第10話:二重螺旋の愛

「……あら?」


 右手でビニール袋がふらふらと漂っている。真っ白な袋に目を凝らすと、うっすらと緑色の小さな長方形が透けていた。店員の記憶に残るよう、わざわざガム一個に袋を要求したのだ。


「おかえり、陶子」


 初めて入った陶子の部屋で、僕はペラペラの座布団の上で胡坐をかいて、木製のテーブルに肘をつき、陶子の帰りを迎えた。


 ワンルームというよりも、留置場のような窮屈さだった。部屋の中央に置かれたテーブルには本や文房具やマグカップが並べられているが、作文用紙の書き込み具合を見るに、松山百の宿題はほとんど進んでいないようだった。


 キッチンはまな板を置けるだけのスペースもないし、風呂とトイレはもちろん一体型だ。家賃三万五千円を考慮すれば、むしろ贅沢な方かもしれない。


 そして隅のベッドには、瞳を閉ざした、松山百。


 陶子はさも当たり前のように待ち構えていた僕を見て悲鳴を上げるでもなく、逃げ出すでもなく、電話で警察に助けを乞うわけでもない。


 ただじっと、僕を見つめていた。


 三十秒ほど経ってから、ようやく口を開く。


「……どうやって、入ったの?」


 最初の質問はそれか。他に訊くべきことはたくさんあるだろうに。

 僕は制服の胸ポケットに親指と人差し指を入れ、中身を取りだす。


「落としたよ」


 照明の光を浴び鈍く光る、銀色の鍵を掲げる。これは、ドーナツ店で拾ったものだ。


 陶子はスニーカーを脱いでリビングに入る。僕の差し出した家の鍵を受け取って、にっこりほほ笑んだ。


「どうもありがとう」

「どういたしまして」

「ポストに入れておいてくれれば良かったのに」

「無くしたはずの鍵がポストに入っていて、『落としましたよ』なんてメモが添えてあったら、まるでストーカーみたいで気持ち悪いじゃないか」

「その通りだわ」


 もっとも、部屋に侵入する方法などいくらでもあった。表札の裏にあるスペアキーは陶子が持っているとしても、僕は第三の鍵の在り処だって知っている。管理人の部屋に行って、「彼女の様子がおかしい」とか「クラスメートにプリントを渡しに」とか、適当に事情を話すのだっていい。


 再び僕らは互いを見つめていた。陶子の表情は「習慣」の前に見せるアンバランスな笑みではない。しっかりと両側の口角を上げている。


 そのまま小首をかしげる。試すような、ねっとりとした、妖艶な瞳。薄い桜色の、濡れた唇。そこからこぼれる、白い歯。


 重苦しさや緊張感はなく、不思議と僕は、この瞬間に気持ち良さすら感じていたのだ。


「わざわざこのために、来てくれたの?」

「違うよ」


 即座に僕は否定する。鍵なんてただのついでだ。


「陶子のため。あと、あの子のため」


 僕はベッドの方を指さした。


 松山百のはだけた胸元には、まだ水滴が残っていた。髪はドライヤーである程度は乾かしたが、それでもまだ湿り気を帯びている。せっかくのウェービーボブが、もはや屋台のまずい焼きそばだ。


 陶子のパジャマを着た松山百は、ベッドで深い眠りについていた。安らかな寝息とともに、胸元が上下する。


「鍵を返そうと思ってチャイムを鳴らしたんだけれど、誰も出なくてね。でも人の気配はあったから、悪いとは思ったけれど、中に入ったんだよ」

「うん、知ってる」

「でもリビングにはいない。そうしたら必然的にユニットバスだ」

「まさか、覗いたの?」

「さすがに悲鳴くらいあってもおかしくないはずだからね。そうしたらこの子、入浴中に寝ちゃったみたいなんだ。お風呂場から引き揚げて、体を拭いて、髪を乾かして、服を着させた。制服だと皺が付いちゃうから、勝手に君のパジャマを借りてしまった」

「お人形遊びじゃないんだから」

「でも不思議なことに、ベッドに寝かせるまでの間、この子はまったく起きないんだよ。それこそ本物の人形みたいに。よっぽど疲れていたか、あるいは飲んでいたジュースに睡眠薬でも入っていたのか」


 陶子は虫より大きな生き物を殺める際、自分が服用している睡眠薬を使う。薬は人間用なので、当然鳥や犬や猫には刺激が強すぎる。ひとたび飲み込んでしまえば、下痢や嘔吐を起こし、適切な処置をしなければ死に至る。


 人間相手に同じ手を使うとは限らなかったが、陶子は松山百に対して特別な憎しみや殺意を抱いているわけではない。あくまで他の動物と同じ、習慣の一つなのだ。ならば手段は同じはずだった。


 睡眠薬だけで殺すには何百錠と飲ませなければならないが、さすがに飲み物に溶ける量ではないし、味ですぐにバレてしまう。ならば眠らせた松山百を、事故に見せかけて殺すというのがもっともオーソドックスな手法だと考えた。


 前提さえはっきりしていれば、あとはおのずと陶子の行動を推測することができる。僕のやるべきことは簡単だった。


「……せっかく」


 寂しそうに、陶子が目を伏せた。


「せっかく、今日のために、友達になったのに」


 まるで、ずっと楽しみにしていた家族とのお出かけが雨天中止になったような、いじけた声色だった。


「友達は支え合って、笑いあうものだ」


 時に嘘をついたり、あるいは利用されたりすることもあるかもしれない。でもそれは、広義で持ちつ持たれつというやつだ。少なくとも、殺すための存在じゃない。


「だったら、親は?」

「親?」

「そう、親」


 陶子は僕の返答を試しているのだろうか。それとも、何かを期待しているのだろうか。


 だが残念ながら、陶子の望んだ答えは出せそうにない。


「……親は、くそ野郎だ」

「奇遇ね。私も同じこと考えてた」


 くそ野郎と呼ぶからには、僕らの頭にあるのは父親の方だ。


 陶子の母親は壊れてしまった。僕は、僕の母親を尊敬してはいない。


 あの人は他人の夫を奪った。ただの不倫、人間味があるといえばそれまでだが、僕は彼女のことを未だに母親として認められていない。



「当たり前だよ。だって僕らは同じ親を持つ者同士なんだから」



「そうね、兄さん」



「僕は君の兄じゃない。赤の他人だ」


 僕の父親が、前の家族を捨てたのにはきっかけがあった。


 僕の母親が、不義密通の末に僕を身籠ってしまったのだ。


 その結果、父は新しい家族を選ぶ決意をした。


 当時、陶子の母親も懐妊していたという。しかし彼女がそれを知ったのは離婚後で、父は金銭的な援助以外は一切関与しようとはしなかった。僕が三月生まれで、陶子が五月生まれ。兄妹なのに、生年月日が二か月しか違わないなんて普通ではありえない。


 陶子とは何度か顔を合わせたことがある。


 つい先日の日曜日も、法事で会ったばかりだ。


 故人は父方の祖父。つまり僕と陶子両方に血のつながりがある人物。僕はともかく、陶子は毎回法事には顔を出す。その後の食事会も最後まで参加する。


 親戚も僕たちのことは知っているので、食事中の空気は決して平穏なものではない。表面上は和やかだが、どこかピリピリしている。しかし父だけは久しぶりの陶子との再会を喜び、次々に酒をあおっていく。そしてすぐに酩酊し、陶子を言葉の刃で傷つけていく。


『陶子には悪いと思っている』

『でも俺はあの時の選択を後悔しちゃいない』

『片親で不自由ない生活ができるのは俺の慰謝料のおかげだからな』


 この辺りになると、親戚が気を利かせて自分の席に父を呼んだり、タバコに誘ったりしてくれる。


 でも前回はそれより先に、あの男はとんでもない言葉を放った。



『今の家族と昔の家族。一緒に飯を食える日が来るなんて、俺は二倍幸せだよ』



 父にとってこれは本音なのだ。心の底から、そう思っている。だから法事に陶子を呼べるのだし、今も堂々と父親面をしていられる。


 あの時の一言が、陶子を殺人へと駆り立てたのだ。


 法事の翌日、陶子は学校で松山百に声をかけた。好意を装い、自宅に招き入れるチャンスを作ろうとした。そして今日、実行に移そうとしてしまったのだ。


「……私は、どうしたらいいの」


 安らかな顔で眠る松山百を見て、陶子がつぶやいた。


「これから、本当の友達になればいい」

「無理よ。私はこの子と一緒にはいられない。この子が私に笑顔を向けるたびに、胸が苦しくなるの。間近で楽しそうにはしゃぐのが、嬉しそうに抱きついてくるのが、悲しくて、つらくて、狂おしいほどに腹立たしいの。こんなの耐えられない」

「それは陶子のことが好きだからだ」

「私は無理なのよっ!」


 びりりと空気が震える。この叫びがアパート中に響きわたっても、陶子の抱えた痛みは誰にも伝わることはない。今までもこれからも、ずっと一人で抱え続けなければならない。


「でも、『嫌い』とは言わないんだな」


 二枚の作文用紙を両手で広げ、陶子に見せつける。


「あの陶子がどんな本を選んで、どんな感想を抱いたのか、気になっていたんだ。ベタにフロイトとかユングあたりなのか、それとも近代の哲学者か」


 図書館で陶子は、四階の心理学・哲学書コーナーから本を持ってきて、その場で感想文を書き上げた。松山百は本をレンタルしたが、陶子は元の棚に戻している。


 国語が苦手な陶子が二時間かけて作成した、渾身の読書感想文。

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