怒号を飛ばした祖父は、一切の男の話を遮ってしまった。
今までだって怒られた事はあった。だけど、あそこまで激高した祖父を見た事はない。私は思わず呆然として、我に返って慌てて後から男を追い、謝罪したのだった。
「……もう、許してくれないかもしれないな……」
勝手な事をして申し訳ないという気持ちと、三か月したら必ず戻るという言葉を置手紙にして残してきた。けれど、祖父に黙ってここまで来たのだ。家に戻った後は、きっと酷く叱られる事になるだろう。もしかしたら、今まで通りに接してくれなくなるかもしれない。
でも、自分の行動を悔やむつもりはない。
なぜならこれは、私にもできる、祖母のためになる事なのだから。
と、考えはそこで中断した。目の前の大仰な門が突然開いたからだ。
「八千代 陽様ですね?」
門の向こうから現れたのは、着物姿の女性だった。
「え、あ、はいっ」
緊張から、声が上ずる。慌てて写真をバッグのポケットに突っ込んだ。しかし相手はにこやかな笑顔を浮かべたまま、こちらの様子など気にする風もなかった。
「お出迎えが遅れてしまい、申し訳ありません。私、本家で陽様のお世話をさせていただきます、
落ち着いた色合いの着物を上品に着こなしたその人は、私より四つか五つほど年上に見える。薄めの化粧をした顔は、目鼻が小さく見た目に明らかな華やかさはないものの、真面目そうに見えた。
「よ、よろしくお願いします……」
丁寧な対応についつい恐縮してぎこちなく頭を下げる。野枝さんは、開いたままの門の中を示して笑みを深くした。
「それでは、当主様のもとへご案内させていただきます」
そして私は、七車家の門の内側へと、足を踏み出した。
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