第6話:友達
翌日、朝七時半。
陶子はいつも通りの時間にアパートを出た。僕もいつも通り、十メートル後ろから背中を追う。
陶子の通う高校までは、アパートから歩いて三十分ほどだ。八時ちょうどに登校したのを見届けてから、僕は自分の通う高校へと急いで向かう。徒歩圏内なので一時間目に遅れることはないのだが、到着はいつもホームルームが始まるぎりぎりだ。万が一遅刻して親に連絡が入ってしまったら、毎朝僕が登校前に何をしているのかが露見してしまう。それはなんとしても避けなければならない。悪いことをしているつもりはないが、褒められる行為でないことは自覚しているつもりだ。
二つ先の角を曲がり、横断歩道を渡ってからしばらく直進。次の信号を右折して、あとは道なりにまっすぐ。ルートはすっかり暗記しているので、目をつむっていても陶子の後ろをついていける自信がある。閉眼したら陶子が見れなくなるからやらないけれど。
しかしその自信は、あっけなく潰えた。
横断歩道を越えてから、いつもなら十分近くは真っ直ぐに進むはずなのに、今日は五分もしないうちに角を左に曲がってしまった。学校とは逆の、最寄駅のある方向だ。
まさかと思ったが、予想は的中した。
駅から学校まで続く大通り。その途中の電柱に、背中を預ける女子高生が一人。
「おはよ、陶子!」
茶髪のウェービーボブが、ふわりと揺れる。ぱっちりとした瞳が、陶子を捉えていた。
「百、おはよう」
腰まで伸びた漆黒の長髪が、手を振るようにさらさらとなびく。
松山百。陶子の友達第一号。
大通りの左側に、二人で並んで歩く。
犬の散歩をする青年とすれ違う。振り返った秋田犬に、松山百は小さく手を振る。犬が足を止め、飼い主も振り向いた。松山百は我慢できないというように、しゃがみこんで犬の頭を撫でた。陶子はその様子を中腰でただじっと眺めている。カバンに潜めたナイフで突き刺すことも、催涙スプレーを吹きかけることもない。
陶子はいつも一人で、前だけを向いて歩いていた。よそ見もせず、脇目もふらず、一切の情報を情報として認識しようとはしなかった。
桜が散って、すっかり葉桜に変わってしまったことにも興味を示さない。目の前で母親とはぐれた子どもが泣き出しても手を差し伸べようとはしない。アパートの向かいにある、何十年も続いていたクリーニング店が先週閉じたことだって、そこに建物があったことすら認識していなかっただろう。
何かを知ったり、誰かとつながったりすることは、同時にそれだけ失うものを得るということだ。陶子はその痛みを、自らの家族で味わっている。だから、分厚い殻に閉じこもり、何も聞こえないよう、見えないようにしてきた。
その殻を松山百は、たやすく破ってしまった。
陶子の両親でも、親戚でも、教師でも、もちろん僕でも立ち入れなかった領域に、今は二人の人間がいた。
東陶子と、松山百。
昨日、ドーナツ店でぼんやりと考えていたことが再び頭をよぎる。
僕はいつまで、この生活を続けるのだろうか?
もちろん、嫌気がさしたとか、罪悪感に駆られたとか、松山百に対して嫉妬を抱いたとか、そういうことではない。今の僕の役割を誰かに譲るつもりはないし、松山百に全幅の信頼を抱いているわけでもない。松山百が何らかの理由、たとえば学校生活を円滑に送る上で陶子を利用しようと画策している可能性だって否定できないのだ。
それは同時に、大した理由がなかったのだとしても、生涯の友になりうるという意味でもある。腐れ縁というやつだ。三年間ずっと同じクラスとか、進学先が一緒だとか、同じ業種に就職するとか、それくらいの偶然は起こりうる。たまたま高二の時に親交を持った人間が、友として、ライバルとして、仲間として、心の支えになることだってある。
松山百がいずれ、陶子と固い絆を結んだその時には、選択肢の一つとして、今の生活から引退することを考えても悪くないのかもしれない。
もちろんそれは今すぐの話じゃない。今日明日とか来週とかでなく、遠くない未来、だ。
名残惜しそうに犬と別れた後、松山百はパン屋をガラス越しに覗いたり、コンビニで朝からおでんを買い食いしたりと、せわしなかった。きっと小学校時代は通信簿に「落ち着きのない子」と書かれていたに違いない。
おかげで二人は始業ギリギリの登校となり、最後の方は駆け足となっていた。カーブミラーに映る松山百は楽しげで、陶子も決して悪い気分であるようには映らなかった。
その様子を最後まで眺めていた僕は必然的に、人生初の遅刻をすることとなった。
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