第9話:諸悪の根源

 責任の一端は僕にもあった。


 僕はこれまでの一年間、陶子をずっと十メートル後ろから見守ってきた。見守るだけで、それ以上の行動を起こそうとはしなかった。虫や動物に手をかける瞬間、その場にいながらも止めようとはしなかった。


 人間を殺すのは駄目で、それ以外なら良いってわけじゃない。それでも、やっぱり駄目だろう。理由とか道理とか信念とかそういうことじゃなく。


 じゃあ今さら、陶子の前に現れるのか? 人殺しはやめろ、と。


 現時点では証拠も何もない。陶子の習慣を知っている僕だからこそ事前に察知できたのだ。警察に頼ることはできないし、陶子は既に器物損壊罪をいくつも重ねた犯罪者だ。


 ならば松山百に忠告をするのか。「お前はもうすぐ殺される」なんて言ったら、これから僕がそうしようとしているとしか思わないだろう。手紙にしたためたとしても、かえって怪しさが増すだけだ。学校の友達に殺されるなんて誰が信じるというのか。


 僕は岐路に立たされている。


 ここで陶子のことを見逃せば、これから一生、陶子は自分の心が乱れるたびに人を襲い続ける。処刑台にのぼるその日まで、身近な、あるいは面識すらない人間を殺していく。


 ただのストレスのはけ口として。


 陶子はこれまで奪われるだけの人生を送ってきた。それを帳消しにしようとして、他者から命を奪っているのかもしれない。命の灯を吹き消すことで、自らに命の炎の燃料をくべるのだ。


 あるいはそんな哲学的な話じゃなく、単に海外のB級スプラッタ映画や、ドラマの中に登場するシリアルキラーに影響されただけかもしれない。悪いことをするのがカッコいい、人類は道理によって縛られている、なんて子どもじみた発想を抱いているのかもしれない。膨らんだ妄想と捻じ曲がった思想が、ふとしたきっかけで弾けてしまった、なんて。


 何百回、何千回と考えてきた、陶子がこの習慣にたどり着いた理由。角度を変えれば、いくらでも想像することはできる。


 それでもやっぱり、何百通り、何千通りの理由のいずれにも、共通して存在するものがある。


 陶子が人間の絆を目の当たりにしてストレスを抱えるようになるのにも、奪われるだけの人生に抵抗するようになるのにも、殺人まみれの映画やドラマにのめり込むようになるのにも、ある一つの存在がルーツになっているのだ。


 そいつさえいなければ、陶子はもう少しマシな道を歩むことができただろう。


 一人暮らしの高校生活で愛情に飢えることもなかった。クラスメートに対しても、もっと広い心で接することができたに違いない。趣味は甘々の恋愛少女漫画か、男性アイドルのおっかけか。運動系の部活に入って、スポーツで汗を流す日々かもしれない。もしくは彼らを支えるマネージャーとして、縁の下の力持ちとして信頼される人間に。


 そんな普通のありふれた、面白味の欠片ない、けど肉親なら一番望むであろう人間になっていたのかもしれない。


 では陶子を歪めた、諸悪の根源とは一体誰なのか。


 東陶子という少女を陰日向に追い込み、自尊心も思いやりもコミュニケーション能力も、根こそぎ奪い去ったのは誰か。



 僕だ。



 僕こそが、東陶子の敵。陶子の中にいて、決して相容れることのない存在。



 だからこそ、落とし前をつけるのも僕の役割なんだと思う。それによりどんな未来が待ち受けていようとも、僕はそれを受け入れなければならない。陶子が僕に望んでいるものが「死」以外にないのだと言われれば、目の前で首をかき切ろう。車道にだって飛び出すし、ビルの屋上から飛び降りてもいい。


 この命を賭して、陶子を守ろう。陶子専属の清掃員は、今日で終わりだ。


 制服の胸ポケットを握りしめ、僕は誓った。


  ☆ ☆ ☆


 三階建て、築三十年のおんぼろアパート。魔女の化粧が剥がれ落ちたように、手すりの錆や壁の木面があちこち剥き出しになっている。周囲に街灯は少なく、それに比例して人通りはほとんどない。斜め向かいの公園で、弱弱しい光が一つだけ、ぼんやりと浮かんでいる。この一帯は夜にもなれば、孤立した限界集落の様相を呈する。住民以外に立ち寄るのは、一人で歩く若い女を襲おうと画策している男くらいのものだ。陶子は夜に出歩くことはまずないので、普段その辺に関して心配することはない。


 けれども今夜、陶子は私服に身を包み、一〇二号室の扉を開けた。これまでに一度も着たことのない、目立ちやすい黄色のカーディガンを羽織っている。


 しっかり施錠をして、そのまま駅の方向へと向かっていく。スーパーも本屋ももう閉まっている時間だから、行き先はコンビニだろう。


 宿題を終わらせるため松山百は今晩、陶子の家に泊まることとなった。学校帰りに二人が手に提げていたビニール袋には、到底一晩では処理しきれないほどのお菓子やジュースがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。


 だからこの外出は、食べ物や飲み物を買いにいくためじゃない。お客さん用の布団を今さら用意するわけでもあるまい。理由は単純、印象に残りやすい格好で人前に出るのと同時に、防犯カメラに映るためだ。



 松山百の命は、既に陶子の手の中にある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る