子どもなんて好きじゃない。

 フレンドリー・フレンド株式会社。通称『フレ・フレ』は、ベッドタウンとして人気の高い郊外に本社および工場を持つ知育玩具メーカーである。



 私が弁護士を目指すようになったのは何歳の頃だっただろう。

 はっきりとした年齢は覚えていないけれど、その動機は覚えている。

 それは正義を貫きたいとか、弱い人を守りたいとか、そんな高い志ではなかった。

 ひとつ目の理由はお金を稼げるようになりたいこと。女性でしっかりと収入を得るためには、手に職を付けるのが一番手っ取り早いと考えた。

 それだけならば他にも職種があっただろうが、その中で弁護士をえらんだのはふたつ目の理由が影響している。それは自分の身を自分で守れるようになりたいということだ。

 運動が得意ではない私は腕力で自分を守ることができない。そんな私にとって法は強い武器、強い防具になると思った。

 もしかしたら、女性弁護士が活躍するドラマを見た影響だったのかもしれない。

 弁護士になれば、自分が理想とする大人になれるとそう思い込んでいたのだ。

 初志貫徹というのか、そうした幼い頃の思い込みを貫いて私は弁護士になった。

 弁護士になってしばらくの間は大手弁護士事務所に勤めて経験を積んだ。その後、企業法務専門の『あずみ法律事務所』を開業して間もなく五年になる。

 最初の顧問先は玩具メーカーの『フレンドリー・フレンド株式会社』だった。いや、むしろこの会社のために企業法務を身に付けたといっていい。

 私はそれほどまでにこの会社に恩義を感じている。

 やはりこの表現も正確ではない。恩義を感じているのは、この会社の専務である友永市子に対してだ。

 それは恩義というよりも執着かもしれない。



 二十歳。

 私は、法学部に通う苦学生だった。

 一日でも早く弁護士になるために、できるかぎり勉強に時間を費やしたい。だけどお金がなくては生活ができない。

 例えば、参考書を先輩から譲ってもらったり、値引き品を狙って食品を買って食費を抑えたり、ときには食事を抜いたりしながら節約をしていたけれど、それにも限界がある。

 だから拘束時間が短くて時給の高いアルバイトを探していた。

 体力がないので肉体労働は難しい。疲れ果てて勉強ができなくなっては本末転倒だ。

 夜の仕事も考えた。男性にウケがいい容姿であることは自覚している。それなりにいい稼ぎになるだろう。だけど精神的な疲労を考えると割りが合うとは思えなかった。

 そんなときにフレ・フレの短期アルバイトの募集を見つけた。

 アルバイト期間は一週間。拘束時間が短く時給も高い。業務の内容は、子ども連れの親御さんにアンケートをとること。

 私は迷わずこのアルバイト応募した。

 知らない人に声を掛けてアンケートを頼むのは大変だろうと思っていた。だけど実際にやってみると想像していたほどではなかった。

 元々人見知りをする方ではなかったし、初対面の印象は良い方だと思う。

 まずは「こんにちは、少しお時間よろしいですか?」とソフトな声と笑顔で声を掛ける。そして相手が少しでも警戒心を解いたら、すかさず「フレンドリー・フレンド」の名前を出すのだ。

 フレ・フレは大手メーカーではないが、良質な乳幼児向け玩具を販売していることで主婦層の知名度が高い。

 だから多くの主婦たちは快くアンケートに応じてくれる。

 そうして五日目も無事にアンケート収集を終えて、私はフレ・フレ社屋に戻った。

 工場と事務所が一緒になったような社屋で、知名度からすれば随分みすぼらしい社屋だ。

 担当者にアンケートの束を渡し、受領のサインをもらったとき、一人の男性に声を掛けられた。

「安曇房子(あずみふさこ)くんだね。少し話がしたいんだが、時間はあるかい?」

 私は少し警戒したがナンパという感じではない。

 男性の年齢は三、四十代。作業着を着ているが事務方の社員だと感じた。

 どうしようかとも思ったけれど、フレ・フレの社員ならば、何か良い話をもらえるかもしれないという下心もあって、私は男性の申し出を了承した。

 例えば、アンケート回収期間を二日延長してほしいという話だったら即座に了承しよう。あと二日分プラスになったら何ができるか頭の中で即座に計算する。

 しかしそれならばアンケートを提出したとき、担当者から伝えられるだろう。それがなかったということは私の目論見は外れるということだ。

 そんなことを考えながら男性について小さな会議室に入る。

 テーブルに着くと男性が私の前に缶のオレンジジュースを差し出した。食費を削っている私にとって、カロリーも糖分も大歓迎である。

 カロリーのないブラックコーヒーではなく、オレンジジュースをチョイスした男性への好感度が少し上がる。

 オレンジジュースのおかげで、今夜の夕食は抜くことができる。私は遠慮なくジュースをグビグビと飲んだ。

「安曇くんは弁護士を目指しているんだって?」

 オレンジジュースに夢中になっていると、男性は採用時の履歴書を見ながら言った。

「はい」

 私は極めて端的に返事をする。

「うん。キミなら大丈夫だろう」

 男性は一人で納得したように頷く。

「いいバイトがあるんだが、やってみる気はないかい?」

 私は警戒レベルを引き上げた。このような言い方をするということは、現在やっているフレ・フレのバイトとは別の内容だろう。そして、おいしい話には裏があるものだ。

 男性は私の返事を待つことなく続ける。

「実は、私の娘の家庭教師をお願いしたいんだ」

 その依頼内容に少し拍子抜けしたがすぐに気を引き締めた。

 わざわざフレ・フレに来たアルバイト学生をスカウトするのだ。そこには何か理由があるのだろう。

 それに、家庭教師のアルバイトは以前にも検討したことがある。結果、それをしなかったのは子どもが苦手だからだ。

 苦手な理由は簡単だ。子どもには私の笑顔が通用しない気がするからだ。

 私の笑顔は円滑に世間を渡り歩くための武器であり鎧だ。

 それをはぎ取られたら私は立っていることもできないだろう。

 断ることで心は決まっていたのだが、男性の名前を聞いて少し戸惑った。

 男性の名は友永喜一(ともながきいち)。フレ・フレの創業者の息子であり、実質会社を取り仕切っている副社長だった。

 そのような人物の提案を簡単にはねつけられるほど豪胆な精神力は持っていない。

 仕方がないので最後まで話だけは聞くことにした。

 家庭教師の相手は、十三歳になる喜一の娘・市子(いちこ)。

 市子はどうやら反抗期の真っ只中にいるらしい。怒ったり暴れたりするわけではない。ただ、両親とほとんど話をせず、笑顔を見せることもないそうだ。

 元々、両親ともにフレ・フレの社員として忙しくしており、一緒に過ごす時間が少なかった。市子が中学に上がってからは、反抗期と重なり、ますます顔を合わせることが無くなったという。

 市子の反抗期は家庭の中だけでなく、学校でも発揮されているようで学校でも友だちも作らず孤立しているそうだ。

 これは心配した教師からの連絡で知ったという。

 さすがにこれはいけないと家にいる時間を増やし、市子との対話を試みた。

 ところがそれは逆効果でますます口を利かず部屋に閉じこもってしまう。

 親がダメならと家庭教師を雇い、少しでも一人でいる時間を減らそうと試みているようだ。

 市子は無理に家庭教師を付ける必要がないほど学校の成績がいいらしい。つまり家庭教師とは名ばかりで、市子が家に一人でいる時間を減らして話し相手になってほしいという依頼だった。

 これまでに幾人か家庭教師を付けたのだが、みんな一週間も持たなかったという。

「最初は優秀な男性の家庭教師だったんだ。そうしたら目がいやらしかったと言ってね。思春期の娘に男性はまずかったかと思って次は女性の家庭教師を頼んだんだ」

 話を進めるたびに、喜一の顔は暗くなっていく。

「気さくで明るい女性だったんだが、声がうるさいとか、頭の悪さが言葉に出るとか言ってね」

 喜一の話を聞きながら私の顔も暗くなっていく。

「次は、一流大学に通っている女性の頼んだんだが、人間力が低いと言い出した」

 そして喜一はパッと顔をあげて私をジッと見た。

「だがキミなら何の文句も付けられないだろう。キミは今回のバイトの中でもアンケート回収率がダントツだ。実際に会ってその理由が分かったよ。ぜひ、お願いできないだろうか」

 信頼してもらえるのはありがたいが、そんなにうまくいくとは思えない。おそらく私に何の非がなかったとしてもクビの理由を見つけ出すだろう。それこそ髪型が気に入らないとか、足が臭いとか、理由は何でもいいのだ。

「いえ、私なんかに務まるとは思えません」

 喜一がどれだけ頭を下げようと、私の中には「断る」の一択しかなかった。



 翌日。私はフレ・フレのアンケート回収のバイトには行かず、友永家の前にいた。

 喜一の熱意に負けたわけではない。何か理由を付けて断ることも不可能ではなかったと思う。

 それでも引き受けてしまったのは時給の良さだ。フレ・フレの時給よりも高い金額を提示されて私の心が揺れないわけがない。

 フレ・フレのバイトはあと二日で終了する。

 たとえ二日でクビになったとしても収入がアップする。もしも一日でクビになった場合でも、フレ・フレでバイトをすればもらえた額を保障してくれるという。

 つまり一日でクビになると、収入は同じで勉強時間が一日作れるという大変お得な話だった。

 そんな打算がついつい私の首を縦に振らせてしまったのだった。

 カロリーのためだ。生活のためだ。これは致し方ない選択なのだ。私はそう決意を固めて呼び鈴を押す。

 反応はない。

 二度目の呼び鈴を押す。

 反応はない。

 三度目の呼び鈴を押す。

 やはり反応がない。

 私はバッグの中から友永家の合鍵を取り出した。

「三回呼び鈴を鳴らして出てこなかったら、これで中に入ってください」

 と、喜一から渡されたものだ。

 私の心には不安しかない。でも引き受けたからにはやるしかない。

 私は両手で頬を軽くもみ笑顔を作る。

 玄関に入り「こんにちは」と声を掛けたが反応がない。

 ただの不在なのではないだろうかと思いながら家の中に入ると、リビングに少女の姿があった。これが市子だろう。

 ソファを背もたれにして床に座り、ローテーブルでノートに向かっている。宿題でもやっているのだろうか。

「市子ちゃん、だよね。今日から家庭教師としておじゃますることになった安曇房子です。よろしく」

 私は笑顔の鎧をまとって完全武装した。

 市子は文字を書いていた手を止めて横眼でチラリと私を見た。

 涼し気で力のある目もとは、十三歳とは思えないほど大人びて見える。

 心臓がトクリと鳴った。

 怖い。

 私はなぜだか足がすくんでいた。

「もう帰って。一週間は働いたことにしておけばいいでしょう? パパにはそう言っておくから」

 それだけ言うと市子はノートに視線を戻してしまう。

 私は動けなかった。万々歳ではないか。一週間分のバイト代がもらえて、かつ勉強する時間までできる。

「いつまでそこに立ってるつもり? 目障りだから早く帰って」

 市子は視線を向けることなく言い放つ。

「そういう訳にはいかないでしょう。少しだけでもいいから、一緒に勉強しない?」

 私は笑顔を崩すことなくなんとか言葉を紡いだ。一応、私にも立場と言うものがある。プライドだってある。

 すると市子は顔をあげて私をジッと見つめる。鋭い澄んだ瞳で見つめられて私は息が詰まる。

「嘘くさい笑顔。気持ち悪い」

 市子の言葉は刃となって私の心に突き刺さった。

 だから子どもは嫌いなのだ。笑顔で取り繕うことでしか生きてこられなかった事情なんて想像もできないくせに、簡単に鎧を剥ぎ取って傷つける。

 人を傷つけてもなんとも思わない。傷つけたとすら思っていない。それが当然の権利であるかのように、女王様のように振る舞う。

 だから子どもは嫌いなのだ。

「どうせ時給が良かったとかでしょ? お金は払うって言ってるんだからいいじゃない」

 市子は冷淡な口調で続けた。

 市子の言う通りだ。私はお金が必要だからここに来た。それさえもらえれば、それ以上何かをする必要なんてない。

 それなのに私は金縛りにあっているかのように動けなかった。反論する言葉も、説得する言葉も出てこない。

 次の瞬間、市子が「えっ」と声を上げた。

「あなた、なんで泣いてるの」

 市子に言われてはじめて、私は自分の瞳から涙がこぼれ落ちていることに気が付いた。

 なぜ泣いているんだろう。

 何が悲しいのだろう。

 どうして心が痛いのだろう。

 自分でもわからない。

 そして必至で絞りだした言葉は「だから、子どもは嫌いなの」だった。

 だがその一言を発した瞬間、急に体が軽くなり言葉が勝手に口から滑り落ちる。

「自分が何を言っても許されると思っているんでしょう? 誰を傷つけてもいいと思ってるんでしょう?」

 私の言葉に市子も反論する。

「何を言ってるのよ。言い掛かりはやめてくれない?」

「あなたの言葉で誰も傷ついていないと思ってるの? これまでの家庭教師も、あなたのお父さんも、お母さんも、私も、傷つけていないと思ってるの?」

「私は、誰も傷つけないようにこうしているだけよ」

「傷つけない? 本当に傷つけてないと思ってるの?」

「そんなこと、あなたに関係ないでしょう」

「自分の思い通りにならなくて、自分だけが不幸だって思いこんで、それに浸っているだけでしょう」

「勝手に決めつけないで。私だって色々考えてるんだから」

「考えた結果がこれなの? 本当にお子様ね」

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」

 気が付くと市子も涙をボロボロと流していた。

 そこからはお互いにボロボロと泣きながら、何の意味もない罵詈雑言を浴びせるだけだった。

 それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。

 お互いに発する言葉もなくなり沈黙が訪れた。

 「プッ」と吹き出したのは市子だった。私もつられて笑ってしまう。

 こんな言い合いをしたのは生まれて初めてかもしれない。

「先生、顔がスゴイことになってるよ」

 市子が私を先生と呼んだことに驚いて目を見開いた。

 市子は照れながら笑みを浮かべる。それは年相応の子どもの笑顔だった。

「あなただってスゴイ顔になってるよ」

「私はまだ子どもだからかわいげがあるけど、先生の年だとちょっと厳しいよ」

 そう言って今度はいたずらっ子のような笑顔を浮かべる。

「先生は猫かぶりなの?」

「え?」

「最初のときより今の方が絶対いいと思うよ」

 市子は言う。

 今の私は一体どんな顔をしているのだろう。

 涙で目は真っ赤になって腫れているだろうし、鼻水だって垂れている。

 どう考えても今の私は不細工なはずだ。だが市子が言っているのは、そういう意味ではないだろう。

「市子ちゃんも、今みたいに笑っている方がかわいいわ」

 私がそう言うと市子は少し顔を赤くしてうつむいた。

 だから子どもは好きじゃない。簡単に私の嘘を見破って、簡単に私の心の隙間に入り込む。

 それから私と市子は長い時間をかけてお互いの話をした。

 市子が家族と話さなくなったのは、思春期特有の理由のない苛立ちがきっかけだった。

「なんだか忙しいのに私のことを一生懸命気に掛けるのもうざったく感じるし、友永って苗字だから「フレンドリー・フレンド」なんて社名なのもバカらしくて苛立つし。とにかく何もかもイライラするの。でも、そんなこと言ったらおじいちゃんもパパもママも傷つくでしょう。だから話さないようにしてただけ。話したら絶対に傷つけるようなことを言っちゃうもん」

 少し唇を尖らせて話す市子を見て思わず微笑みが浮かぶ。

「なんだ、やさしいんじゃない」

 私は思わず市子の頭を撫でた。

「子ども扱いしないでよ」

 市子は私の手をはねのける。

「なんだったっけ? 誰かが言ってたけど、ホルモンのせいにしちゃえばいいんだってよ?」

「へ?」

「思春期でイライラしちゃうのは、ホルモンのバランスのせいなんだって。だから、イライラするのは全部ホルモンが悪いんだーって、思えば、ちょっと気が楽になるでしょう?」

 すると市子は一瞬キョトンとして、すぐにケラケラと笑いだす。その笑顔はとてもかわいいと思った。

「先生、頭がいいはずなのに、結構バカなのね」

 正面からバカだと言われたのは、はじめてかもしれない。

 学校で友だちを作らないのも同じ理由らしい。頭の良い市子は弁も立つ。苛立ちで思ったことを口にしてしまえば、周りの人を傷つけてしまう。だから最初から口を利かないことにしたそうだ。

「市子ちゃんはかわいいんだから、そうやって笑顔でいれば学校でモテモテになると思うよ?」

 すると市子は顔を赤く染めて唇を尖らせると「別にモテたいとか、思ってないし」とそっぽを向く。

 気が付くとすっかり時間が経ってしまっていた。

「もう、遅いから私はこれで帰るね」

 私が立ち上がると市子が私の手を引いた。

「あの、明日も来る?」

 急に市子がしおらしくなった。

「えっと、来てもいいなら」

「別に、来てもいいよ。だって、仕事が無くなったら、先生ご飯が食べられないんでしょう?」

 私は少し赤くなる。先ほど自分の金銭事情も赤裸々に話してしまった。

「あと、先生は自分の勉強道具も持ってきてね。一緒に勉強しよう」

 つまりこの家に来て家庭教師のアルバイト代がもらえる上に、その時間で自分の勉強をしていいということだろうか。それは非常に有り難い話だが、いいのだろうか。

「えっと、でも、さすがにそれは」

「別にいいよ。もしも分からないところがあったら聞くから、それまでは好きなことしてて。先生が来てくれるならいい」

 あんなに罵り合ったのに、なぜか市子に懐かれてしまったようだ。

 でも悪い気はしない。

 やっぱり子どもは好きじゃないけれど、市子のことは嫌いじゃないと感じる。

 それから私は約一年間市子の家庭教師として友永家に通って、 お互いにその日にあった出来事を話したり、自分たちの勉強をしたりして時間を過ごした。

 二人で夕飯を作ったこともある。

 その夕食は仕事から帰った家族たちにも披露され、父親の喜一は泣きながら喜んでいたらしい。

 私が家庭教師に行くようになって、市子は家族とも話すようになった。学校でも何人か友だちができたようだ。

 勉強はほとんど教えなかったのに、なぜか学校の成績まで上がった。

 私が友永家でしていたことはおしゃべりと自分の勉強だけだった。

 それでバイト代をもらうのは心苦しかったが、喜一は「キミのおかげで市子が明るくなったよ」ととても感謝されてしまった。

 だけど感謝したいのは私の方だった。

 バイトのおかげで生活が楽になった。勉強をする時間も充分に取れたけれど、それだけではない。

 私はずっと笑顔を作って生きてきた。でも、本当に笑ったことはほとんどなかった。笑顔は今の自分を守れる唯一の武器でしかなかったからだ。

 市子と過ごして、私は自然に笑えるようになった。

 家庭教師最後の日、市子は玄関で私を送ってくれた。

「先生、本当に家庭教師辞めちゃうんだね」

「うん、さすがにそろそろ勉強に集中しないとね。ロースクールに行く余裕はないから、どうしても在学中に合格したいし」

 市子は普段は子どもっぽいところを見せるのに、ときどきドキッとするほど大人びた表情をすることがある。私が家庭教師を辞めることに賛成してくれたときもそうだった。

 喜一からはもう少し家庭教師を続けて欲しいと言われた。だが市子が私の背中を押してくれた。自分はもう大丈夫だから勉強を頑張れと言ってくれた。

「司法試験に落ちても泣かないでね」

 最初に挑戦した予備試験に落ちたとき、盛大に泣いて市子に慰められたことを思い出す。さすがに恥ずかしかったが市子がいてくれてよかったと思う。

「落ちないから大丈夫だよ」

「試験に合格しても、まだ弁護士にはなれないんでしょう?」

「司法修習があるからね」

「まだまだ頑張らなきゃいけないんだね」

「そうだね」

 なんとなく離れがたい気持ちになる。

「そうだ! 先生、ちょっと」

 市子が手招きをした。私は少し首をひねり、市子に一歩近づく。すると市子は、私の首に手を回して頬にキスをした。

 一瞬何が起こったかわからなかった。パッと離れた市子は涙をこらえながら笑みを浮かべて言った。

「先生が頑張れるように、おまじない。先生は不器用だから、今はこれくらいにしておいてあげる。だから絶対弁護士になってね」

 そう言った市子の笑顔は、私の胸を高鳴らせた。



 私は目を開けて時計を確認する。

 起きるにはまだ少し早い時間だ。

 懐かしい夢を見た。

 十三歳だったかわいらしい市子はもういない。

 だけど今は三十二歳になった大人の市子がいる。

 隣を見ると市子が体を小さくして眠っている。寝顔にはまだ子どもの頃の面影が残っているようだ。

 私は市子の髪をなでてそっと額にキスをした。

「ん?」

 市子が体を動かして薄く目を開ける。

「もう朝?」

「まだもう少し大丈夫よ」

 私の声に安心したような笑みを浮かべると市子は再び寝息をたてはじめた。

 あれから二人とも大人になった。

 私は市子との約束を守って弁護士となり、市子はフレ・フレを継ぐために毎日会社で奮闘している。

 市子は私の手を取り、私の隣にいることを選んでくれた。

 それはとても幸せなことだけど、怖いとも感じていた。

 一緒にいることが怖いのではない。市子が大人になって、いつか遠くに羽ばたいてしまうのではないかという恐怖だ。

 市子がずっと子どものままならよかったのに。そうしたらいつまでも私の腕の中に抱いていられるのに。

 市子と初めて会ってからもう二十年近く経つのに、未だにそんな気持ちにさせられる。

 いつまでも、私の心を掴んで離さない。

 だから、子どもなんて好きじゃない。

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