第5話:驚愕

 明けて月曜日、僕は驚愕した。


 五時間目が終わって、僕は陶子のいる学び舎へ走った。彼女の通う高校は、毎日必ず六時間目まで授業がある。だから僕の学校で五時間目が終わってから急いで向かえば、下校時間に間に合うのだ。


 今日も陶子は仏頂面を引っさげたまま、いの一番に一人で下校……ではなかった。


 最初に出てきたのは、あか抜けていない女の子。おそらく一年生だ。その後、二人組の男子、単独男子、二人組の女子と続く。陶子が出てくる気配はない。元気に登校したのはこの目で確認したので、病欠ということはない。もしや早退したのだろうか。今日は体育はないはずだし、怪我をしたとは思えない。


 早退の理由をあれこれ頭の中でこねくり回していると、生徒用玄関から陶子が現れた。


 ただし、二人で。


 足並みがたまたまが一緒なだけ、というわけではない。肩を並べて、歩幅を合わせて、そのまま校門を出た。


 陶子は女の子に、ぎこちない微笑みを浮かべながら話しかけている。隣の子も陶子に対し楽しそうに応えている。まるで、友達であるかのように。


 校門を出て左右に別れることもなく、二人は同じ道を同じ歩幅で歩んでゆく。僕は例によって、十メートル背後から、その様子を窺う。


「じゃあ今から、一緒に行こうよ」


 陶子の隣に立つ、同じクラスの松山百まつやまももはにこやかに提案する。陶子と同じクラスの人間は、一通り名前は覚えてある。


 これまで陶子と、松山百に交流はなかったはずだ。せいぜい化学実験で同じ班になったことがあるくらい。


 松山百。茶髪のウェービーボブで、陶子よりも一回り小柄な女子。ぱっちりとした瞳が印象的だ。まつ毛も長く、かといってメイクが濃いという印象もない。


 運動神経も、テストの成績も、中の下といったところだ。進級から数週間経った今頃になって、「自然に」友達になるとは思えない。何らかの話しかけるきっかけがあって、そこから親しくなったと考えるのが妥当だろうか。


 女の友情というのは一筋縄にはいかないという。それでも傍から見るには、陶子と松山百はただの友達同士にしか映らない。


 この一日で、いや半日間で、僕が目を離した隙に何が起きたというのだ。


 平日の学校終わり、二人はそのままドーナツ店へと吸い込まれていった。


 松山百はエビグラタンパイとアップルパイを、陶子はフレンチクルーラーとオールドファッション、それとホットコーヒーを注文して窓際のカウンターに腰を下ろす。僕も陶子と同じものをトレイに載せ、少し離れたテーブル席につく。


「今日の現文の宿題、面倒くさすぎだよー。『時間割変更で次の授業は木曜日になったから、大丈夫だよな!』じゃないっつーの! あたし国語苦手なんだよー」

「私も」

「東さんはこないだの中間テストで学年上位だったじゃん!」

「あれは他の教科が少し良かっただけだよ。国語関係は松山さんより点数悪いと思う」

「百でいーよ。あたしも陶子って呼ぶから」

「……うん。じゃあ……百」


 頬を少し赤らめ、恥ずかしそうに口元を動かす。松山百はそれを見て、にひひと快活に笑う。


 なんなんだ、これは。


 フレンチクルーラーにかぶりつきながら、耳を背後に集中させる。窓ガラスに反射した二人は、等間隔で並んだ椅子を他より少し近づけている。そこは二人だけの世界で、僕が見つかる心配も、立ち入る隙間もない。


 やはりカバンに盗聴器を仕掛けておくべきだったのかもしれない。たった一日でこのような事態が起きると誰が予測できただろう。陶子に友達ができるなど、はっきり言って異常事態だ。


「でもさ、正直なところ、陶子ってもっと怖い感じだと思ってた。クラスで誰とも話さないし、ホームルーム終わったらすぐ帰っちゃうし」

「別にわざとそうしてたわけじゃないよ。単に話しかけるきっかけがなかっただけで」


 嘘だ。


 陶子は家庭のことがあってから、他人と近づくことを何より拒絶していた。同性・異性を問わず、徹底的に人間を遠ざけていた。幼いころの陶子を直接的に知らないとはいえ、この一年陶子の生活を追い続けてきた僕だからこそ、断言できる。


 これまで陶子はずっと一人で、これからもそのはずだった。


 今日の時間割は一時間目から日本史、科学、三・四時間目に調理実習が続いて午後は世界史、現代文。距離が縮まるきっかけがあったとすれば、家庭科の調理実習だろう。今年度に入ってからは初の実施だ。同じ班になった二人は作業をしているうちに意気投合したのだ。


 おそらく、松山百の方から陶子に近づいたのだろう。たとえ必要性があったとしても、陶子から他人に声をかけることなどめったにない。


 一人暮らしをしている陶子の料理の腕は、同世代と比べればそれなりにある方だ。普段はカット済みの冷凍野菜を多用して包丁はあまり扱わないが、皮むきくらいはできる。レシピがあればちゃんとその通りに作れるし、「びっくり水」や「アルデンテ」といった言葉の意味も正しく覚えている。


 そういえば、松山百の実家は食堂だった。駅の裏手にあるサラリーマン向けの、ボリューム重視のメニューが揃った店だ。ならば休日に接客を手伝ったり、調理補助に回ったりしたこともあるだろう。


 僕の推理はこうだ。調理実習でたまたま同じ班になった二人は、豚汁なりハンバーグなりを作ることになった。メインの調理はこの二人が担当し、他の班員は食器の用意や火にかけた鍋を管理するサポート係だ。


 手際よく野菜の皮をむき、切っていく陶子。ニンジンはいちょう切り、ゴボウはささがき、ハンバーグに入れるタマネギはみじん切り。てきぱきと野菜を分解していく陶子に、松山百は「普段から料理をしているのか」と尋ねる。それに対し親が離婚していること、一人暮らしをしていることを調理の傍ら、淡々と答えるのだ。あるいは、あえて気まずい空気にすることで会話を中断させる狙いがあるのかもしれない。


 しかし松山百は、陶子が目の前で掘った溝をやすやすと飛び越えた。食事中も、片付けの間も、残りの昼休みの間も、陶子に積極的に話しかけた。


 放課後、いつも通り真っ先に教室から出ようとする陶子に、松山百は一緒に下校することを提案した。はじめは嫌々だった陶子もやがて観念したのか、あるいは親しみを抱いてしまったのか、それを受け入れ、今に至るというわけだ。


 目の前のドーナツを平らげても、どちらも席を立つ様子はない。会話のすべてを聞き取ることは困難だが、学校の話題を継続しているようだ。


 もし今日をきっかけに、陶子に友達ができたのだとすれば、喜ばしいことだ。


 人は一人では生きていけない。親子関係をまともに機能させることができていない陶子が、高校に通いながら一人暮らしをしているのは、親戚や役所の援助があるからだ。これまで学校で孤立していたのだとしても、少なからず教師のサポートはあったはずだ。本当に一人の人間なんて、どこにもいない。陶子が抱える不満を受け止め、陶子が感じた喜びを共有してくれる理解者は、今の陶子に必要な存在なのだ。


 このまま二人の関係が継続してくれれば、いずれ僕も「コーヒーのお代わりはいかがですか?」


「……ああ、いただきます」


 店員のお姉さんがにっこりと笑い、ポットを傾ける。真っ赤なカップに、黒い液体がなみなみと注がれてゆく。


 思考が湯気とともに霧散する。


 ごゆっくりどうぞ、とお姉さんは去っていき、またすぐ近くのテーブルに座るカップルに声をかける。実に仕事熱心だ。


 おっと、僕が見とれるべきはこっちじゃない。


 視線を向けると、そこに陶子の姿はなかった。カバンは置いてあるが、トイレだろうか。


 青と赤の男女が並ぶマークの方を見やる。すぐに陶子が現れ、慌てて視線をコーヒーへと戻そうとした。


 ハンカチで手を拭う陶子の手から、光る何かが零れ落ちた。

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