好きな匂い
フレンドリー・フレンド株式会社。通称『フレ・フレ』は、ベッドタウンとして人気の高い郊外に本社および工場を持つ知育玩具メーカーである。
役員たちが去った会議室。
友永市子(ともながいちこ)は机に両肘をつき、うなだれるようにしてフウと息を吐く。
「おつかれさま」
市子に声を掛けたのはフレンドリー・フレンドの顧問弁護士を務める『あずみ法律事務所』の所長、安曇房子(あずみふさこ)だった。
品の良いスーツ姿でもその豊満なボディと女性の色香は隠しきれない。
もうすぐ四十歳を迎えるとは思えない若々しさ、知的な目もとと柔和な微笑みに多くの人が魅了されている。
フレ・フレ社内には密かに『房子お姉さまに笑顔で踏まれ隊』という名のファンクラブが結成されているという噂まである。
一方の市子は三十二歳だが房子と並ぶと同年代に見られることが多い。下手をすると市子の方が年上にみられることもある。
それは房子が若々しいだけでなく、いつも厳しい表情をしている市子が老けて見られてしまうからだろう。
市子は専務という肩書を持ち、フレ・フレでは実質上から二番目の地位にある。だが市子に強い発言権はない。
それは実力で勝ち取った地位ではなく、創業者の孫であり社長の娘という生い立ちから与えられた地位だからだ。
市子が本当に無能であるならば、逆に役員たちは目をつぶったかもしれない。
だが市子は違った。経験豊富な社員たちにも堂々と意見して大改革も厭わない。無謀に思える挑戦もする。そのために多くの役員たちに疎まれていた。
フワリと甘い香りが漂い、市子は顔をあげた。そして、メガネの奥の瞳を鋭く光らせて房子を睨みつける。
「会議での助け舟はどういうつもり?」
「私は純粋に面白い案だと思ったからそのまま伝えただけよ」
房子が笑顔を浮かべる一方で市子は唇を噛む。
房子は市子より七歳年上だ。その年齢を覆すことはできない。だがせめて仕事では肩を並べられるようになりたいと市子は思っていた。
しかしいつまで経っても近付ける感じがしない。いつも子どものようにあしらわれて助けられる。それが悔しいと感じていた。
「助けてなんて頼んでない」
「助けたつもりはないけど」
意地を張る市子に房子は困ったように眉尻を下げる。
そして市子の頭にポンと手を置いて髪を優しく撫でた。
「まだ会議が通っただけよ。これからどうするか、その方が重要よ」
市子は乱暴にその手を払いのけた。
「そんなこと、言われなくても分かってる」
市子は立ち上がると房子を残して会議室を後にした。
「大村さん、今期の採用チームを招集してください」
管理部の一角にある自身のデスクに戻った市子は、大村康介(おおむらこうすけ)に声を掛けた。
「おっ、例の案件通ったんですね。やりましたね!」
大村は白い歯を見せて笑いながらサムズアップをした。市子はそれを一瞥しただけですぐに仕事をはじめる。
管理部に所属する大村は仕事ができる男だ。市子の秘書的な役割も率先して行ってくれるため市子も重宝している。だが少々芝居じみたオーバーリアクションが少々鼻につく。
それから三時間後、急な招集だったが採用担当者は一人も欠けず会議室に集まっていた。
管理部からは大村。総務部から三名、各部から一名の計九名を前に、市子は新しい採用プロジェクトの説明をはじめた。
フレ・フレは社員に支えられている。仕事量に対して社員の数が圧倒的に少ない。
そのために明らかにおかしな業務分掌が作られている。
例えば総務部は事務系の仕事を一手に担っている。一般的には人事や経理といった部門に分けられるものもすべて総務が担っている。これは一人の社員が複数の業務を行わなければいけないことから生まれた仕組みだ。
企画デザイン部は製品の企画、デザイン、パッケージデザインのほか、チラシデザインやカタログの製作、ホームページ製作までとにかく「デザインっぽいよね」という仕事をすべて放り込まれている。
社員数を増やせば解決するが社員を増やすにはそれだけの経費が必要となる。業績は順調だがそれほど潤沢な予算を用意できるほどの余裕はない。
採用にかかる経費を抑えることでひとつでも採用者枠を増やす。それが市子の考えたプランだった。
会社の組織を変えるにはもっと抜本的な改革が必要だろう。だが今はできることを一つずつこなしていくしかない。
プランの内容を説明すると意見は賛成と反対がほぼ半々に分かれた。市子は反対意見をねじ伏せて否応なくプランの実行を指示する。
役員に煙たがられ社員に怖がられる。市子はそういうやり方しかできなかった。
会議が終わると参加者の一人である顧客サービス部の土門梨美(どもんりみ)が市子に相談があると話しかけた。
市子、梨美、大村が会議室にそのまま残って話を続ける。
「それにしても市子さん、大胆な発案ですね」
若い社員は市子を「専務」と呼ばず「市子さん」と呼ぶことが多い。
それは親愛の情ではない。一時期、役職名で呼ぶことを禁止したことがあるのだ。それもなかなか浸透せず現在は呼び方が混在した状態になっている。
梨美の第一声は会議の感想だった。
梨美は栗色の髪にゆるいウエーブを掛けた髪を揺らす。愛らしい風貌の梨美は男性社員にも人気がある。だが性格はサバサバしており、言いにくいこともズバッと言ってしまうことがある。
そのため付き合った男性たちが「イメージと違った」と離れていくと漏らしていたことがあった。
市子に対しても梨美は物怖じすることなく話をする。市子はそれに好感を持っていた。
「梨美さんは反対?」
「いいえ。あんまりよく分からないからどちらでもいいっていうのが正直なところです。まあ、一生懸命採用して一生懸命仕事を教えたのに、一カ月もしないうちに男と失踪した子もいましたからね。時間とお金を掛ければいい子が採用できるわけじゃないっていうのは身をもって感じています」
その言葉に市子は苦笑する。
少し前にそんな事件があった。突然音信不通になった社員の安否確認に東奔西走したのを覚えている。梨美はあの社員の指導担当をしていたようだ。
「でもあんまり派手なことをするとお歴々の方々からにらまれるんじゃないですか?」
その発言は市子を心配してのもだった。市子の胸にうれしさが浮かぶ。
「いつものことだから。それより相談って何?」
「生島部長の件です。あのセクハラ発言をどうにかしてもらえませんか?」
梨美の顔に苛立ちが浮かぶ。
同じような訴えを何度か聞いている。市子は大村を見た。大村も「その件か」という顔をしている。
「その件は管理でもどう対応するか検討しているよ。もう少し時間をもらえないかな」
そう言ったのは大村だ。
「時間ってどれくらいですか? 生島部長のセクハラ発言はもうずっと前からですよね」
梨美は引き下がらない。
セクハラ発言に対するクレームがあるたびに生島に注意を促してきた。だが改善が見られない。それはどんな言葉がセクハラ発言になるのかを生島が理解していないからだ。
生島の中でセクハラとは女性社員の胸やお尻などに性的な意味を込め触る。もしくは女性社員に対してセックスを連想させる発言をする。その二点だけなのだ。
ちなみに生島のセクハラ発言に対するクレームは男性社員からも上がっている。つまり生島にとって前述の二点に該当しない言動はコミュニケーションでしかなく、むしろそれが部下たちと円滑に仕事をするために必要なことだと考えている節がある。
さらにクレームの内容だけでは厳罰を与えられないという現状がある。
公正な判断を行うために明確なルールを作る必要がある。
今はそのルール作りをしている真っ最中だった。だが社員たちは常に大量な仕事を抱えている。どのような線引きが妥当なのか検討するのにも時間がかかる。そのためになかなか作業が進まない。
「梨美さんの意見は分かりました。大村が言ったように現在対応は進めています。それで今日は納得してください」
「でもそれっていつになるか分からないんですよね? 私たちは今困ってるんですけど」
「必要悪だとでも思っておけばいいんじゃない?」
「必要悪?」
「例えば女子社員が一致団結するための、共通の敵」
詭弁である。市子は自分の発言にうんざりする。
梨美の顔にも納得ができないと書いてある。だがそれ以上何を言っても無駄だと悟ったのか「わかりました」と言って会議室を出ていった。
それを見送ると市子は厳しい表情で大村を見る。
「セクハラだけじゃなくて、社内規範の全面見直しを早急に進めなさい。必要なら専門チームを立ち上げなさい」
「はい。了解です」
大村は笑顔で敬礼する。
「安曇先生にも相談しないといけないわね」
「だったら、自分が安曇先生の担当をしてもいいですか? 安曇先生、いい匂いがするんですよねー」
そう言って大村がだらしない笑顔を浮かべた。
「あなた、奥さんも子どももいるでしょう? 自重しなさいよ」
「やだなー。他意はないですよ」
市子はあきれたように首を横に振った。
一日の仕事を終えて市子が自宅に帰ったのは夜十時を回ったころだった。
市子は独り立ちをしたいという理由で実家を出て、今は会社から一駅離れた街のマンションで暮らしている。
電気も付けずに暗い部屋のソファーで膝を抱えてうずくまる。
体中が重く感じる。このまま日が昇らず朝が来なければいいのに。市子はそんなことを考えていた。
三十分ほど経ったとき、玄関を開ける音がしてほどなく部屋に明かりがともされた。
「市子? 何してるの?」
部屋に現れたのは房子だった。
市子は顔をあげて房子を一瞥する。
「遅い」
「遅くなるって連絡入れたでしょう?」
「遅い」
房子は苦笑しながら市子の横に座る。
「メガネかけっぱなしよ?」
房子はそっと市子のメガネを外した。
市子のメガネには度が入っていない。メガネは市子にとって鎧のようなものだ。
メガネを外された市子は迷うことなく房子に抱き着いた。
豊満な胸に顔をうずめて目を閉じる。
「房子のおっぱいだー。房子のおっぱいは気持ちいいねー」
「なに?赤ちゃんみたいよ?」
房子はクスクスと笑いながら市子を抱きしめて頭を優しく撫でる。
「大村が房子を狙ってるから気を付けてね」
「大丈夫よー」
「今日、きついこと言ってゴメンね」
「市子、疲れてる?」
市子は房子の胸に顔をうずめたまま小さく頷く。
「辛かったら会社辞めちゃってもいいんだよ? ちゃんと養ってあげるから」
房子の言葉に市子は顔をあげて「それはやだ」と膨れて言った。
市子は体を起こすとソファーに深く腰掛けた。房子もその隣に座り市子の手を握る。
「会社の女の子に生島のセクハラのことを相談された。はやく何とかしなくちゃいけないのに適当にはぐらかした。最低だよ」
「セクハラのことなら私も力になれるわね」
「うん。近いうち大村から連絡がいくと思う」
「それだけ?」
「必要悪って何かな?」
房子は言葉を挟まず市子の横顔を見つめる。
「必要悪って悪でも必要とされてるってこと? 私なんて社員に怖がられて、社員の力にもなれなくて、役員たちにも煙たがられて。会社にとって悪いことだけで全然必要とされてないよね」
「だから会社辞めてもいいって言ってるのに。それは嫌なんでしょう?」
市子はすねたように口をとがらせて膝を抱える。
「市子は欲張りなのよ。あれもこれも自分でやろうとしすぎるの。家にいるときみたいな顔で「誰か助けて―」って言えばみんな喜んで助けてくれるわよ」
「房子、得意そうだね、そういうの」
「まあね」
房子は自慢気な笑みを浮かべた。市子は唇をへの字に曲げる。
「あ、そうだ」
房子はそう言うと自分の太ももをポンポンと叩いた。
市子は首をかしげる。すると、房子が市子の頭に手を回して力を入れた。
市子は倒れ込み房子の太ももの上に頭を預ける。
「膝枕?」
「ぶぶー。耳かきです。今日、クライアントさんから魔法の耳かきをもらっちゃいました」
房子はうれしそうに言う。
「動いちゃダメだからね」
房子の目がキラリと光る。市子はゾッとして体を硬くした。
房子はそんな市子の耳に顔を近づけてフーっと息を吹きかける。
「ちょと、房子?」
「はい、リラックスしてくださいね。フー」
もう一度耳に息を吹きかけると、市子は「ンッ」と堪えるような声を上げた。そして「耳かきってエロいね」と言って笑う。
房子はいつの間にか手に持っていた耳かきを市子の耳にあてる。
触れるか触れないかの優しい手つきで、耳の穴の入り口から徐々に奥へと進めて行く。
市子は目を閉じて身を任せる。
「はい、右耳終わり。反対向いて」
房子に言われるままに市子は向きを変えた。
房子のお腹に顔をうずめるようにして耳かきの優しい感触を味わう。
「房子はいい匂いがするって、大村が言ってた」
「そう?」
「本当、いい匂いがする。房子の匂い、好き……」
市子は房子の匂いに包まれて深いまどろみの中に落ちていった。
翌日、市子が出社すると、大村が挨拶をするよりも早く「あれ? 専務、いい匂いがしますね」と言った。
市子は自分の匂いを確認する。
「これは……安曇先生と同じ香水ですか?」
市子は心の中で「こいつは犬か?」とつぶやきながらポーカーフェイスを装う。
「以前、安曇先生に頂いた香水をつけたからかな」
「へー、そうなんですね。あ、おはようございます」
とってつけたような大村の挨拶に答え、市子は自分のデスクにつく。
部屋で房子と一緒にいる間は気付かなかったが、確かに今は房子の匂いを感じる。
ひとふりの香水は房子なりの激励だろうか。
市子は浮かびそうになる笑みを噛み殺し、パンと両手で頬を叩く。
「さあ、今日もやることが山積みだからね」
了
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