決戦前夜

 フレンドリー・フレンド株式会社。通称『フレ・フレ』は、ベッドタウンとして人気の高い郊外に、本社および工場を持つ知育玩具メーカーである。



 友永市子は仕事に一区切りをつけて背伸びをした。

 その様子を見て「コーヒー淹れましょうか?」と聞いたのは、市子の秘書のような仕事を担っている大村康介だった。

「気分転換にちょっとコンビニまで行ってくるからいいわ」

 市子は大村にそう返事をして立ち上がった。



 フレ・フレの創業者の孫であり現社長の娘である市子は、管理部にデスクを置いているが肩書は専務取締役である。

 だがその発言力は大きくない。社歴の長い社員や役員たちには実力を認められず多くの提案が潰されてきた。さらに自他ともに厳しい態度から一般の社員からは怖がられている。

 大村はそんな市子に臆することなく話し掛けてくる貴重な存在だ。

 もちろん将来市子が社長に就任すれば利益が得られるかもしれない。だが現時点ではすんなりと社長に就任できる目処も立っていない。つまり市子に[[rb: 与> くみ]]ことで得られる利益はないに等しいのだ。

 むしろ役員や社員に恨まれる仕事をしなくてはいけないことを考えればデメリットしかない。

 また恋愛的な意味での下心があるかといえば、そんな節は見当たらない。

 多くの社員が市子に対して付かず離れずの距離を保とうとする中、大村だけは平気な顔で市子の仕事をサポートしていた。

 市子の仕事は法務的な仕事が多いことから顧問弁護士の安曇房子との密な連絡が必要となる。大村は房子を狙っているのではないか、というのが市子の読みだが本当のところは分からない。

 市子は出口に向かう途中で大村のデスクに近寄り脇からパソコンを覗き込む。

 大村は新しい社内規範の素案作りをしている。他社の規範を参考にするだけでなく社内アンケートや聞き取りも行い、よりフレ・フレの内情に即した素案を作ろうとしている。

「そっちの調子はどう?」

「あと少しで完成しますよ」

 そう言って大村はサムズアップして見せる。少々オーバーリアクションなのが大村の欠点だ。

「来週には安曇先生にチェックしてもらう予定です」

 そう言ってもう一度サムズアップする。

 やはり房子を狙っているのではないだろうかと市子が勘ぐっていると、大村が「いよいよ明日ですね」と言った。

「専務の奇策が吉と出るか凶と出るか。どうです? 緊張してますか?」

「緊張? まさか。明日は通過点に過ぎないでしょう。いちいち緊張している暇なんてないわよ」

 市子は軽く笑みを浮かべて言う。しかしメガネの奥の瞳は一切わらっていなかった。

 緊張するに決まっている。

 市子はかなり強引にこの案を通した。もしも失敗すれば役員たちはこぞって市子の責任を糾弾するだろう。

 市子はそこで大村との話を切って部屋を出た。

 市子が提案した奇策とは、新入社員採用を先着順にするというものだ。

 フレ・フレの業績は概ね順調だ。だが社員一人ひとりの仕事量が過多となっている。社員を増やすことは急務だ。

 とはいえ人材補充も簡単ではない。採用には多くの人員と時間、経費が必要だ。普段から忙しい彼らにさらに仕事を課すことになる。

 そこで市子は、求人を自社サイトと限られた会社説明会のみに限定。さらにエントリーシートの提出開始日を設定し、先着順で面接を行うことを提案した。採用定員に達したところで面接は終了する。これにより採用にかかる労力と経費を軽減することができる。そして浮いた経費で一人でも多くの新入社員を採用しようというのだ。

 役員会議で提案をしたときには多くの反対があった。できるだけ優秀な人材を確保するための採用試験を先着順にするなど反対されて当然だ。

 それでもその提案を通せたのは社長と顧問弁護士の賛同を得られたからだと、市子は理解していた。

 市子にとって社長は父親であり、顧問弁護士・房子は恋人である。二人の助けがなければ提案を通すこともできない不甲斐なさに、市子は少なからず苛立ちを感じていた。

 だがそれならば結果で示すしかない。市子はプレッシャーと戦いながら、社員たちと共に今日まで準備を整えてきたのだ。失敗するわけにはいかない。



 そして明日はエントリー受付開始日なのだ。

 求人の告知は昨年度よりも大幅に減らしている。もしも応募者がいなければ企画以前の問題だ。さらに、先着順としたことで人材の質が低下すれば批判は免れないだろう。

 市子は不安を払拭するように軽く頬を叩いてビルを出た。

 真夏の日差しが容赦なく市子に降り注ぐ。

 まぶしさに目を細めたとき、会社の前の木陰に座る人影を見つけた。

 女性と呼ぶにはまだ幼い印象がある。

 市子は少し迷ったが声を掛けることにした。

「あなた、こんなところで何をしてるの?」

 間近で見るとやはり幼い顔立ちをしてる。ただ切りそろえただけという感じのショートボブ。クリクリとした大きな瞳と化粧気のない顔。まだ十代に見える。

 少女は慌てて立ち上がり丁寧にお時期をした。

「あ、え、エントリーシートを出しにきました」

「受付開始は明日の朝十時よ」

「はい。でも、一番で提出したくて」

 少女は笑顔で答える。

「やる気はうれしいんだけど、明日の朝までここにいる気なの?」

「はいっ!」

 市子はどうすれば良いのだろう。もう受け取ってしまってもいいのだがそれでは公平性が失われる。

 だからといって炎天下に放置しておくわけにもいかない。

「それなら、取り敢えずエントランスにいなさい」

「あ、でもさっきの社員さんが勝手なことをしたら専務さんに怒られるって言ってましたけど、大丈夫なんですか?」

 市子は小さく落ち込む。そこまで人間性のない鬼のような人格だと思われているのだろうか。だが鍛え抜かれたポーカーフェイスで平静を保つ。

「問題ありません。あなたがここで倒れた方が大問題です」

 そう言って少女をエントランスに押しやると大村に電話を掛けて事情を説明した。

 取り敢えずは熱中症で倒れる事態は免れるだろう。

 コンビニに向かう道すがら市子は房子に電話を掛けた。

「房子、どうすればいいと思う?」

「来年以降は持参する場合の注意事項も入れるべきでしょうね」

 房子は冷静に伝える。

「うん。それはそうするけど……今日来てる、あの子はどうしようかと思って」

「市子に頼ってもらえるのも、甘えてもらえるのもうれしいんだけど、それは自分で考えなさい」

「う……」

「あなたの仕事でしょう?」

「はい」

 市子は渋々電話を切った。

 本当は相談をしたくて電話をしたわけではなかった。

 前日から並んででもフレ・フレで働きたい、そう思っている子がいたことがうれしくて、つい電話をしてしまったのだ。

 それが素直に言えず、相談するフリをした。

 うれしさのあまり房子の声が聞きたくなったなんて気付かれなくて良かったと思う反面、子どものようにたしなめられたのもちょっと不満に感じる。



 市子は自分の飲み物と一緒にスポーツドリンクを買って会社に戻った。

 エントランスの端には先ほどの少女がチョコンと座っている。

 受付には大村から連絡が入っているのだろう。少女を咎めようとはしていない。

 市子は少女の前に立ちスポーツドリンクを渡した。少女は戸惑いながらも受け取った。そして一気に半分ほどを飲み干す。

「今日はもう帰りなさい」

 市子は落ち着いた声で言う。

「でも……」

「あなたのやる気は分かるけど、一番に提出したからって必ず内定を出すわけじゃないわよ」

「はい。それは分かっています。でも、この会社に入りたいという気持ちを伝えるにはこれが一番だと思ったんです」

「どうしてそんなにこの会社に入りたいの?」

「私、中卒なんです。だから仕事はお金を稼ぐための手段で、好きなことを選ぶなんて考えたこともありませんでした。でも学歴も経歴も不問で、先着順でチャンスをもらえるって聞いてうれしくなったんです。こんな私でもやりたいと思える仕事ができるかもしれないと思って」

 少女は残っていたスポーツドリンクをさらにひとくち飲んで続けた。

「年の離れた弟がいるんです。私が小学生のとき、お小遣いをためて赤ちゃんだった弟にフレ・フレのおもちゃを買ってあげたんです。すごく気に入ってくれて、ずっと握って離さなくて。私、本当にうれしかったんです。欲しかった漫画を我慢して買って、本当に良かったって思って。だから、そんなおもちゃをつくる会社で働けたら幸せだろうなって思ったんです」

「そう」

 市子の胸に嬉しさが込み上げてきた。房子が隣にいたら房子の胸にダイブしていただろう。

「一番に提出できなかったとしても面接でその気持ちを素直に伝えればいいわ。とにかく今日は帰って明日の朝もう一度来なさい」

 市子はできるだけやさしい口調で伝える。

 少女もこれ以上ここで待つのは迷惑をかけると理解したのか、承諾して名残惜しそうに会社を後にした。



 その日、市子は仕事を早々に切り上げて帰宅した。

 帰りに食材を買いこみ、久々に料理を作ることにした。

 明日はいよいよ受付開始日だ。あの少女も朝からエントリーシートを持って会社に現れるだろう。

 料理をしながら自然に鼻歌がこぼれる。

 料理も終盤に差し掛かったとき房子が帰宅した。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 市子は房子をキスで出迎えると料理の続きに戻る。

 房子は市子を後ろから抱きしめ、肩にあごをのせて料理を覗き込んだ

「あら、おいしそう」

 市子は自慢げにニコリと笑った。

「もうすぐできるから、先にお風呂に入ってきたら?」

「うん」

 そう言いながら房子は動こうとしない。

「市子、ご機嫌ね」

「別に、ちょっと気が向いただけだよ」

「うそ。昼間だってわざわざ電話で報告しちゃうくらいうれしかったんでしょう? 求人応募に来た子のこと」

 市子はウソがばれた子どものように少し頬を赤らめて首をすくめる。

「その子、かわいかった?」

「ん?」

「かわいい子だからうれしかったの?」

「なに? 房子、嫉妬してくれてるの?」

 料理の手を止め、市子は身体の向きを変える。

「別に。市子が私のことを好きすぎるから、たまにはよそ見くらいすればいいのに、って思ってただけ」

「本当に?」

 房子の目をまっすぐに見て市子は言う。

 房子は少し目をそらすと、ポスンと市子の肩に顔をうずめた。

「ちょっとだけ嫉妬した。顔も見たことない子に嫉妬するなんて、いい年してバカみたい」

 市子はうれしそうに笑って房子の頭を両手で抱きかかえる。

「房子の方が私のことを好きすぎるんじゃないの? でも、いつも嫉妬なんかしてくれないから、ちょっとうれしいかな」

「してる」

「え?」

「いつも嫉妬してる。隠してるだけ。大村くんにも嫉妬してる。いつも市子の側にいるから」

「ええ、あの、大村に?」

 市子は目を丸くして房子の顔を覗き込む。

 長く一緒にいて、お互いのことを十分に分かり合えていると思っている。それでもこうして新しい一面が見られることを嬉しく感じた。

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